今日3日は日曜日でご公現だ。「主の公現」の祝日だが、ご公現祭といったほうがわかりやすい。ご公現祭が日本では今年はなぜ3日で、日曜日なのか、考えてみた。
1月2日の土曜日の昨日に、分散ミサの順番に当たっていたので4時からのごミサに出た。日曜の今日は出られない。
昨日は快晴の寒い日で、出席者は20数人だった(1)。今年は1月3日が「ご公現の祭日」(「主の公現」)だ。信者の「守るべき祝日」だからだ(2)。
ご公現の祝日について少し考えてみた。1月6日が公現祭のお休みではない日本のことを考えてみた。 日本では1月6日は休日という習慣はない。そういう感覚もない。日本の暮れから正月にかけての休日はだいたい12月29日から1月3日くらいまでというのが普通の感覚だろう。正月三が日が終わってすぐに6日が休みという感覚はない。日本ではご公現祭は主日(日曜日)に移されている。日本の文化、日本人の生活習慣に合わせた移動なのであろう(3)。
ヨーロッパなどキリスト教国では、州による違いはあるにせよ、25日のクリスマス、1日の聖マリア、6日のご公現がお休みという習慣、感覚があるようだ(4)。
ご公現とは何なのだろう。今日の福音書はマタイ2:1~12が読まれる。いわゆる東方の三博士がベツレヘムに生まれたばかりのイエスを訪ね、黄金・乳香・没薬の贈り物を届けるシーンだ。つまり、イエスが東方の(ユダヤ人ではない)異邦人に「現れる」ことだ(5)。
でも、これは、ご降誕のことでもある。福音書により描き方は異なるとはいえ、シーンは同じだ。ではなぜ、別々の祝日になっているのだろう。これはこれで興味深いテーマのように思える(6)。
昨日の神父様のお説教は力が入っていた。ベツレヘムは片田舎だ。かってダビデが出た村とはいえ、時代がことなり、寒村だ。そんなところに人類の救世主が生まれるなんて想像できない。でも旧約にはすでにそう書いてある。そして人々はずっとそう信じてきていた。そしてイエスがそこに生まれた。(イエスの活動はエルサレムが中心だ。イエスの審問・死・復活はエルサレムでの出来事だ。) いまわれわれはコロナに苦しんでいる。でも、いつ、どこからか、思いもかけない形で、「希望」が届けられるかもしれない。「主の公現」日では希望を持ちましょうという、よいお話であった。
注
1 お御堂はあまりにも寒かった。ドアも窓も全開。エアコンは入っているが何の役にも立たない。出席者はみな老人だ。これではコロナどころか風邪を引きかねない。「角を矯めて牛を殺す」ことにならなければよいが。
2 公現という言葉は一般的にはあまりなじみがない。意味がピンとこない人が多いのではないか。「広辞苑」はさすがで、「公現祭」で載っている。
ご公現は教会では重要な祝日の一つだ。教会暦(典礼歴)がわからないと、その意味がはっきりしない。
カトリック教会の典礼歴は複雑でわかりずらい。「典礼歴」には「季節」と「年間」がある。季節でいえば今は降誕節だ(教会暦的には新年でもクリスマスはご公現まで続いている。教会のクリスマス・ツリーの撤去は遅い)。年間はご公現と主の洗礼の後から始まり、四旬節まで続く(その後も繰り返される)。
「主日と祝日は聖としてミサ聖祭にあづかること」と規定されている。主日とは日曜日のことで、キリストが復活したことを祝う。週日とは月曜日から土曜日までのことをさす。主日と週日には「周年」がある。今年はB年だ。
「祭日」と「祝日」の区別はよくわからないが、祭日の方が大事なようだ。このほかに聖人などの「記念日」もある。
「斎日」には「大」と「小」があり、大は「灰の水曜日」と「聖金曜日」、小は毎金曜日(祭日を除く)だ。
難しいのは、祝祭日に「移動祝祭日」があることだ。日にちが固定されている祝日(固定祝日)と、年によって日にちが変化する「移動祝日」がある。例えば、クリスマスは固定だし、イースターは移動する。
教会では「守るべき祝日」は10個ある。日本ではわずか2個のみが守るべき祝日だ。
日本では、「国民の祝日」は16回ある。どれも休日だ。「元日・成人の日・建国記念の日・天皇誕生日・春分の日・昭和の日・憲法記念日・みどりの日・こどもの日・海の日・山の日・敬老の日・秋分の日・スポーツの日・文化の日・勤労感謝の日」の16個。移動祝日もある。特に今年はオリンピックが予定されており日程は変則的なようだ。この休日の回数の多さは世界屈指らしい。良い悪いは別として日本は祝日(休日)が多い。
