聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

2021-04-03 16:35:52 | こども聖書
2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

 聖書のお話しを一つずつ読んでいます。先週は、神様に作られた最初の人、アダムとエバが、蛇の嘘を信じて、神様を疑って、神様との約束を破ったために、エデンの園から追い出されたお話しでした。エデンの園を追放された人は、その後、どんな歩みをしていったのでしょうか。今日はその最初の子どもたちのお話しです。

アダムとエバには、カインとアベルという二人の息子が生まれました。アベルは羊を飼い、カインは畑で働く人になりました。ある日、二人は神様に献げ物をしました。アベルは子羊を、カインは畑でとれた物を持ってきました。神様はアベルの献げ物を喜ばれ、そのことでカインは酷く怒りました。「なぜあなたは怒っているのか。あなたが正しいことをしたのならば、祝福を受けるであろう」と神様は言われました。しかしカインには、神様の言葉が耳に入りません。アベルを野に連れ出して殺してしまいました。神様は再び悲しまれました。「これからはおまえが畑を耕しても何も育たない。お前は地のさすらい人となる」と神様はカインに仰いました。

 さあ、ここでは悲しいことに、最初の死が起きました。エデンの園で
「この実を食べてはならない。食べる時あなたがたは必ず死ぬ」
と言われていた木の実を食べたとき、すぐに二人が死ぬことはありませんでした。しかし、人はいつか必ず死ぬ者となってしまいました。ところが、その最初の死は、アダムでもエバでもなく、二人の子ども、カインの死が、最初の死だったのです。しかも、それは病気や事故ではありません。アベルの兄、カインが殺した殺人でした。アダムとエバは、自分たちがいつか死ぬことは考えていたでしょう。けれども、自分たちではなく、自分の子どもが、もう一人の息子によって殺される、とは思ってもいなかったでしょう。それは、自分たちの死よりも辛いこと、自分たちの心が死んでしまうような出来事だったと思うのです。



 今でも、殺人事件のほとんどは、親族とか面識のある間柄で起きることが殆どです。知らない人にも注意することは必要ですが、知っている同士がこじれてしまうことの方が怖いのです。カインがアベルを憎んだのは、アベルが悪かったからではありません。二人とも神様へのささげ物を持ってきたのです。神様はアベルの献げた羊を受け入れてくださいました。聖書にはアベルの献げたのが、最初に生まれた子どもの、よく太った美味しそうな羊だったと書かれています。そこには、アベルの神様に対する深い礼拝の心が現れています。カインのささげ物は何も書かれていません。神様が、アベルの心のこもったささげ物に目を留めて、カインのささげ物には目を留めなかったとあります。カインはその時、激しく怒り、顔を伏せました。元々カインは、神様に心をこめたささげ物を持ってこなかったのですから、怒る筋合いはありません。あるいは、その時になってハッとして、もう一度改めて、自分の一番良い収穫を取りに戻っても良かったのです。けれどもアベルは、激しく怒り、神様の言葉にも耳を貸さず、神様に怒りをぶつけることは出来ないので、横にいたアベルを憎んで、腹立ちをぶつけて、殺してしまいました。アベルが悪かったのではなく、カインの八つ当たり、とばっちりでした。

 神はカインに言われていました。
「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
 怒ったことを神は責めていません。それよりも「なぜ、あなたは怒っているのか」と言われました。私たちの心に、怒りや妬みが起きたとき、私たちは自分の心に注意する必要があります。罪が、私たちの心に入り込んできて、人を殺したり、自分の人生を台無しにしたり、取り返しのつかない過ちを犯させることがあるからです。神様が「なぜ、あなたは怒っているのか」と問われた時、カインが「どうして自分は怒っているのだろう」と考えて、自分がなぜ怒っているのかを神様に申し上げたら、カインは自分の心を治めることが出来たでしょう。けれども、カインは、怒ったまま、顔を伏せるだけでした。自分が神様に、一番良いものを持ってこなかったのだ。アベルは、一番良い物を持ってきたのだから、神様が目を留めてくださったのは当然だ、怒るのは筋違いだ、そう思うからこそ、アベルは顔を伏せたまま、神様に応えようとしませんでした。そして、カインはアベルを殺してしまいます。決して、そんなことをしても何にもならないのに、心を閉ざしてしまうのです。

