第一部の第5・6・7講は、「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の比較なので、別の投稿記事としてまとめてみたい。
第5講は「『使徒信条』と『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』について」と題されている。内容は両信条の特徴の比較だ。
「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の形成の背景の違いとして阿部師は3点指摘している。
まず第一はその歴史的背景の違いだ。「信条」とはミサで用いられる信仰告白の祈りのことをいう。ギリシャ語で口伝えで伝えられていた使徒信条の源は、使徒時代の「使徒たちから受けついだ教えをまとめた信条」、そこから発展して2~3世紀に練り直された「古ローマ信条」の二つだという。現在の使徒信条の形になったのは8世紀だという。古ローマ信条は3世紀には文字化されているようで、洗礼志願者が洗礼式の際に自らの信仰を宣言するために作成されたという。このため、使徒信条は「洗礼信条」とも呼ばれるようだ。
他方、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年の第一回コンスタンティノポリス公会議で制定されたもので、325年のニカイア公会議で決定された「ニカイア信条」を洗練させたものだという。なぜ単に「コンスタンティノポリス信条」と呼ばないのか、阿部師は325年に制定されたのは「原ニカイア信条」と呼ばれ、それと区別するためだとしているが、公会議で制定された点を強調するためのようだ。このため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は「公会議信条」とも呼ばれるようだ。
また、使徒信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条は、生成の背景がことなるという。使徒信条は、外的迫害の中で生み出され、いわば迫害に対抗するための性格を強く持っていた。他方、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、教会の内部分裂を解決するために一致の基準を確定するために制定されたという。キリスト教がローマ帝国で認定されたのが313年だから、その後の環境の変化が二つの信条を作っていったのであろう。
第二点は、両信条の翻訳問題だ。もともと、使徒信条は「私は信じます」と単数形で文章がつづられ、ニカイア・コンスタンティノポリス信条のギリシャ語原文は「私たちは信じます」と複数形で文章が綴られていたという。単数形と複数形。個人の信仰告白と、教会の公的な態度表明。性格の違いは明らかだったらしい。ところが、8世紀にギリシャ語で書かれた「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」がラテン語に翻訳される際に、「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の「私たちは信じます」は「私は信じます」(Credo)の単数形に「改変」されたという。阿部師は「改変」という言葉を使っているが、この改変が神学的にどういう意味を持つのかは詳しい説明はなされていない(67頁)。だが、この改変は歴史的には大きな意味を持つという。つまり、この頃のキリスト教は東ローマ帝国のギリシャ語の世界で発展していた。神学はギリシャ教父の作品だった。古代の公会議はみなギリシャ地域で開催されていた。つまり、今で言えば東方教会こそキリスト教の信仰や神学が整えられていた世界だった。ところが、この使徒信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条の制定に関しては、主導権は、東方教会ではなく、ローマに、西方教会にあった。使徒信条は西方教会のなかで鍛えられてきたという。これは驚くべき出来事だという。
第三点は、従って、使徒信条は「構造」を持つようになったという。使徒信条は[
12の言葉]でできているだけではなく、それらが「構造」をもっており、構造があるからこそ歴史的試練に耐えることができるということであろう。
使徒信条はまず、二つの「部分」からなっているという。第一は三位一体の神への信仰告白、つまり讃美と感謝の祈りの部分。第二は教会共同体への同意の部分、だという。カトリック信仰が結局は三位一体の神への信仰、教会への信仰の二点に収斂すると言われるのはこういう意味なのであろう。少しこの構造の中身をみてみよう。
三位一体の神への信仰告白
1 私は信じます 天地の創造主、全能の神である父を。
2 私は信じます 神の独り子、私たちの主イエス=キリストを。
[①主は聖霊によってやどり、②おとめマリアから生まれ、③ポンティオ・ピラ トのもとで苦しみを受け、④十字架につけられて死に、⑤葬られ、⑥陰府に下り 、⑦三日目に復活し、⑧天に昇って、⑨全能の父である神の右の座に着き、⑩生 者と死者を裁くために来られます。]
3 私は信じます 聖霊を。
教会共同体的な愛のあかし
4 私は信じます ①聖なる普遍の教会、②聖徒の交わり、③罪のゆるし、④から だの復活、⑤永遠のいのち