3 日本はキリスト教国ではないので、典礼はいろいろな部分で日本の実情に合わせて修正されているようだ。繰り返しになるが、日本では「守るべき祝日」はたったの二つだ。12月25日(ご降誕・クリスマス)と1月1日(新年・聖マリアの祝日)だ。
クリスマスは誰でもミサに出るが、さて1月1日の新年はどうだろう。出ない人、守らない人もいるのではないか。お屠蘇気分でごミサに出るわけにはいかない。
私どもの教会では、今年は1日の聖マリアの祝日のミサは中止だった。コロナのせいでミサがなかった。これでは、1日は守るべき祝日でミサ出席は義務だ、と言われてもいかんともしがたい。
なお、カトリック教会の「守るべき祝日」は多い。一応10回あるようだ。
聖マリアの祝日(1月1日)
主の御公現(1月6日)
聖ヨゼフの祝日(3月19日)
主の御昇天
御聖体の祝日
聖ペトロと聖パウロの祝日(6月29日)
聖母の被昇天(8月15日)
諸聖人の祝日(11月1日)
聖母の無限罪のおん宿り(12月8日)
主の御降誕(12月25日)
日本では守るべき祝日が簡略化されていることがわかる。また、固定祝日と移動祝日がある。
なお、「教会暦」における「移動主日・祝日」表はこれとは異なる。「待降節第一主日」から「王たるキリスト」まで15回分くらい載っている。この表を見ると、たとえば、復活の主日は「守るべき祝日」ではないようだ。
なんとも複雑で、教会の典礼係は理解と説明と準備が大変なことと思う。
参考:『イラストで知るカトリック教会生活』(サンパウロ編)
4 これも一概に言える話ではないようだ。キリスト教国でも、国の祝日のところもあれば、州によって違うところもあるらしい。ドイツ、スペインはすぐに思いつくが、フランスでは国の祝日ではないようだ。キリスト教国のアメリカ(U.S.A.)も国の休みではないらしい。ご公現祭とはいわなくとも(三博士の贈り物にならって)プレゼントを交換する休日という感覚が残っている国もあるらしい。
(ご公現)
日本でも、私の曖昧な記憶によれば、第二バチカン公会議以前はご公現のミサは6日に固定されていたような気がする。平日だったら誰でもミサに出るというわけにはいかない。
5 主の公現、ご公現は英語では Epiphany というようだ。カトリックでは公現というが、東方教会やプロテスタントなどでは別の表現を用いているようだ。もともとはギリシャ語で「神々が現れる」という意味だったらしい。キリスト教の中で、イエスが自らを現すという意味に変化したのであろう。
6 ご降誕、ご公現、主の洗礼、は一緒ともいえるし、別ともいえる。30歳くらいまでのイエスの子供時代、青年時代ははっきりはわからないし、イエスの公生活は洗礼から始まると考えれば、この三つが別の典礼歴に分かれてきた理由や背景は興味深い。機会があれば神父様に教えを請いたいものだ。
教会の掟の1番目に、主日と守るべき祝日には、
ミサ聖祭にあずかり、その日をふさわしく過ごすように、というものがあったと思います。
私は、すべての主日(Dominica)と、主日にはならないこともあるけれども、守るべき祝日には、ミサ聖祭に与りなさい、という意味だと理解していました。
ですから、復活の主日も、聖霊降臨の主日も、聖三位一体の主日も、王たるキリストのように必ず主日になるお祝い日も、現在の典礼暦では、「祭日」と等級が付記されていますが、ミサ聖祭に与る守るべき日、と理解していました。
1962年版のMissale Romanum では、ミサの等級を
数字でⅠからⅣまで定めています。
classis prima ~
すべての主日は、必ず、1級主日か2級主日です。
四旬節と待降節のすべての主日は1級です。
この1962年版は、聖ヨハネス23世が認可された、ミサーレです。
(インターネット上に典書のファクシミリのPDFファイルがあったので、また後日ご紹介します。)
その後、1970年にパウロ6世教皇様が、novus ordo として、現行のミサの第一版を出されました。
この版では、ⅠからⅣまでの等級ではなく、
日本語では、祭日、祝日、あと2つはなんと訳されていましたか?「記念」「任意」だったと思います。
このミサの等級で言われる、祭日の下の2番目の「祝日」の表すものと、
守るべき「祝日」で使用される「祝日」の意味は異なりますね?
