カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

映画「神の小屋」を観る

2017-09-27 10:41:41 | 神学

 本年度制作されたアメリカ映画。原作はベストセラーとなった小説 "The Shack"。 わたしも友人から勧められて日本語訳を読んだ。長い長い小説だが、とてもおもしろかった。小説の構成はスリラー小説風だ。わたしは小説はJ.グリシャムくらいしか読まないのだが、ストーリーテリングはうまい。どうも実際の事件に触発されて書かれた小説らしい。このほど映画化されたことを知り、観てきました。
 映画の日本語の題名は 「アメイジング・ジャーニー 神の小屋」となっている。副題の「神の小屋」のほうがタイトルにふさわしかったのではないか。「アメイジング・ジャーニー」という日本語の言葉に宗教的意味を読み取るのはすこし無理だと思う。
 これは推理小説的なスリラー性を加味した宗教小説と言えようか。映画は原作にほぼ忠実と思えた。FBIの描き方とか、友人の描き方は簡略化されているが。最愛の娘を失った主人公がおそらくはノース・ダコタかモンタナ周辺の山中の山小屋で、「三位一体の神」と対話しながら、殺人鬼への怒りと悲しみの感情を「昇華させていく」話だ。「神」がもろにそのまま登場してくるのだ。神をそのまま描く現代小説なんてあまり聞かないので、「神」って誰だろう、何だろう、どういう顔をしているのだろう、と誰でも思いたくなる。著者の手腕は見事だ。監督も、アッと驚くかたちで三位一体の神を描いていく。
 「主」はまず、「女性」として登場する。しかも黒人だ。「男性」として登場するときはおそらく「ネイティブ・アメリカン」だ。「イエス」はアラブ系の若者だ。そして「聖霊」はアジア人の女性だ(「すみれ」という名前の日本人の女優さんだという。きれいな英語を話していた)。現在のアメリカにおけるエスニシティへの配慮を強く感じた。「主」は白髪のユダヤ人の老人ではない。女性として登場するときは黒人のナニーみたいな感じで描かれている。
 一番印象に残ったのは、いいずらいことだが画像の美しさだ。ストーリーの内容が悲劇と苦しみ、そしてその治癒の話なので、画像の美しさが余計つよいコントラストを作っていた。
 第二の印象は、やはりこの小説はアメリカのプロテスタントが抱く三位一体のとらえ方に見えたことだ。福音主義的といってよいかわからないが、この映画は、「神」は、つまり「三人」は、「いつもあなたと一緒にいてくれている」、という強いメッセージを送りたかったようだ。その試みはそれなりに成功している。しかし私には、神は常に主人公と苦しみを共有している、というメッセージよりは、苦しみや悲劇は神のより大きな計画のなかにある、というメッセージの方が強い印象だった。強調点が少し異なるように思えた。
 第三の印象は、主人公と三人の「神」との対話だ。極めて神学的なテーマが、話題が、次から次へと提供される。例えば、主人公が父親を殺害する、主人公の娘が殺害される。その意味が説き明かされる。主とイエスと聖霊がそれぞれ入れ替わり立ち替わり登場してその意味を話していく。しかもまるで単なるおしゃべりをしているかのように神学的な話をしていく。主人公は娘を救おうとしなかった万能の神をただ責め続ける。だが、三位一体の神はおのおのの視点からその意味を説明する。けれども、わたしにはその神学的意味が正直よくわからない会話が多かった。映画を見終わったあと、なにか心にストンと落ちる感じがなかったのだ。
 とはいえ、主人公が自暴自棄から立ち直っていく姿は、この映画を観る者をほっとさせてはくれた。この立ち直りには、Wisdom (英知と訳されていた)という白人の女性が登場する。彼女は誰なのか、わたしにはわからなかった。三位一体の神ではない。創世記第二章に出てくる「知恵の木」なのだろうか。カト研の皆さんのご教授をいただきたい。
 おそらくキリスト教の三位一体説を知らずにこの映画をみてもあまり強い印象は残さないのではないか。聖書の知識がなければ、主人公がイエスととも湖上の水面を歩くシーンは、なにかの荒唐無稽なファンタジーとしか映らないのではないか。観る者の宗教的感性次第で、いろいろな評価があることだろう。
 宗教映画だが、あまり身構えずに楽しめる映画といってよいと思う。暴力とセックスとカーチェイスしか描けない最近のアメリカ映画を敬遠しておられるカト研の皆様も一度ごらんになられたらいかがでしょうか。

 

コメント (1)
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