[1] 今も「スリーストライク法」や「仏の顔も三度まで」と言われているのと通じます。
[2] イエスご自身が、ルカの福音書の並行箇所で「七回」と言われました。ルカ17章3-4節「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」しかし、これも、「何度でも」という真意であって、ペテロが杓子定規に理解したように「七回まで」という意味ではないのは明らかです。
[3] 創世記4章には、主が、弟を殺したカインに「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」(15節)と言われた記事があります。カインの子孫レメクはそれをもじって「24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と豪語しました。この「復讐の原理」に行き着いた先が「七十七倍」であることを、イエスはひっくり返して、「赦しの原理」を「七の七十倍」と描かれたという解釈も出来ます。
[4] あるいは、当時のガリラヤの領主ヘロデの年収が五百タラントだと言う方もいます。国の元首の二十年分の給与、それは国家予算を大きく占める巨額です。加藤常昭『マタイによる福音書 3』六三九頁。「もっとも年収二百タラントに過ぎなかったという人もいます。いずれにしても、それと比べたら一万タラントという金額がどれほど大きいかはよく分かります。小さな国家の一年分の予算を何十倍かしなければ追いつかないのです。それに対する百デナリという金額は、その五十万分の一です。」とも書かれています。
[5] この「奴隷」は、現代の私たちが考えるような、非人道的で、男なら酷使、女性なら性的な暴力を当然とされる「奴隷」ではありません。律法は、奴隷を人として扱うことを命じ、もし障害を与えたなら解放すること、そうでなくても七年目には解放することを命じています。出エジプト記21章。
[6] スプランクニゾマイ。マタイでは5回用いられます。9:36(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。)14:14(イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。)、15:32(かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。)、18:27、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」)
[7] 王だけでなく、王のそばにいた「彼(家来)の仲間たち」も「心を痛め」ています。怒りよりも、悲しみです。「心を痛める」リュプトー 14:9(王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ)、17:23(人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らは、たいへん悲しんだ。)、18:31、19:22(青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。)、26:22(弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。)、37(そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。) この「心」が、神の国の原理なのです。
[8] 23節「したいと思う」セロー 三〇節の「承知せず」もセローの否定形です。ここでは、王の意志の変化と、家来の意志の頑なさが対比されています。王の意志は変わりませんが、感情は「かわいそうに思って」「あわれんで」「怒って」「心から」と豊かに表現されています。それは神ご自身が「べき」よりも「心から」動かれる方であることを物語っています。
[9] バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』165~178ページ。「結末は、みなさんのご存じのとおりです。家来は、借金を返済するまで、つまり残された生涯、ずっと牢に入れられます。しかし、この投獄は言葉上のものです。不届きな家来は、すでに鉄格子の中にいたのです、自分で作った鉄格子の中に。赦されることを拒み、赦すことを拒んだ彼は、すでに自分用の小さなアルカトラズを造り、電卓片手に独居房に座り、会計記録をつけていたのです。」(176頁) では、彼がもう一度、王に「私には返せません。赦してください」と言ったら、王はまた出すのではないか。今度こそ、赦されたように赦してほしいから。あわれんだように、彼にも憐れみ深く生きてほしいから。それをまた失敗するだろう、それを何度でも、七度でも、七の七十倍でも…つまり限りなく…繰り返すのではないか。少なくとも、私たちこそは、そうしていただいている、不躾で鈍感な家来の一人ではないか。
[10] 「赦す」アフィエーミ。12節の「九九匹を山に残して」という言葉ですし、重荷を下ろして下に置く、というイメージも良いでしょう。
[11] 「べきデイ」は「するのが当然だ」「しないわけにはいかない」「当然することになっている」「これ以外に道はない」という必然としての「べき」です。「しなければ、罰せられる」というような、道徳的意味ではありません。なにしろ、一万タラントという借金は「すべきでなく」「返すべき」であり「返せないなら、投獄か身売りすべき」ものでしたが、その「べき」を超えたことをするのが「天の御国」なのですから。
[12] 「良きサマリア人」のように、この譬えは、私たちの思いを「自分だったら」に向けさせるよりも、「この王はどう思ったのだろう」と王の心に向けさせます。「私だったら」を言えば、こんな免除は思いつきもしません。だから、同じように人にすることも不可能です。けれども、「王の心」に目を向ける時、王が借金まみれの家来をもあわれんで、大事に思っていることに気づけます。それは、私たちにとって本当に嬉しいことです。そこで「自分がしてほしいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(マタイ7:12)という黄金律に立てるのです。
[13] 「罪の赦し」こそ、してもらって嬉しいことだ! 信じがたいほど嬉しい事だ。だからこそ信じられなくて、今でも、罪の赦しという大きな「借り」を負うているかのように、「赦されて申し訳ない。赦していただいたのだから、赦さなければならない」と、罪悪感をますます重く抱えていることがあるだろう。しかし、主は「心から」赦してくださったのだ。赦したかったから赦したのだよ、あなたとの間に一切の借りはないのだよ、わたしの愛を受け取ってほしいのだよ、と言ってくださっているのだ。
[14] コロサイ書3章12~13節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。13互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」