路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

陽ににじる嫌な出来事嫌な奴

2011年10月14日 | Weblog
 
 曇天。寒くなってきた。

 昨日のホイットマンと有島武郎の続きで、谷川徹三『自伝抄』(1992 中公文庫)を出してきて該当箇所だけパラパラと確認する。

                

 大正2年、一高へ入学した谷川は、音楽会や歌舞伎に淫したり漂白の旅に出たり図書館に閉じこもったり、ともかく青春の憂悶の中にあったわけだけれど、やがて親鸞に出会い近角常観の求道学舎に入って心を落ち着かせることが出来るようになる。
 以下、引用。

 「そういう中で私はたまたまホイットマンの『草の葉』をエヴリマンズ・ライブラリーの一冊で手にした。これは私には一つの驚きであった。・・・・・(略)・・・・・ホイットマンが縁で有島武郎を知ったことも当時の私には大きな喜びだった。まだ有島さんが有名になっていないころで、その有島さんから近角先生とは別な、私の一生にとって大きな意味をもった影響を受けた。・・・(略)・・・有島さんの下六番町の家で週に一回、ホイットマンの詩を読んでもらう会 - 後に「草の葉会」と呼ばれた - に私も出席するようになり、自然有島さんに親シャするようになったのである。その会では初め一時間か一時間半、『草の葉』を先生に読んで訳してもらって、あとは自由な放談をするのである。」

 どうやら、まずはホイットマンがあって有島、ということだったようで、その辺は地方の青年と同じだったわけだ。この辺のことは比較文学比較文化的には面白いテーマだろうけど、たぶん論文たくさんあるんだろうね。
 
 『自伝抄』ひさしぶりにパラパラ拾い読みしたけど、ちょこちょこ面白かった。当時の一高では文科のなかでも哲学志望の者には数学が必修だったとか。著者が大学卒業間際にチョコレートの食べすぎでひどい黄疸になったとか。大正中期にチョコレートってのはそれほど一般的だったのか。そもチョコレート食いすぎで黄疸になどなるものだろうか。どんくらい食ったんだというハナシですけど。
 それと、口絵写真の著者晩年の写真が息子そっくりだもんな。

                 

 谷川徹三は昭和の終わりに94歳で死んでいる。当時は随分長生きだなあと思った記憶があるけど、今ならそれほどでもないかもしれない。