カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

麹町教会 vs. 関口教会

2020-06-28 13:43:36 | 教会

 今日は年間第13主日である。自分の教会のミサには次の順番が来るまで参加できないので、
麹町教会(聖イグナチオ教会)の配信ミサ(ネット公開ミサ)に出た。前回まで関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)にでていて、麹町教会のミサは久しぶりであったので、印象の違いを記しておきたい。

福音朗読の箇所はマタイ10:37-42。聖書の小見出しは「平和ではなく剣を」(新共同訳)、「平和ではなく分裂」(フランシスコ会訳)と、厳しい。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(10:38)。

 麹町教会は信徒数1.6万人以上と日本一大きい教会だ。外国語のミサは、英語・スペイン語・
ポルトガル語・ベトナム語・インドネシア語・ポーランド語であげられ、籍は置いていないがミサに与る外国人も多いと思われる。

 関口教会は信徒数は2200人位で少なくはないが、長い歴史を持つ東京カテドラルだ。所属する司祭の人数、小聖堂の数、告解室、泣き部屋、ホーリーショップ、図書室、集会室、クリプタなど、二つの教会を較べるとその違いは興味深い。特に社会的影響力の方向性の違いに気づかされる。東京教区の信者さんで訪ねたことのない人は少ないだろう。いずれ機会をみて整理してみたい。


(麹町教会)

 

(関口教会)

 菊池大司教の今日の説教は、ミサはまだ完全再開ではないという話から入られた。確かに東京ではまだ感染者が連日一日あたり50人を超えているようだ。

 お説教は、「十字架とはなにか」が中心テーマの話しのように聞こえた。
十字架は、「苦しみを受けてひっそり生きていく」、重荷・苦しみのシンボルなのか。そうではない。それは、福音宣教の呼びかけであり、しかも言葉によるそれではなく、行動、愛の行動による福音宣教の呼びかけであると言われた。フランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ』を引用して、「ライフスタイルを見直すチャンスを与えられていると理解しよう」と述べ、いつものように格調高い話であった。

 麹町教会のミサの司式はグエン・タン・ニャー師であった。日本語とベトナム語のミサの時間が入れ替わって、日本語ミサが10時からになった。初めに英師から紹介があった。ベトナム出身で協力司祭とのことであった。若い司祭による、初々しいミサで印象深かった。
 YouTubeによるミサの中継には、手話による通訳が入っていて驚いた。日本語ですら難しい祈りや典礼文をどのように表現するのか興味深かったが、わたしにはさっぱりわからなかった。また、画面に文字が表示されていたので「聖書と典礼」が手元になくともミサについて行けたのはよかった。聖堂では聖体拝領も普通に行われていたようだが、事前申し込みした方のみのようであった。映像でしか見れないわれわれにはカルメル会の『祈りの友』の霊的聖体拝領の祈りが映し出されていた。良いアイディアだと思った。

 ニャー師の説教は丁寧だった。「わたしよりも父や母を愛する者も、わたしにふさわしくない」というイエスの言葉を、戸惑いながら一生懸命理解し、説明しておられる姿に心を打たれた。将来の教会がこういう若い元気な司祭によって支えられていくのだと思うと、なにか励まされた気分になった。
 鈴木勁介師が今日の主日に読んだ川柳はこうだ。「愛されて 遣わされている 参ったな」。教区司祭の実感なのかもしれない。ニャー師が鈴木師のこういう心境に達する日が近いことを心から祈った。

 

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