カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

宗教改革500年にあたってー信仰義認論ー(1)(学びあいの会)

2017-07-25 12:56:22 | 神学

 七月の学びあいの会は、ルターの95箇条論題の提示(1517)から500年に当たって宗教改革の意味を考えてみようということで、主にルターの信仰義認論の紹介・説明がなされた。宗教改革記念日 Reformationtag は10月31日という。この記念日はわれわれカトリックにはあまりなじみがなく、むしろ今年は浦上四番崩れの明治維新150周年といった方がピンとくる。いずれにせよ大事な節目の年ということだろう。今日はテーマがテーマだけに参加者が多く15人近かったのではないだろうか。

 今日は、まず、プロテスタントの神学者棟居(むねすえ)洋氏のカトリックO教会での報告「宗教改革500年にあたってールターの信仰義認論ー」(2017年5月)が紹介・説明された。フェリス(プロテスタント系の女子中高)の校長でもあった棟居氏がカトリック教会で講演をしたわけである。ついで、カテキスタS氏が「信仰義認論ーカトリックから-」という報告をされた。棟居報告へのコメントという形をとりながら、カトリックサイドからの宗教改革についての現在の評価の整理とでもいえるものであった。その後質疑応答があり、終わったのは正午近かった。そこで、ここでもこの順番でそれぞれを要約していこう。また、両報告についてのわたし個人の印象を雑感風に述べてみたい。わたしの雑感はまとまりがないうえに長いので、今日のブログは二回に分けて載せてみたい。できるだけ簡潔にと心がけてはいるのだが、整理ができないまま書き連ねてしまうので、内容が支離滅裂の上に長文になってしまい、我ながらあきれ果てている。お読みいただく方にはただただお詫び申し上げるしかない。

 まず棟居氏の報告である。これはネットでも読めるのでご覧いただくのが早いが(注1)、レジュメは、①ルターの信仰義認論とは ②この認識に至った経緯 ③信仰義認論vs行為義認論 ④ルターの信仰義認論の現代における意義 という構成になっている。
①ルターの信仰義認論とは、「人は信仰によってのみ義とされる(正しいと認められる)」という考え。つまり、罪人である人間が義とされるのは、「行い」によるのではなく、「信仰」のみによる、という主張。その教理上の根拠として必ず登場するのがパウロである。ロマ書3:20-22である。「イエス・キリストへの信仰によって、神の義を信じるすべての人を救い、そこに差別はありません」(3:22 フランシスコ会訳)。
②では、「塔の体験」を中心としてルターの生涯が紹介される。「このように、信仰は聞くことから始まります。そして、聞くことは、キリストの言葉を聞くことです」(ロマ書1:17)。神の義は神から「与えられる」ものであり、み言葉と聖霊が一緒に働くという信仰にいたった経緯が述べられる。
③では、義認に関するカトリックとプロテスタント(ルター)の考えの比較がなされる。カトリック教会の贖宥制度は行為義認論の上に成り立っていた。信仰義認の認識に達していたルターはこの考え方を批判し、1517年に95箇条の論題(贖宥の効力を明らかにするための討論)を発表し、宗教改革が始まる。行為義認論の義は、アリストテレス的な「応報的正義」であり、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認論の義とは異なる。信仰義認論の義とは「一方的に」無条件に与えられるものである。
④は棟居氏の現代社会論のようでさまざまか論点が提示されるが、ポイントははっきりしている。聖書でいう罪とは神を侮り、背を向けること。義認とは現代的にいえば、愛・承認・赦し・自由という4つの表現をもって言い換えることができる。特に、他者から承認され、さらに神から正しいと認められること、自分の存在・人格・生の最終保証が与えられることが義認ということである。

