聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

2021-04-03 12:57:30 | ルカ
2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

 今日はイースター、復活祭。イエス・キリストが、十字架の死の三日目、週の初めの日の朝に復活されたことをお祝いする、一年で一番嬉しいお祭りです。その事は、新約聖書の四つの福音書が揃って伝えている、キリストの御生涯のクライマックスです。今日はルカを読みます。この朝、まだ復活を知らない女弟子たちが墓に来ました。十字架から取り下ろされた亡骸に塗るための香料を持って来たのです。しかしお墓に着いてみると、入り口の石が転がされ、中にあるはずのイエスの体がない。そこに「まばゆいばかりの衣を着た人」が二人、近くに来て、
5「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。6ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」8彼女たちはイエスのことばを思い出した。
 イエスの復活を最初に知らされたのは女性たちでした。彼女たちは復活したイエスを見たわけではありません。また、イエスの復活を期待していたわけではありません。この二人が
「ここにはおられません。よみがえられたのです」
と言ったから、「そうか」と簡単に信じたのでもありません。この二人が
「主がお話しになったことを思い出しなさい」
と言われて、イエスの言葉を思い出した。必ず罪人たちの手に引き渡されて、殺されて、三日目によみがえる、イエス様が仰っていたのはそういう事だったのだ[1]。その事を思い出したのです[2]。

 復活という奇蹟そのものは確かに信じがたい事、途方もない事です。そして、エルサレムの都に来る以前からずっとイエスはこの事を語っていました。ご自分が、人の手に引き渡されて、重罪人か、生きている価値のないかのように十字架で殺されて、三日目によみがえる。そんな途方もないことをイエスはずっと語っていました。この「必ず」という言葉は、神の救いのご計画の中で、こうするように定められている、必然である、という意味の言葉です。イエスは、人間を救う神のご計画の実現のために、人間の最も深い闇にまで降りて来られました。それによって、人を闇や死、罪や破綻から救い出して、神との関係を回復してくださるためでした[3]。

 この「必ず」という言葉を、ルカの福音書は18回も使っています[4]。続きの「使徒の働き」では22回[5]、合わせて40回も繰り返す、大切な言葉です。イエスはご自分が、神のご計画の中で、必ず神の国を宣べ伝え、最後は必ず十字架の死にまで自分を明け渡し、そうして必ず三日目によみがえる。それが神のご計画だ、という意味で「必ず・~ねばならない・することになっている」と語っていました。
 それだけではありません。その「必ず」には、18年も病気で腰が曲がっていた女性の
「束縛を解いてやるべきではありませんか。」
と言い[6]、放蕩して無一文になって帰ってきた惨めな息子を大歓迎して、
「いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」
と言い[7]、町中で嫌われていた取税人ザアカイに向かって
「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
と言う[8]。どれもこの「必ず」という言葉なのです。貧しい人を引き上げ、失敗した人を迎え入れ、嫌われ者の客になる。それがイエスの「必ず」でした。その究極の「必ず」が、イエスご自身が人に好き勝手に扱われて、ゴミのように殺されて、三日目に復活するという「必ず」です。その言葉通り復活されたのなら、他の「必ず」も、本当に成るのです。人には信じがたいことを、神がなしてくださる。人には出来ないことを、イエスは果たす。壊れていたものを修復して、死んだものをよみがえらせて、捨てられたものを喜びで満たしてくださるのです、必ず。
 この時の女弟子たちの報告を聞いても、使徒たちは信じませんでした[9]。でもその弟子たちにもイエスは近づかれたことが13節以下に伝えられます。イエスは彼らを追いかけてくださる。そして、夕食の席でパンを取って、裂いて彼らに渡されます。それはイエスが死の前夜、最後の晩餐でなさった行為、聖餐式を思い起こさせます。主は私たちにご自分を与えるため、十字架で裂かれました。そして三日目に甦られて、神の「必ず」に私たちを与らせてくださいます。死んだらおしまい、失敗したら弾かれる、過去は消せない、そういう人間の限界をひっくり返して、イエス・キリストは甦えられたのです。その事が、イエスが小さなパンを裂いて、弟子たちに渡した事で思い起こされました。このイエスこそ、私たちの神、世界の王です。

