聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/18 マタイ伝18章12~20節「そこにイエスもおられる」

2021-04-17 11:16:50 | マタイの福音書講解
2021/4/18 マタイ伝18章12~20節「そこにイエスもおられる」

 今日の箇所は、百匹の羊の一匹でも、迷い出たら捜しに行って、見つけたら大喜びしないだろうか、という問いかけから始まっています。そして、それと同じように、
14…この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
と、弟子たちへのことばに収斂します。この事を踏まえて、15~18節では
もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら
と弟子たちの中、教会の中での罪への対処が語られています。まず二人だけで。それから一人か二人を一緒に。それでも聞き入れなければ、教会に伝える。それでも聞かなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。こうした手順が語られます。これは教会にとって、教会の中での大小の罪に対処する手がかりです。私たちの教会にある「訓練規定[1]」も、まず一対一で、それから証人を立てて、それでも聞かなければ小会に、という手順を明文化しています。教会員の罪を見た時、見て見ぬふりをするでも、噂をしたり一方的に除外したりもせず、丁寧に向き合い、回復のために手順を踏んでいく。それは、とても大切な指針です。その「訓練規定」でも、ここでイエスご自身が強調されているのも、罪に対する厳しさ以上に、罪を犯した人、生き方を迷っている人、滅びに向かう道を進む人のために、心を砕くことです。それこそが、天におられる私たちの父の御心である、という恵みです。
 「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」
という想定自体、イエスが弟子たちを、罪を犯したり関係をこじれさせたりしやすい者だと見ておられる証です。教会が、人間関係の問題などない、罪とは無縁の集まりだとしたら、イエスは要りません。私たちには、イエスが必要です。そして、イエスは「わたしがいるから罪などない/罪など犯すな」と言う代わりに
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したなら」
と、問題が起きうることを想定させるのです。そしてその、罪を犯した人に、まず真摯に向き合うよう言います。15節の、
その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
は文字通り「得をした」という言葉です[2]。この小さい者の一人が滅びるなら損だ、回復は大きな利益だと、大喜びするのです。しかし、だからといって、二人で話せば簡単に悔い改めに至るはずだとも保証されません。丁寧に、段階を経て向き合って、勧告をしても、だからきっと心が通じて回復する、とは言えない。それは相手次第だからです。それでも、丁寧に相手に向き合うこと、一人で抱え込まずに他の人や教会に相談しながら向き合うのです[3]。最後、
17…教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
 当時のユダヤ人社会では、ユダヤ人以外の「異邦人」とは食事も一緒にせず、交際をしませんでした。ローマ帝国の手先となっている取税人も、異邦人同様に交際をしませんでした。しかし、イエスは取税人とも食事をし[4]、異邦人にとっても望みとなりました[5]。イエスが最も近くにおられたのは異邦人や取税人でした。その人たちにこそ彼らの帰りを喜ぶ神を伝えました。ですから「異邦人か取税人のように」とは、頑ななその人をも見捨てず、その人こそイエスが必要としている人、イエスがそばに行っておられる人と見ることです。それが教会の心です。
19まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
 「心を一つにして」は「交響曲(シンフォニー)」の元になった言葉です[6]。交響曲は一つの楽器で一つの旋律を弾くわけではありません。バイオリンやオーボエ、ティンパニー、いろんな楽器で、それぞれに違うメロディを奏でるのです。それが全体では、一つの壮大な曲になります。
「心を一つにして」
もそうです。問題が起きた時、一人一人、出来事の受け止め方も、当事者への思いも違います。どうなってほしいかの期待も違います。それでも、
「この小さい者の一人が滅びることは天にいます私たちの父の御心ではない」
という事で一致するのです[7]。「自分の兄弟を得たい」「迷っている人に帰ってきてほしい」という父の御心で一致するのです。私たち自身の立っている所、立ち戻るべき原点が、この御心、私を捜してくださる天の父だからです。罪や問題のない教会ではなく、罪の赦しのためにご自身を献げてくださった主イエスの名において集まるのが、教会というシンフォニーなのです。そしてそこに主イエスもおられるのです。
20二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
 これは罪を犯した一人のために集まっている二、三人。あるいは15節の、罪を犯した人の所に行った「二人だけのところ」、その中にもイエスがおられる。どちらも言えるでしょう。イエスがおられても、なお問題のために苦しみ、回復や和解を願いながらも難しいのが地上の現実です。また、そこで祈りながら、自分自身、相手を裁き、憎み、赦せない、愛せない思いも正直に認めざるを得ないのです。主の示された憐れみ、和解と回復の道から迷い出て、自分にとっての得や正しさの道に迷い出てしまっている。その私たちが、問題によって、主の名において集まり祈りながら、気づかされます。この私のためにこそ、イエスが来て下さった。この真ん中におられて、ご自身の名において私たちを集めて下さっている。私たちの歩み、教会の長い歩みを、罪の赦しと和解の歌としてくださる。そこに立ち戻れるのです。
 主がともにいますから、私たちは他者の罪も、自分の罪も、隠さずに向かい合うのです。私たちを結び合わせてくださる主に望みをおいて、心を一つにして祈りながら、ともに受け止めていくのです。

