カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルター宗教改革の評価 ー マルチン・ルター(3)

2020-03-17 10:55:25 | 神学

 キュンクのルター論(神学講座2020)の続きである。前回、キュンクは、カトリックとプロテスタントはどうしたら共に集うことが出来るか、と問うた。だが、この問いに答えるためには、両者は結局どこで対立しているのかをまず知らねばならない。神学的対決点はなにか。キュンクの整理の仕方は興味深い。

Ⅷ 神学の基準

 中世の教会の「義化」理解が単純に非福音的だったわけでなない。他方、ルターの「義認」理解も単純に非カトリック的だったわけではない。キュンクは、その違いは「ある微妙な色合いの違い」(219頁)だという。
 だが、ルターは宗教改革の対決点を明確にした。ルターの義認論、サクラメント論、神学全体はただ一つの主張に基づいている。つまり、「教会と神学がキリストの福音に立ち還っていくこと」だ。この視点が共有できなければ、教会はルターと対決することは出来ない。
 なぜなら、神学の基準は「聖書」だからだ。教父神学、スコラ学、トリエント、新スコラ主義のどれも大事だろう。だが、聖書に較べれば二次的なものにすぎない。聖書こそ原初のキリスト教の使信であり、ギリシャ教父も、ラテン教父も、中世の神学者も、トリエントの師父たちも、新スコラ主義の神学者も、みなこの聖書に依拠している。
 いかにもキュンクらしい整理の仕方、主張である。そしてキュンクは言う。だから、ルター自身の教説も、みずからの主張の背後に聖書の裏付けを持っているかどうかが問われなければならない。

Ⅸ ルターの正しかった点

 ルターは基本的出発点において新約聖書を背景に持っているか。かれの義認論を見れば答えはイエスだ。特にパウロを背後に持っている。ルターの義認論の特徴は以下の3点だ。宗教改革の3原則と呼ばれることもある。非常に重要な、著名な、宗教改革のテーゼだ。

新約聖書によれば、

①「義認」とは、主観的なプロセスではなく、神の決定であり、神は人間をキリストにおいて義と宣言し、現実に義とする
②「恩寵」とは、魂の質や習慣(ハビトゥス)(1)ではなく、神の生ける愛と慈しみである
③「信仰」とは、知的な働きではなく、人間が神に全人的に信頼し、献身することである

 現在のカトリック神学はこういうルターの信仰義認論を偏見なしに素直に承認するようになってきている。キュンクの言を俟つまでもなく、カトリック教会のこの変化と成長はすなおに評価されねばならないと思う。では、この変化はどうして起こったのか。それは以下の理由による。

①カトリックの聖書釈義が飛躍的に進歩した
②トリエント公会議の諸命題の時代錯誤性が第二バチカン公会議によって明らかになった
③第二バチカン公会議によって新スコラ神学が無力であることが明らかにされた
④第二バチカン公会議がエキュメニズム(教会一致)の可能性を開いた
⑤カトリックとプロテスタントの間で義認論の解釈の違いは、解消不可能な教会分裂をもたらすほど大きな相違ではないことが明らかになった

 これは、パウロの義認論とルターの義認論に違いはないということではない。よく言われるように、ルターの義認論は「個人主義的な平板化」の傾向が強い。だが、だからといってカトリック神学とプロテスタント神学が義認論で対立することはなくなった。義認論の違いは教会を分裂させるものではなくなっている(2)。

 ここでキュンクはローマの教皇至上主義批判を激しく展開する。神学的対立は無くなってきているのに、ローマは宗教改革の根本的主張 ー教皇は聖書の上に立たずー を認めようとしない。キュンクは、ローマの教会構造がもたらす「精神的・反動的な独裁」のせいだと主張する(3)。ルターが福音から出発して何を望んだかをローマは理解できていないというわけだ。厳しい批判である。

Ⅹ ルターの宗教改革の問題をはらんだ帰結

 ルターの宗教改革運動は巨大な波として拡大した。運動は、ドイツのみならず、リーフラント(バルト海東岸の旧ドイツ植民地)、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ノルウェーと拡大する。スイスでもツヴィングリによって、あとにはジャン・カルヴァンによって、よりラディカルな運動が始まった。
 だが肝心のドイツはカトリックとプロテスタントの二つの「教派」に分裂してしまう。トルコが神聖ローマ帝国の脅威になる事態を目にしながら、ルターはこの運動の進展に深い「失望」を感じる。ルターは何に失望したのか。

①宗教改革の感激が燃え尽きてしまった。共同体の生活は昔のままだったし、人々は「キリスト者の自由」にふさわしくは成熟しなかった。ローマの統治機構の崩壊とともに、教会的な支えもなくなってしまった。ひとびとは、宗教改革によって人間がどれほど立派になったと言えるのだろうかと自問し始めた。
②宗教改革への政治的抵抗勢力が強大化した。1530年代には、アウクスブルク帝国議会での和解の失敗以降、宗教改革は拡大する。しかし1540年代にはカール5世が介入してきて、結局シュマルカルデン戦争で敗北する。1555年アウクスブルク宗教和議によってやっと支配領域の教派的分裂が固定化される(4)。
③プロテスタントの陣営自身が「左派」と「右派」に分裂し、統一を守れなくなった。

 

アウクスブルクの和議

 