 アダムとエバの子孫である私たちも、カインのように怒り、妬み、過ちを犯しかねない者です。だからこそ、神様は私たちにいつも呼びかけてくださっています。私たちは、自分の心に悪い思いが入ってきたと気づいたなら、それを、隠したり放っておいたりせず、神様の元に持って行きましょう。私たちは、自分が間違っていた時、それを認めるのが恥ずかしくて、愚かなことに、誰かのせいにしたり、身近な人を恨んだりしてしまうことがあります。でも、神様はすべてをご存じです。私たちが間違っていたり、神様を忘れたり、怒ったり、自分を恥ずかしいと思ったりしても、神様は私たちを決して見捨てたり、嫌いになったりはしません。神様は私たちを大切に思ってくださり、間違いをただせるように、怒りや妬みには流されないように、助けてくださいます。神様が私のことを、すべてご存じで、愛してくださり、助けて、祝福してくださる。そこに立ち戻ることが、何よりも大事です。そして、神様はそうしなさいと、呼びかけ続けてくださいます。だからこの時も、カインを追いかけて、カインに語りかけ、チャンスを与えて下さったのです。それでもカインは、その神様に心から帰ろうとはしませんでしたが。



 家族や兄弟、とても近い関係は、近いだけに一番ぶつかる関係です。一番、腹も立ち、一番分かってほしい関係です。だけど、家族だって自分の思い通りにはなりません。お互いに、好みや考えや願いの違いがあります。嬉しい事も、腹が立つことも違います。家族でも、気持ちはそれぞれのものです。お互いの気持ちを、我慢せず、押しつけたりせず、お互いに大事にしあう。そうしないと、家族が苦しい場になってしまうことを、カインとアベルの出来事から、深く心に刻まされます。



「神様、あなたは私たちの怒りや妬みや間違いもよく知っておられます。私たちがあなたに自分の問題を持って行くことが出来ることを感謝します。あなたではなく、身近な人に自分の気持ちをぶつけてしまう時、私たちをそこから救い出してください。そして、お互いを本当に大事に、あなたを心から礼拝する歩みへと、どうぞ助け導いてください」
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2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

2021-04-03 12:57:30 | ルカ
2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

 今日はイースター、復活祭。イエス・キリストが、十字架の死の三日目、週の初めの日の朝に復活されたことをお祝いする、一年で一番嬉しいお祭りです。その事は、新約聖書の四つの福音書が揃って伝えている、キリストの御生涯のクライマックスです。今日はルカを読みます。この朝、まだ復活を知らない女弟子たちが墓に来ました。十字架から取り下ろされた亡骸に塗るための香料を持って来たのです。しかしお墓に着いてみると、入り口の石が転がされ、中にあるはずのイエスの体がない。そこに「まばゆいばかりの衣を着た人」が二人、近くに来て、
5「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。6ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」8彼女たちはイエスのことばを思い出した。
 イエスの復活を最初に知らされたのは女性たちでした。彼女たちは復活したイエスを見たわけではありません。また、イエスの復活を期待していたわけではありません。この二人が
「ここにはおられません。よみがえられたのです」
と言ったから、「そうか」と簡単に信じたのでもありません。この二人が
「主がお話しになったことを思い出しなさい」
と言われて、イエスの言葉を思い出した。必ず罪人たちの手に引き渡されて、殺されて、三日目によみがえる、イエス様が仰っていたのはそういう事だったのだ[1]。その事を思い出したのです[2]。

 復活という奇蹟そのものは確かに信じがたい事、途方もない事です。そして、エルサレムの都に来る以前からずっとイエスはこの事を語っていました。ご自分が、人の手に引き渡されて、重罪人か、生きている価値のないかのように十字架で殺されて、三日目によみがえる。そんな途方もないことをイエスはずっと語っていました。この「必ず」という言葉は、神の救いのご計画の中で、こうするように定められている、必然である、という意味の言葉です。イエスは、人間を救う神のご計画の実現のために、人間の最も深い闇にまで降りて来られました。それによって、人を闇や死、罪や破綻から救い出して、神との関係を回復してくださるためでした[3]。

 この「必ず」という言葉を、ルカの福音書は18回も使っています[4]。続きの「使徒の働き」では22回[5]、合わせて40回も繰り返す、大切な言葉です。イエスはご自分が、神のご計画の中で、必ず神の国を宣べ伝え、最後は必ず十字架の死にまで自分を明け渡し、そうして必ず三日目によみがえる。それが神のご計画だ、という意味で「必ず・~ねばならない・することになっている」と語っていました。
 それだけではありません。その「必ず」には、18年も病気で腰が曲がっていた女性の
「束縛を解いてやるべきではありませんか。」
と言い[6]、放蕩して無一文になって帰ってきた惨めな息子を大歓迎して、
「いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」
と言い[7]、町中で嫌われていた取税人ザアカイに向かって
「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
と言う[8]。どれもこの「必ず」という言葉なのです。貧しい人を引き上げ、失敗した人を迎え入れ、嫌われ者の客になる。それがイエスの「必ず」でした。その究極の「必ず」が、イエスご自身が人に好き勝手に扱われて、ゴミのように殺されて、三日目に復活するという「必ず」です。その言葉通り復活されたのなら、他の「必ず」も、本当に成るのです。人には信じがたいことを、神がなしてくださる。人には出来ないことを、イエスは果たす。壊れていたものを修復して、死んだものをよみがえらせて、捨てられたものを喜びで満たしてくださるのです、必ず。
 この時の女弟子たちの報告を聞いても、使徒たちは信じませんでした[9]。でもその弟子たちにもイエスは近づかれたことが13節以下に伝えられます。イエスは彼らを追いかけてくださる。そして、夕食の席でパンを取って、裂いて彼らに渡されます。それはイエスが死の前夜、最後の晩餐でなさった行為、聖餐式を思い起こさせます。主は私たちにご自分を与えるため、十字架で裂かれました。そして三日目に甦られて、神の「必ず」に私たちを与らせてくださいます。死んだらおしまい、失敗したら弾かれる、過去は消せない、そういう人間の限界をひっくり返して、イエス・キリストは甦えられたのです。その事が、イエスが小さなパンを裂いて、弟子たちに渡した事で思い起こされました。このイエスこそ、私たちの神、世界の王です。