「主よ。私たちは今日も「聖徒の交わり、罪の赦しを信ず」と御名において告白します。あなたが私たちを、ご自身の名において今日も集め、私たちの真ん中におられ、あなたの真実な回復を現されます。聖化の途上にある私たちを、罪のもたらす破綻からお救いください。何より、あなたを忘れ、御心を見失う誘惑から救い、真実に向き合う知恵と勇気と信頼を与えてください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」

脚注:

[1] 日本長老教会教会訓練規定は、こちらのWebサイトで読めます。ぜひご一読ください。http://cms.chorokyokai.jp/index.php/archives/text_b_top/5/

[2] 「兄弟を得るケルダイノー」 16:26、18:15、25:16、17、20、22 得をする。罪との対処は、損ではなく、得がたい得。それをしないほうが、大きな損失なのだ!

「わたしの名」エモン オノマ 強いことば。イエスが根拠である、ということ。強いその約束。

[3] 私が身に染みて分かっていることは、コミュニティの形成をすることなしに、親しい交わりから、すぐ宣教へと移ろうとする傾きが私にあることです。私は、自分の内にある個人主義、成功を求めたいという欲、単独で宣教を成し遂げようとしたり、私個人のための任務を求めたりする誘惑に、絶えずさらされてきました。 しかしイエスご自身は、一人で説教したり、いやしたりなさいません。福音書記者ルカが伝えていることは、イエスは神との親しい交わりのうちに夜を過ごし、朝には十二弟子と共にコミュニティを形成し、午後には群衆のために弟子たちと共に宣教に出かけた、ということです。(中略)イエスが羊を牧するようにと言われる際、素直に従う羊の大群を導く、勇ましい、孤立した牧者を思い浮かべることを望まれていません。イエスはさまざまな仕方で、宣教の務めとは他の人と共有すべきものであり、その人たちとの相互の経験であることをはっきりと示しています。何よりもイエスは、十二弟子を二人ずつに分けて遣わしました(マルコ6・7)。私たちは、二人ずつで遣わされることをいつも忘れてしまいます。福音の良き知らせを携えて行くことは、自分だけではできないのです。私たちは福音を共に宣べ伝えること、つまり共同体において伝えるようにと召されています。ここに神の知恵があるのです。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・19~20)。 すでに気づいているでしょうが、道連れがいる旅と一人旅では、まったく根本から異なってきます。私がこれまで何度も気づかされたことは、一人でいるとき、イエスに真に忠実であることはとても困難だということです。 私には、一緒に祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。身近にいて、霊的な任務について共に語り、さらに、思いと心と体を清く保つようにチャレンジしてくれる兄弟姉妹が必要です。しかし、はるかに重要なことは、いやすのはイエスであり私ではないということです。イエスが主なのであり、私ではないということです。これは、他の人と共に神の贖いの力を宣べ伝えるとき、とても明瞭なものとなります。実際、他の人と一緒に働くときはいつも、自分の名で来たのではなく、私たちを遣わされた主イエスの御名で来たことを人々はたやすく認めます。」ナウエン『ナウエンとともに読む福音書』

[4] マタイの福音書9章10節「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。11これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。」、10章3節「ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、」、11章19節「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」、18章17節「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」、21章31節「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。32なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」

[5] マタイ12章18節「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。…21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

[6] 「心を一つにして」スンフォーネーセー 18:19、20:2、13 シンフォニーの語源。同じ楽器や、同じ音階ではなく、多様な楽器が違う旋律を奏でる。それが一つになって交響曲、シンフォニーとなる。皆の願い、思いは違っても、一つ、主にある交わり、和解を目指す。罪や迷いのない関係(イエスがいなくても大丈夫な団体)ではなく、つまずきや弱さを抱えた私たちが、主の名において、一つとされ、罪と滅びからの回復、壊れた関係の和解、天の父にある歩みの全うを願う。そこにかける思いは多様でも、赦しと和解において、一つのシンフォニーを奏でる。

[7] 「どんな願いでも」 それはとくに「罪を犯した兄弟を得る」ことだろう。問題のある人を厄介払いした気楽な生活より、迷いやすく躓きも避けられないこの世界で、なお私たちが「罪の赦し」を信じ、告白することはここに大きな意義がある。

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