聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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2021/4/25 マタイ伝18章21~35節「心からの赦し」

2021-04-24 12:20:32 | マタイの福音書講解
2021/4/25 マタイ伝18章21~35節「心からの赦し」

 このマタイの18章では、イエスが弟子たちに、小さい子ども、小さい者の一人、あなたに罪を犯した人に、心を向けるよう教えている章です。その流れでペテロが21節で聞くのです。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」
 当時、罪の赦しは三回までと教えられていたそうです[1]。それに比べたら、ペテロが「七回」と言ったのは、常識外れの寛容さとも言えるでしょうか[2]。それに対してイエスは言われます。
22…「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
 七の七十倍は四九〇[3]。勿論、「四九一回目からは赦さなくてもいい」ではありません。そうだとしたら、四九〇回も本当は赦していなかったことになります。限りなく、何度であろうと、赦しなさい、ということです。その事を示して23節から譬えが語られます。それは、天の御国、天の神の御支配がどんなものかを、莫大な借金を赦す王に譬える物語です。

 ここに出て来る家来の負債は、一万タラントです。欄外を見ると、一タラントは六千デナリ、一デナリは当時の一日分の労賃。三〇〇デナリとなれば、おおよその年収だとすれば、一タラントは二〇年分の年収です。この家来の負債一万タラントは二十万年分の年収となります。皆さんの年収を二倍して、万を億に置き換えたら想像できるでしょうか[4]。どう使い込んだのか、どう返せるかも想像も付かない負債です。ところが25節で、不思議な事に、
…その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている者もすべて売って返済するように命じた。
 この家来が自分も妻子も全財産を売った所で、一タラントにだってなるでしょうか[5]。しかし、それでいいかのような主君の提案です。あるいはこの家来と家族には、一万タラントの価値があると思っていたのか、と首をかしげます。それでも、当の家来は悪足掻きで、ひれ伏し、
26…主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
 絶対無理ですが、それぐらい自分も家族も身売りなんかしたくない、と猶予を願う。すると、
27家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
 なんと、一万タラントを免除する。ただ借金を忘れて済ませる金額ではなく、王にのし掛かる大負債です。王は給与を大幅に減らしたり、支出を無期限に減らしたりするぐらいの申し出です。それは王が彼を「かわいそうに思って」でした。これは今までも何度も出て来た「腸を痛める」「断腸の思い」というような、深い言葉です[6]。主君はこの家来がひれ伏して懇願するのを見て、内臓を動かされました。だから、借金を免除してやろう、自分の懐を痛めて、自分の生活を質素にしても構わない。それほど王は借金よりもこの家来を見て止まない心でした[7]。
 しかし、この家来がその後すぐ、自分に借りがある仲間を、それも自分が免除された分と比べたら本当に僅かな負債なのに、牢に放り込んでしまった時、王は彼を呼びつけて言うのです。
32…『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。
 先の一万タラントの負債ではなく、仲間を憐れみをもってやらなかったことが「悪い家来」という非難になります。彼の「懇願」は、言葉の上では猶予でしたが、王はその言葉以上の悲痛な叫びを聞き取って、彼の負債を免除しました。それがこの王です[8]。言葉とか問題よりも、人と人との関係を求め、罪が赦されて、壊れた関係の回復を願い、そのための犠牲も惜しまないのです。

 この「べき」は、当然そうなる、そうなることになっている、という事で、道徳ではありません。道徳的な「べき・赦すべき」は全く出来なかった家来を、王は赦しました。その心を受け取るなら、当然、自分も他の人を大切にしないはずがありません[9]。返すべきだ、と責めることを止めて、あわれむことが、当然始まるのです。
35あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
 赦すとは「置いておく」という言葉です[10]。負債を後に置いて、前に進み始めることです。「もうあなたとの間には未払いはありません、貸し借りは一切精算済みです」。そこには「赦してもらったのだから、お返しをしなくては」はありません。赦しは「借り」ではなく、借りがないことなのです。勿論「貸し借りがないから、もうあなたとは関係もない」でもなく、「どんな大きな負債も放り出すぐらい、あなたとの関係そのものが、私にとっては大事なのです」という心が生み出す和解です。
 「心から赦す」。王は家来を、また天の父は私たちを、心から赦されるのです。赦しは神の心からの賜物です[11]。「天の父は、私を心から赦されたのだ[12]」という気づきが原点なのです。「私の一切の負債を赦し、そのためにご自身が負債を肩代わりして、卑しい身に落とすことも厭わない。赦されて、七の七十倍でも限りなく赦される。これこそ私が諦めていたけれど本当に願っていたことだ。本当に嬉しい[13]」そこがまず立つ所なのです。
 こんな赦しは私たちにはまだ出来ません。小さな柵(しがらみ)を捨てることも、大きな蟠(わだかま)りをどう下ろせばいいかも分かりません。でもそのとんでもない赦しを、天の神は、心から私たちに与えてくださったのです[14]。だから、私たちも「何度までなら赦すべきか」「赦されたのだから赦すべきだ。人を赦せないなら赦されなくて当然だ」という考えを手放させていただくのです。本当に主は心から赦してくださった。その驚きを互いに贈り合い、分かち合い、共に祝うのです。