 この朝、彼女たちが用意した香料は不要でした。ある意味では無駄になりました。でも、その香料を用意してイエスの亡骸に塗りたいと思ったからこそ、彼女たちは最初に復活を知らされました。男の使徒たちは戯言(たわごと)のように耳を貸しませんでしたが、彼女たちこそ復活の最初の証人名簿になりました。彼女たちの思いは、香油のように豊かに香ばしく、主が喜びとしてくださった。
 私たちは小さく、分からないことだらけです。その私たちを、主イエスは愛して、私たちの罪も恐れも知って、私たちを命へと救ってくださいます。人のあらゆる苦しみも死も知る方として、そして、その死から復活された方として現れてくださいました。主は私たちの手にあるもの、俯(うつむ)いた歩み、諦めている現実にも、本当に真実に働いてくださいます。何一つ無駄とはなさいません。神だけが私たちになしうる不思議なことを必ずなしてくださいます。

「復活の主よ。死からよみがえり、あなたの言葉が必ず果たされることを覚えて、御名を褒め称えます。この世界の力や争い、また、私たちの心に染みついている予想よりも、あなたは力強く、深い慈愛に満ち、私たちの唯一の王であられます。主の善き御支配を信じて、私たちも良い心をもって、一つ一つのことに向かわせてください。ひとときの現実に打ちひしがれる時も、大きなあなたの御手に希望を置かせてください。主のパンと杯を戴いて、あなたを思い起こさせ、恵みに与らせてください。死や墓の前で泣く時も、復活の約束に慰めてください」

[1] ガリラヤにいた時の予告としては、9章22節(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)と同44節(「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」)の二つが当てはまります。ルカではもう1カ所、18章31~33節(さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。32人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」)も受難予告ですが、これはガリラヤではなくエリコ目前での言葉です。

[2] 23節「自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた」。

[3] そう決まっているからと渋々諦めて、十字架の死と復活を語っていたのではありません。

[4] 「必ずデイ」 ルカで18回(福音書の中では最多です。マタイ8、マルコ5、ヨハネ10。)2:49(すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」)、4:43(しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」)、9:22(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)、11:42(だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、12:12(言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」)、13:14(すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」)、16(この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」)、33(しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』)、15:32(だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」)、17:25(しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。)、18:1(いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。)、19:5(イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」)、21:9(戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」)、22:7(過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。)、37(あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」)、24:7(人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」)、26(キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」)、44(そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」)

[5] 使徒の働き1:16(「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。)、22(すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」)、3:21(このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。)、4:12(この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」)、5:29(しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。)、9:6(立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」)、16(彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」)、14:22(弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。)、15:5(ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。)、16:30(そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。)、17:3(そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。)、19:21(これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。)、36(これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。)、20:35(このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」)、23:11(その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。)、24:19(ただ、アジアから来たユダヤ人が数人いました。もしその人たちに、私に対して何か非難したいことがあるなら、彼らが閣下の前に来て訴えるべきだったのです。)、25:10 すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことをしていません。)、24(フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です。)、26:9(実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。)、27:21(長い間、だれも食べていなかったが、そのときパウロは彼らの中に立って言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて[直訳:聞き入れるべきだった]、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。)、27:24(こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』)、26(私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」)

[6] ルカ13章15節。

[7] ルカ15章32節。

[8] ルカ19章5節。

[9] 「使徒」は、ルカで6回出て来ますが、マタイ、マルコは1回ずつ。「使徒の働き」に繋がる、教会の歴史として、ルカは最初から「弟子」たちを(将来の)使徒と呼んでいます。6:13、9:10、11:49、17:5、22:14、24:10(24:11は意訳)。しかし、その使徒が最初の復活の知らせを信じず、最初の証人は女たち(当時、女性は証人として認められませんでした。)であった事実は、スキャンダルであり、教会を謙虚にならせる記述です。

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