 この朝、彼女たちが用意した香料は不要でした。ある意味では無駄になりました。でも、その香料を用意してイエスの亡骸に塗りたいと思ったからこそ、彼女たちは最初に復活を知らされました。男の使徒たちは戯言(たわごと)のように耳を貸しませんでしたが、彼女たちこそ復活の最初の証人名簿になりました。彼女たちの思いは、香油のように豊かに香ばしく、主が喜びとしてくださった。
 私たちは小さく、分からないことだらけです。その私たちを、主イエスは愛して、私たちの罪も恐れも知って、私たちを命へと救ってくださいます。人のあらゆる苦しみも死も知る方として、そして、その死から復活された方として現れてくださいました。主は私たちの手にあるもの、俯(うつむ)いた歩み、諦めている現実にも、本当に真実に働いてくださいます。何一つ無駄とはなさいません。神だけが私たちになしうる不思議なことを必ずなしてくださいます。

「復活の主よ。死からよみがえり、あなたの言葉が必ず果たされることを覚えて、御名を褒め称えます。この世界の力や争い、また、私たちの心に染みついている予想よりも、あなたは力強く、深い慈愛に満ち、私たちの唯一の王であられます。主の善き御支配を信じて、私たちも良い心をもって、一つ一つのことに向かわせてください。ひとときの現実に打ちひしがれる時も、大きなあなたの御手に希望を置かせてください。主のパンと杯を戴いて、あなたを思い起こさせ、恵みに与らせてください。死や墓の前で泣く時も、復活の約束に慰めてください」

[1] ガリラヤにいた時の予告としては、9章22節(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)と同44節(「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」)の二つが当てはまります。ルカではもう1カ所、18章31~33節(さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。32人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」)も受難予告ですが、これはガリラヤではなくエリコ目前での言葉です。

[2] 23節「自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた」。

[3] そう決まっているからと渋々諦めて、十字架の死と復活を語っていたのではありません。

[4] 「必ずデイ」 ルカで18回(福音書の中では最多です。マタイ8、マルコ5、ヨハネ10。)2:49(すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」)、4:43(しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」)、9:22(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)、11:42(だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、12:12(言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」)、13:14(すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」)、16(この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」)、33(しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』)、15:32(だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」)、17:25(しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。)、18:1(いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。)、19:5(イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」)、21:9(戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」)、22:7(過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。)、37(あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」)、24:7(人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」)、26(キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」)、44(そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」)

[5] 使徒の働き1:16(「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。)、22(すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」)、3:21(このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。)、4:12(この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」)、5:29(しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。)、9:6(立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」)、16(彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」)、14:22(弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。)、15:5(ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。)、16:30(そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。)、17:3(そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。)、19:21(これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。)、36(これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。)、20:35(このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」)、23:11(その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。)、24:19(ただ、アジアから来たユダヤ人が数人いました。もしその人たちに、私に対して何か非難したいことがあるなら、彼らが閣下の前に来て訴えるべきだったのです。)、25:10 すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことをしていません。)、24(フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です。)、26:9(実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。)、27:21(長い間、だれも食べていなかったが、そのときパウロは彼らの中に立って言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて[直訳:聞き入れるべきだった]、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。)、27:24(こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』)、26(私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」)

[6] ルカ13章15節。

[7] ルカ15章32節。

[8] ルカ19章5節。

[9] 「使徒」は、ルカで6回出て来ますが、マタイ、マルコは1回ずつ。「使徒の働き」に繋がる、教会の歴史として、ルカは最初から「弟子」たちを(将来の)使徒と呼んでいます。6:13、9:10、11:49、17:5、22:14、24:10(24:11は意訳)。しかし、その使徒が最初の復活の知らせを信じず、最初の証人は女たち(当時、女性は証人として認められませんでした。)であった事実は、スキャンダルであり、教会を謙虚にならせる記述です。

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2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