守るべき祝日の祝日は、ミサ聖祭に与る義務があるお祝い日という意味であり、
「祭日」の下位の「祝日」を指すものではないですね。
なぜなら、12月25日も、1月1日もミサーレの表記では「祭日」ですから・・・。
話を戻しますと、
日本の場合守るべき祝日は2日であると本当によく言われますが、
・ご昇天:
本来は木曜日ですが日本の場合は次の主日に移動させているので必ず日曜日
・御聖体の祝日
同上
で、教会法で守るべき祝日と書かれている10のうち、
かろうじて4つは守るように、と言っているのだと
私は理解していました。
ではまた。
F.バルバロ神父様はその御著書に明確に書かれています。
その話を聞いて、12月25日から40日目を数えたことがあります。
2月2日が40日目に当たります。
その説明で、すべてが解決すると思いました。
教会はもともとは、2月2日まで、御降誕を祝っていたのだと・・・。
オフィチウムで歌われるグレゴリオ聖歌で、マリア様に向かうアンティフォナでは、2月2日を節目として、曲が変わるのです。
ご公現で変わるわけではないのです。
現在のミサーレでは、2月2日は「主の奉献」と訳されていますが、
なんと、J.S.バッハは、
2月2日用 聖マリアの御きよめのためのオルガン曲を書いています。
ロザリオで、
聖母がきよめの式にあずかり、
主を奉献し給いたる・・・に当たる日
のことですね。
マリア様側から見れば、
聖母のおんきよめの日
イエズス様側から見れば、
主の奉献の日
15年くらい前、こちらのブログによくお名前が出ている
J会のI神父様が、
皆さんの教会でも2月2日までクリスマスの飾りを外さない外国人の神父様いるでしょう?
とおしゃっていました。
2月2日外国では今でも華やかに行われている
キャンドルマス、私は大好きです。
長くなり失礼しました。
今日はこの辺で・・・。
わたしは神学は趣味で始めた勉強で、なんの基礎訓練も受けておりません(1)。ましてや典礼は知識も経験も皆無です。子ども時代に「ミサ応え」をしていた人と話すと、若いとき自分ももっと真面目にミサに出ていればよかったと反省しきりです。
このブログはただの日記代わりの駄文ですが、あえていえばカト研(カトリック研究会)の昔の仲間を念頭に置きながら書いています。年寄りの懐旧談みたいなものです。
典礼について、特に第二バチカン公会議以前と以後の変化について(2)、キティさんからこれからもいろいろ教えていただけるのを楽しみにしております。
注
1 はやりの『独学大全』を斜め読みしました。おもしろくはあったのですが、やはり勉強は師匠から寺子屋式で訓練を受けないと雑学になってしまうのではないかというのが印象でした。これは自分への反省です。いまさら神学校に入るわけにも行かずサテサテというところです。
2 『カトリック教会のカテキズム』によると、典礼には「多様性と単一性」、変わってよいところと変わってはならないところがある、民族の文化的表現方法を用いるべきだが文化に従属させてはならない、とあります。言葉としてはきれいですが、具体的な話になると難しそうですね。主祷文もめでたしもあまりちょいちょい変えられると暗記が追いつきません。(Kempis)