カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

クリスマスのホミリア

2020-12-25 12:46:21 | 教会


 クリスマス(主の降誕)の「日中のミサ」にでてきた。「夜半のミサ」「深夜ミサ」はつらいのでここ数年でていない。

 今日のミサは自分の「組」は出席の順番には当たっていないのだが、クリスマスだから良いだろうとルールを無視してでてみた。出席者は30人ほどで、クリスマスだから参加者が多いというわけではなさそうで、通常と同じであった。昨晩の夜半ミサも同じようだったようだ。

 それでも蝋燭は4本灯り、乳飲み子は飼い葉桶に寝ていた。ごミサでは久しぶりのオルガンが奏でられた。「来たれ友よ」を弾いている方もうれしそうだった。神父様のホミリア(1)の時間もいつもよりも長かった。

 日中の主の降誕は「ヨハネ福音書」1:1~18が読まれる。誰でも知っている、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(新共同訳)で始まるところだ。神学的に議論しだしたらキリのない話になる箇所だ。だが神父様は第12節を取り上げて話しをされた。

 「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」

 われわれは、よくはわからないが、信じている。この「信じる力」がどこから来るのかもよくはわからないが、「神秘」ですね、というお話であった。「省エネと神秘」のいつものS節だが、コロナ禍の先を見通した励ましのお話であった。

(聖書と典礼)

 

 それにしても、こういう閑散としたクリスマス・ミサは経験したことがない。来年はなんとか普通のお祝いをしたいものだ。「聖書と典礼」で吉池好高師は、「イエスをくるんでいた布は、コロナ禍の中にある今のわたしたちの日々の象徴のように想えないでしょうか・・・わたしたちと共にいてくださる救い主への希望を新たにしましょう」と言う。師が言われるように、クリスマスは希望をもたらす。


1 「ホミリア」とはいろいろな定義や訳語があるようだが、要は「お説教」のことだ。

 

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