 ルターはこういう悲劇的状況の中で、人生の最後の数年間を迎えることになる。

ⅩⅠ 宗教改革の分裂

 「ルターは諸霊を呼び起こした」(228頁)。宗教改革運動は「右派」と「左派」に分裂し、ルターは左右の敵に向き合わねばならなかった。右にはローマの体制を盾に取る「教皇主義者」がおり、左には狂信的な宗教的主観主義をとる「熱狂主義者」がいた。
 熱狂主義者とは、画像破壊運動、聖霊体験運動の実践者たちだ。煽動者はトマス・ミュンツァーだ。宗教改革を暴力で貫徹し、「千年王国」を実現しようとした。ドイツ農民戦争(5)だ。農民たちはルターの教えを自分たちの政治的・社会的要求に結びつけようとした。いろいろないきさつの後、農民蜂起の報告に驚いたルターは、なんと諸侯に鎮圧の勧告をし、当局の側に身を置いたのである。10万人の農民が虐殺されたという。キュンクは「宿命」と呼んでいるが、ルターはあまりにも軽率だった。
 キュンクは問う、農民たちの改革への希望、新しい秩序への理想は間違っていたのだろうか。トマス・ミュンツァーが、フリードリヒ・エンゲルスが、エルンスト・ブロッホらがこのあと激しくルターを批判していく。

ⅩⅡ 教会の自由?

 では、宗教改革の「右派」とは誰か。それは結局、教皇権力と領主権力だ。
ルターが打ち出した「自由なキリスト教会」という理想はドイツ帝国では実現しなかった。確かにルターは無数の教会を教皇庁の「捕囚」から、つまり教皇の支配と財政的搾取から、解放した。だがそれはルターの「二つの王国」という教説を生み出した。ルターはローマと熱狂主義者という左右の敵に直面して、両方の敵に対峙するために「領主」に期待した。カトリックの司教がいなくなると教会は混乱する。ルターは「諸侯」が司教の役割を引き継ぐべきだと主張した。領主による教会支配が正当化された。二王国説だ。ルターは、教会を国家の下に位置づけ、世俗的事柄に関しては市民は国家に従順であるべきだと説いた。この説のため、後年ヒットラーの全体主義支配に対してもルター派教会の抵抗は弱かった(6)といわれる。
 つまり、ルターの宗教改革は、世界史の教科書がよく言うように、宗教の自由とフランス革命への途を準備したわけではない。むしろ、君主による絶対主義的支配と専制政治への途を準備したのだ。近代社会は宗教改革のあともう一つのパラダイム変換を必要とする(シュライエルマッハー)。

 キュンクはルター論を閉じるにあたり、三つの、有名な、偉大な、ルターらしい言葉を引用している。

①『キリスト者の自由』の結論部分
「キリスト者は自分自身のうちに生きるのではなく、キリストと自分の隣人のうちに生きる。すなわち、キリストのうちには信仰を通して生き、隣人のうちには愛を通して生きるのである」

②ヴオルムス帝国議会での表明
「私は先に自分で引用した聖書の言葉に拘束され続ける。私の良心が神の言葉に捕らえられている以上、私は撤回することは出来ないし、それを欲しもしない」

③『卓上語録』
「聖書を十分に理解したという者は誰もいないと思う・・・むしろ深く崇拝しつつ、彼らの足跡を追って歩きなさい。私たちは乞食なのだ。それは本当だ」

 まるで、キュンク自身がローマに向かって語っているような引用である(7)。


1 ハビトゥス Habitus は本書では「習慣・状態」と訳されている。社会学ではP.プルデュー(1930-2002)がこの概念を復活させて「文化的再生産」のメカニズムを説明した。幅広い概念なので訳語ではなくそのまま用いられることが多い。
2 キュンクのこの断定は現在から見れば少し楽観的に聞こえなくもないが、キュンクがいかに第二バチカン公会議を高く評価していたかがよくわかる。だからこそ、第二バチカン公会議の成果を否定しようとする一部の勢力にキュンクが激しく対抗してきたとも言えそうだ。
3 キュンクは明言しているわけではないが、これが執筆時期から見てヨハネ・パウロ二世を指していることは明らかだ。キュンクが現在の名誉教皇ベネディクト16世の批判者であることも広く知られている。
4 領主の宗教が領民の宗教になるという原理のこと。逆に言えば、どちらの宗教にも属さない者はこの宗教和議から排除されることになる。
5 ドイツ農民戦争(1524-25)の詳しい経緯は別として、ミュンツァーの反乱が失敗したあと、南ドイツの農民たちはルター派を離れ、カトリックに戻っていく。ドイツの宗教地図の原型ができあがる。
6 ルターは晩年の説教においても、ユダヤ人について口汚く述べているという。後年の国家社会主義者たちは、ユダヤ人憎悪の扇動のためルターを引き合いに出したという。残念だがルターも時代の子だったとしか言えない。また、ルター派教会(ルーテル教会)といっても一枚岩ではなく、教義上の違い、エキュメニズムへの対応の違い(1999年のルター派世界連盟とカトリック教会との義認に関する共同宣言への賛否)などがあり、現在はルター派と一言で言うのは難しいらしい。
7 パーキンソン病に苦しむ現在85歳のキュンクは最近発刊したばかりの著書で、PAS(physician-assisted suicide 自殺幇助)は信仰に矛盾しないと述べているようだ。だが、かれが「希望の光」(a ray of  hope)と呼んでいるフランシスコ教皇さまがそれをすぐに認めるとも思えないが、どうだろうか。

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