2021-04-02 16:40:47 | 説教
2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

 神の子キリストは、今から二千年ほど前、人として生涯を過ごし、最後に残酷な十字架刑に処せられて、三日目に甦り、今も生きておられます。この告白を、世界が味わう受難日です。
 この十字架の苦しみは、両方の手首と、足を太い釘で打ち付けて磔にして、致命傷を与えないまま、気が狂うほどの激痛の中に放置する、という酷い苦しみです。その惨たらしさから、当時のローマ市民は十字架刑を免除されて、話題にすることもタブーとされていました。一方、ローマへの反逆者とされた人は、冤罪(えんざい)であっても十字架につけられて見せしめのさらし者にされて、道路の脇に見かけることは少なくなかったようです。当時のローマ帝国に住む人にとって十字架刑はかなり身近な恐怖でもありました。ですから、ここでも十字架がどれほど苦しいものか、という描写や説明はほとんどしていません。それを言うことは必要なかったし、また、説明しきれるものではない、想像を絶する苦痛だったのです。ただ、23節に短く、
「没薬を混ぜたぶどう酒」
という、一寸とした痛み止めをもお受けにならなかったことが書かれています。イエスが、十字架のあらゆる苦しみを漏らさず、逃げることなく飲み干そうとなさったことが分かります。そして、その後はイエスご自身の事は何も伝えられないまま、34節で、
34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 十字架の想像を絶する苦しみでさえ、お受けになったイエスが、こう叫ばずにはおれないことが起きました。父なる神に見捨てられるという、十字架の苦痛以上の、神との関係の苦痛を、イエスはこの十字架の上で味わわれたのです。そして、主イエスがここで神に見捨てられる体験をなさったゆえに、私たちが神に見捨てられることは決してなくなったのです。
 こうしたイエスの姿へは言葉少ななのに対して、周囲の人間たちは饒舌です。イエスを罵って
「十字架から降りてきて、自分を救ってみろ」
と、通行人たちも、祭司長や律法学者も、両脇で十字架につけられた人たちも嘲ります。
「わが神、わが神、どうして」
という叫びを聞いても、そばに立っていた人たちは誤解をして、酸っぱい葡萄酒、喉を焼き付かせるような物でまだ死なせまいとしたのです。周囲の人たちは、苦しむイエスが「救い主だ」とは思わず、せめて「この人は冤罪だ」とさえ思わなかったのです。人々はイエスを理解できませんでした。
 受難週に必ず読まれる聖句の一つ、イザヤ書53章は預言していました。
イザヤ書五三1誰が信じたか。…だれに現れたか。…彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
 まさに、この預言の通り、十字架の周りの人はイエスを蔑み、顔を背けたのです。
 4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 「あれほど酷い目に遭っているのは、きっと神に罰せられ打たれ、神に苦しめられているとしか思えない」。そう思う、というのです。そういう考えでは到底理解できない事を、神はなさるお方である。そうイザヤが預言したとおり、イエス・キリストは、苦しみと辱めの十字架にかかり、人々から全く理解されませんでした。しかし、その十字架の死の直後、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
 この、惨めに十字架にかかり、苦しんで、しかし誰をも恨まず、罵らず、ただ、神に悲しみと疑いを叫んで死んだ方を、負け犬や可哀想な愚か者ではなく、神の子だと告白する、驚くべき言葉です。しかも、この処刑を執行した、権力者の側の百人隊長がです。言わばこれは、この世界の権力者、人間の冷たく、見当違いな正義感の敗北宣言・降伏宣言です。
 5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 私たちこそ、癒やしが必要なけが人、病人、罪人です。イエスが刺され、砕かれたのは、私たちのためでした。イエスは、私たちの持っている闇をご存じです。私たちの愛のなさ、恐れをすべてご存じです。その私たちの深い罪を、赦すだけでなく、癒やして回復させるために、神の子イエスが人となり、完膚なきまでに苦しみにご自分を献げて下さいました。そのイエスこそ、神の子である、この世界を治めるお方です。人間に仕えて、苦しみの局地も味わって、私たちの病も悲しみも知っているイエスこそ、神の子です。
 イエスの苦しみが神の子の究極の愛であることさえ分からない世界で、この方こそ神の子である、この方だけが私たちを癒やされるという告白を今私たちも与えられます。自分の罪や重荷などどんな問題も、恥じたり隠したりせずに主に告白して、赦しと回復をいただきましょう。そして、この私たちのために、主が十字架の死を遂げてくださった愛を、深く味わいましょう。そしてそれが死で終わらず、復活に続いたという希望に、私たち自身も、すべての人も、ともに生かされていくことが出来ますようにと願う、新しい心を戴きましょう。

「神の子イエス様。あなたの道は、人の思い描く道とは真逆でした。あなたが、十字架の死を通して、私たちに赦しと新しいいのちを下さった恵みを感謝します。今なお、人を裁き、コロナ禍という苦しみでも、責めたり罰したりする言葉を発する、病んだ社会です。どうぞ、私たちの罪や歪んだ正しさを、十字架の主の姿を通して照らしてください。あなたを救い主として賛美するだけでなく、あなたの恵みの光の中ですべてを見ていく者として新しくしてください」
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