使徒信条の構造がこういう風に解き明かされ、説明されると、なるほどと感嘆せざるを得ない。
第6講はカテキズム論である。阿部師はカテキズムを「教理書」、「要理書」、「信仰教育書」と訳されている。昔風にいえば公教要理書ということであろう。阿部師は、カテキズムは使徒信条とニケア・コンスタンティノポリス信条の意味を説き明かす書物だという。
現在、日本で我々がもっているカテキズムの本は、①『カトリック教会のカテキズム』(邦語版2002) ②『カトリック教会のカテキズム要約』(邦語版2010)の二冊である。前者は839頁におよび、なかなか一気に読み通すわけにはいかない。日本の場合は、司教団から『カトリック教会の教え』が新要理書として2003年に出されている。だが、これも534頁もあり、付録の「日本の教会の歴史と制度」は便利とは言え、日常的に手元に置いて参照するものでもない。結局、『カテキズム要約』が使いやすく、おそらく多くの公教要理の勉強会(入門講座)で用いられているのではないだろうか。阿部師もこの要約を使って三位一体論の説明を展開していく。
『要約』は『カトリック教会のカテキズム』の精髄を598の問答形式で要約している。「問答形式」の説明は慣れないと取っつきにくいだろうが、長い歴史的伝統もあり、教理の説明に便利である。
二冊のカテキズム書(教理書)はどちらも大きく見て二つの部分からなっている。一つは「原理的な理念の解説」部分で第一編の「信仰宣言」だ。もう一つは「具体的な実践の方途」を示している部分で、第二編の「秘跡」、第三編の「倫理」、第四編は「祈り」、という構成だ。つまり、全体は「4編」からなっていて、構造化している。相互に連動していて、切り離すことはできないという。問答数でいうと一番多いのは、第二編の「七つの秘跡」につづく「イエス=キリストと教会」の部分、250番から356番まで、総計107の問答からなる。次は「十戒」(434番~533番)で総計100の問答という。教会と十戒、これがカテキズムでは重要視されているようだ。
『要約』の第一編が「信仰宣言」を主題としており、三位一体の神への祈りのかたちをとってまとめられているのは、三位一体論が確立した4世紀の教父たちの影響だという。阿部師は特に[カッパドキアの3教父」を高く評価し、紹介している。カッパドキアの3教父とは、修道制を確立したバシレイオス(330-379)、神秘主義者のナジアンゾスのグレゴリオス(325-390)、優れた説教者で(バシレイオスの弟の)ニュッサのグレゴリオスのことで、特に聖霊の神性を強調し、三位一体論の確立に寄与したという。なお、カッパドキアとは現在のトルコ東部の高原地帯で、4世紀頃は東ローマ帝国の東端にあたる地域であったという。
第7講は「カテケージス」の説明である。阿部師はカテケージスを教理講話、教理教育、信仰教育などと訳している。つまり、使徒信条に代表されるカテキズムの源流がカテケージスだという。本格的なカテキズムは16世になって多数作成されるようになったが、その源流であるカテケージスは、4世紀にさかのぼるという。つまり、アレクサンドレイア学派のキリスト教思想家達がカテキズムの基礎を築いたという。師は、エルサレムのキュリロス(315-386)、ニュッサのグレゴリオス(335-394)、アレクサンドレイアのディディモス(310-398)をあげている。313年のミラノ勅令のあと40年後くらい経ってから急速に信仰教育の必要性が高まったようだ。この時期、教会はアレイオス主義に反対し、「ホモウシオス」(父と子の同一本質)説を確立してくる。つまり、「カテケージス、およびカテキズムの発達と三位一体論の確立とは連動している」(80頁)という。
他方,この時期は、キリスト教の理論や理屈よりも、「救いの実感」を求める動きが活発化したという。祈りの重視だ。観想へと向かう神の経験・体験が求められた。こういう考え方は、5世紀のアウグスチヌスに始まり現代までローマ・カトリック教会の立場として大切にされている。神は論ずるものではなく、讃美と感謝をささげるものだ、という考え方だ。こういう考え方は典礼儀式の充実をうながし、さらには神秘主義神学を生み出してくる。阿部師は、こういう考え方は十字架の聖ヨハネの『愛の賛歌』やイグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』にも影響を及ぼしていると述べている。ちなみに、阿部師によると、「祈り」には三つの段階または種類があるという。①口祷 ②黙想 ③観想 だ。口祷は心の思いを唱えること、黙想(meditation)は聖書の各節を味わって祈ること、そして観想(contemplation)とは神と対話しながら祈ることだという(注1)。阿部師は観想こそ「愛の探求の眺め」であり、究極の祈りであるという。阿部師の三位一体論の射程がこういう神秘主義神学にまで及んでいることに驚きを禁じ得ない。
注1
カト研の皆さんもよくご存知のように、ジョンストン師もmeditationとcontemplationの区別を力説しておられた。かれはmeditationには「黙想」より「瞑想」という訳語をあてることを好んだようだが、これは当時の禅キリスト教の影響を受けた司祭達の好みだったようだ。(W.ジョンストン 『愛する』2004 南窓社)