 以上のような棟居氏の報告に対して、S氏は以下のような補足説明をおこない、カトリック側の考えを整理された。お二人は個人的には友人ということもあり、この整理は批判ではない。むしろ、ルター派とカトリック教会の歩み寄りが近年急速に進み、意見の対立は解消しつつある点を強調されていた。
 S氏はまず、神義論(Theodicy、Theodizee)から入られた。神は万能なのに、世界にはなぜ悪と不公正が存在するのか、という問いである。皆で、イザヤ42:6,45:8
を読んだ。第二イザヤ書である。主の僕の話である。神はイスラエルの民の罪にもかかわらず契約を実行し、イスラエルを救う。
 続いて、義化論・義認論(Justificatio,Justification,Rechtfertigung)に入る。話の中心はパウロだ。行い(善き業)ではなく、信仰によって義とされると主張するロマ書(3:21~26)、愛の実践の重要性を説くガラテア書(ガラ 5:6)、善い行いの実行を説くエフェソ書(2:10)などを共に読んだ。カトリックにとっての義化とは、人間(罪人)側からの応答とそれに伴う内面的変化(聖化)を含むもものであり、プロテスタントの理解のように神が一方的に与えるものではないと考えることを確認した。カトリックは聖化を強調し、「義人と化する」という意味で義化という言葉を選ぶのだろうか。プロテスタントは「義と認めてもらう」側面を強調するから義認という言葉を選ぶのだろうか。なぜこういう訳し分けが行われるのかわたしにはわからない。
 ついで、ペラギウス論争(アウグスチヌス対ペラギウス)を中心に古代教父たちの「恩恵論」(恩寵論)が説明された。神の恩恵なしには救いはない、この恩恵を自由に受け入れることなしに救いはない、というアウグスチヌスの教えが紹介される。ルターはアウグスチヌス会の修道士だったから、こういう恩恵論を好んだようだ。といってもこれはやがてカルヴィニストからは批判されていく考えでもある。参加者の方が、これは鎌倉仏教の「他力本願説」に似ているとコメントされ、少し議論を楽しんだ。
 続いて宗教改革者達の義認論が説明された。わたしにはもっとも聞きたいと思っていた論点だが、S氏はパウロに軽く触れただけで済ませてしまった。どうしてカルヴァンに、予定説に触れなかったのか。カルヴィニズムの評価こそ今日のテーマの中心のはずだがと思ったが、今日の話題はルターに限定されていたから致し方なかったのかもしれない。S氏にもなにか考えるところがあったのであろう。とはいえ残念であった。
 次に、カトリック側の義認論が説明された。まず、トリエント公会議(1545~1568)での「義化の教令」が説明された。カトリック教会は、ルターの95箇条論題のあとも、のんびりと様子を見ていて、公会議を開いて対応を考える、ということができなかった。この間、宗教改革の動きは各国で急速に進んでいく。カトリック側の対応はよく世界史の教科書などでは「対抗宗教改革」とか呼ばれて(さすが「反宗教改革」と呼ぶひとはいなくなったようだが)、トリエント公会議とイエズス会の発足(1534)があげられるが、トリエント公会議はやっと開かれたものであり、しかも開かれても18年もだらだらと続く。そしてそのあと300年間、カトリック教会は19世紀半ばまで、公会議を開く力がなかった(第一バチカン公会議 1869-70)。近代社会に入ったからである。このトリエント公会議での「義化の教令」とはつぎのようなものである。
①イエスの受難の功徳によってのみ人間は義化される
②義化により信望愛の徳が注入される
③人間は恩恵を自由に承諾し、協力し、信じ、悔い改めることによって義化に心を向かわせる、つまり神の恩恵の先在性と人間の自由な協力の両方のバランスが必要である。
 こうして、カトリックの義化論とプロテスタントの義認論はなにか対立するものとして位置づけられてしまった。この神学上の対立は長く続く。この対立の和解は、K.バルトの義認論とH.キュンクの『義認論』(1957)の登場でやっと可能になる。(この辺は現代神学の課題で賛否両論があるらしい。キュンクはこの件でやがてベネディクト16世(現名誉教皇)から叱責されることになる)。
 近代神学では特にヤンセニスムが取り上げられた。ヤンセニスム(ジャンセニスム)とは、アウグスチヌスを研究して教会の改革を図ろうとしたJ.ヤンセン(1585-1638)の教説である。恩恵と予定を強調し、自由意志や人間の功徳を認めない。「恩寵は絶対的に有効・予定は無償かつ無条件」(岩波哲学思想事典)という教説は現代までその影響力が残存しているという。モーツアルトのオペラ「魔笛」の話が出たり、皆さん結構盛り上がっていた。
 最後にS氏はまとめの形で、「カトリックの教理」として以下のような整理を提示された。
①恩恵の無償先行性
②人間の自由な承諾と協力(義化論)
③救いは特定の人に限定されない(ヤンセニスム批判)
④恩恵の働きの普遍性(教会憲章第一章16 ここは「キリスト教以外の諸宗教」と題されている)。
 つまり、カトリックとプロテスタントは教義面で歩み寄ってきており、意見の対立は解消され、表現および強調点の違いはあっても根本的には一致しうると述べられた。例としてキュンクの著作(1957)が言及され、1984年のルター派教会とカトリック教会合同委員会の声明、および、聖公会とカトリック教会の合同委員会の声明(1987)があげられた。S氏のこの理解がカトリック教会の中でどの程度共有されているのかわたしには測りかねるが、カテキスタのなかでは共通の理解なのであろう。
 S氏は最後に補足として「免償について」というタイトルで考えを述べられた。棟居氏はカトリックの行為義認論はカトリック教会の「贖宥制度」に基づいていると述べていたが、カトリックの免償(贖宥)についての説明が不十分だと言われた。宗教改革というとすぐに「免罪符」(贖宥状)をあげてカトリック教会の堕落を指摘する議論が多いが、贖宥とは何なのだろうか。岩波キリスト教辞典は「贖宥 indulgence とは、すでに赦された罪に伴う有限な罰の免除、免償ともいう」と定義している。『カトリック教会のカテキズム』では、「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし」(1471項)とされている。わかりづらいが、「告解」のことを考えてみよう。告解は、①悔悛②告白③ゆるし④償い からなる。簡単に言えば、ゆるしと償いだ。この「赦し」と「償い」の区別がきちんとできないから、免罪符などという誤訳が生まれてしまったのだろう。「赦される」ことと「償う」こととは別物なのだ。S氏は『カトリック教会のカテキズム』からのコピーまで配布して免償の意味を説明された。プロテスタントにはこの告解という秘跡がないのでなかなか理解が深まらないのであろう。といっても告解は習慣でもあるから、カトリック教会でも今日ではきちんと守らない人が急速に増えてきているともいわれる。

注1 http://catholic-i.net/kouen/

 

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