「主よ。七の七十倍どころか、何十万年分の負債をも赦すほど、あなたは慈しみ深いお方です。人には思いも付かない憐れみに生かされています。限りなく立ち直らせてくださる恵みを感謝します。どうぞその愛を受け取り、憎しみや赦せない重荷を下ろさせてください。未だに罪の赦しが信じ切れず、罪悪感を煽るような言葉を他者にも自分にも吐いてしまう私たちを憐れんでください。主の赦しを分かち合う言葉と思いを教え、私たちを恵みの証としてください」

[1] 今も「スリーストライク法」や「仏の顔も三度まで」と言われているのと通じます。

[2] イエスご自身が、ルカの福音書の並行箇所で「七回」と言われました。ルカ17章3-4節「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」しかし、これも、「何度でも」という真意であって、ペテロが杓子定規に理解したように「七回まで」という意味ではないのは明らかです。

[3] 創世記4章には、主が、弟を殺したカインに「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」(15節)と言われた記事があります。カインの子孫レメクはそれをもじって「24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と豪語しました。この「復讐の原理」に行き着いた先が「七十七倍」であることを、イエスはひっくり返して、「赦しの原理」を「七の七十倍」と描かれたという解釈も出来ます。

[4] あるいは、当時のガリラヤの領主ヘロデの年収が五百タラントだと言う方もいます。国の元首の二十年分の給与、それは国家予算を大きく占める巨額です。加藤常昭『マタイによる福音書 3』六三九頁。「もっとも年収二百タラントに過ぎなかったという人もいます。いずれにしても、それと比べたら一万タラントという金額がどれほど大きいかはよく分かります。小さな国家の一年分の予算を何十倍かしなければ追いつかないのです。それに対する百デナリという金額は、その五十万分の一です。」とも書かれています。

[5] この「奴隷」は、現代の私たちが考えるような、非人道的で、男なら酷使、女性なら性的な暴力を当然とされる「奴隷」ではありません。律法は、奴隷を人として扱うことを命じ、もし障害を与えたなら解放すること、そうでなくても七年目には解放することを命じています。出エジプト記21章。

[6] スプランクニゾマイ。マタイでは5回用いられます。9:36(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。)14:14(イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。)、15:32(かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。)、18:27、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」)

[7] 王だけでなく、王のそばにいた「彼(家来)の仲間たち」も「心を痛め」ています。怒りよりも、悲しみです。「心を痛める」リュプトー 14:9(王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ)、17:23(人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らは、たいへん悲しんだ。)、18:31、19:22(青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。)、26:22(弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。)、37(そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。) この「心」が、神の国の原理なのです。

[8] 23節「したいと思う」セロー 三〇節の「承知せず」もセローの否定形です。ここでは、王の意志の変化と、家来の意志の頑なさが対比されています。王の意志は変わりませんが、感情は「かわいそうに思って」「あわれんで」「怒って」「心から」と豊かに表現されています。それは神ご自身が「べき」よりも「心から」動かれる方であることを物語っています。

[9] バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』165~178ページ。「結末は、みなさんのご存じのとおりです。家来は、借金を返済するまで、つまり残された生涯、ずっと牢に入れられます。しかし、この投獄は言葉上のものです。不届きな家来は、すでに鉄格子の中にいたのです、自分で作った鉄格子の中に。赦されることを拒み、赦すことを拒んだ彼は、すでに自分用の小さなアルカトラズを造り、電卓片手に独居房に座り、会計記録をつけていたのです。」(176頁) では、彼がもう一度、王に「私には返せません。赦してください」と言ったら、王はまた出すのではないか。今度こそ、赦されたように赦してほしいから。あわれんだように、彼にも憐れみ深く生きてほしいから。それをまた失敗するだろう、それを何度でも、七度でも、七の七十倍でも…つまり限りなく…繰り返すのではないか。少なくとも、私たちこそは、そうしていただいている、不躾で鈍感な家来の一人ではないか。

[10] 「赦す」アフィエーミ。12節の「九九匹を山に残して」という言葉ですし、重荷を下ろして下に置く、というイメージも良いでしょう。

[11] 「べきデイ」は「するのが当然だ」「しないわけにはいかない」「当然することになっている」「これ以外に道はない」という必然としての「べき」です。「しなければ、罰せられる」というような、道徳的意味ではありません。なにしろ、一万タラントという借金は「すべきでなく」「返すべき」であり「返せないなら、投獄か身売りすべき」ものでしたが、その「べき」を超えたことをするのが「天の御国」なのですから。

[12] 「良きサマリア人」のように、この譬えは、私たちの思いを「自分だったら」に向けさせるよりも、「この王はどう思ったのだろう」と王の心に向けさせます。「私だったら」を言えば、こんな免除は思いつきもしません。だから、同じように人にすることも不可能です。けれども、「王の心」に目を向ける時、王が借金まみれの家来をもあわれんで、大事に思っていることに気づけます。それは、私たちにとって本当に嬉しいことです。そこで「自分がしてほしいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(マタイ7:12)という黄金律に立てるのです。

[13] 「罪の赦し」こそ、してもらって嬉しいことだ! 信じがたいほど嬉しい事だ。だからこそ信じられなくて、今でも、罪の赦しという大きな「借り」を負うているかのように、「赦されて申し訳ない。赦していただいたのだから、赦さなければならない」と、罪悪感をますます重く抱えていることがあるだろう。しかし、主は「心から」赦してくださったのだ。赦したかったから赦したのだよ、あなたとの間に一切の借りはないのだよ、わたしの愛を受け取ってほしいのだよ、と言ってくださっているのだ。

[14] コロサイ書3章12~13節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。13互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

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