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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/10/07 民数記十九章「赤い雌牛の灰の水」

2012-11-07 15:02:35 | 聖書
2012/10/07 民数記十九章「赤い雌牛の灰の水」
詩篇五六篇 使徒の働き二十7―12

 民数記の十六章から続いて参りました、祭司の役割についての教えが、今日の箇所で一段落します。次の二十章からはまたしばらく、色々な出来事が綴(つづ)られていきますので、この十九章は一つの区切りとして大切な意味を持っているはずです。それが、雌牛の灰を作って、それを混ぜた水を、死者に触れた人に振りかけて、汚れをきよめなければならない、という規程です。
 新約聖書のヘブル人への手紙九章13―14節にはこうあります。
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 今日の民数記十九章の「雌牛の灰」を引用して、まして、キリストの血は、どんなにか私たちの良心をきよめるか、と言う。しかし、逆に言えば、そういう引き合いに出すぐらい、この規程は大事なものである、ということでもあるでしょう。
 それにしても、今日の箇所は、第一印象も取っつきにくく思われるでしょうが、読めば読むほど、不思議であり、また「異例」ずくめです。まず、赤い雌牛とありますが、赤いかどうか、以前に、雌牛を屠って儀式に使う、という事例はここ以外にありません。また、3節にあるように、
 「宿営の外に引き出し」
つまり、幕屋の中の祭壇ではなく、外で動物を焼くというのも他にはない指示です。
 「 5その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに…」
焼くという焼き方も特別です。全焼のいけにえでさえ、皮は剥ぎ、血は流し、内蔵は洗った、その残りを「全焼」とするのです。
「 6祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。」
というのもここだけです。レビ記十四6でも、この三点セットは登場しましたが、焼かれはしませんでした。
 そもそも、これは「いけにえ」ではありません。「焼く」という動詞が生贄を焼く場合とは別の言葉が使われています。焼かれるのも、祭壇でではなく、外で灰を作るため、なのです。
 こうした雌牛の扱いそのものについての異例さと共に、目に付くのは後半11節以下の、罪の汚れの理解もユニークであることです。雌牛を焼くのは、その灰を湧き水に混ぜて、汚れをきよめる水として用いるためでした。しかし、その罪の汚れとは、
 「11どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」
 こう言われる通り、人の死体に触れたときの「汚れ」なのです。道徳的な罪ではなくて、死体に触れた結果、触った人が担う汚れを指して、「罪」と言っているのです。道徳的なことを言えば、人の死体に触れることが罪だとは言えません。むしろ、嫌がらずに死体に触れることがその人の憐れみとか自己犠牲の精神から出ている、ということもあるでしょう。「善きサマリヤ人」の譬えで、祭司とレビ人が、強盗に襲われた旅人を見ながら、
 「反対側を通り過ぎて行ってしまった」
のは、もし死んでいた場合に死体に触れたら自分が汚れることになってしまう、と考えたからでもあったのでしょう。それは明らかに非難すべき行動でした。ですから、ここで言われている「罪の汚れ/罪のきよめ」とは、死体に触れることが道徳上よろしくない、という事ではなく、もっと根源的な人間の罪を扱っているのでしょう。人道的には何一つ責められるようなことはしていなくても、人は必ず死ななければなりません。また、周りの人が突如として亡くなり、その亡骸(なきがら)に触れざるを得ない場合も起こるでしょう。そういう身近な死によって人間が思い知らされる罪-いのちの源である神に背を向けてしまっている罪の事実-をここでは問うているのです。
 人間の罪の現実の、どうしようもなさ、死という冷たい事実を問うてくる。そして、それは三日目と七日目にきよめの水をかける、という形の儀式であって、その水をかければ忽(たちま)ちきよくなるというものでもないし、かえってその儀式に関わった人、灰に触ったきよい人たちさえも汚れに巻き込まずにはおれない、ということにもまた、死の現実の度(ど)し難(がた)さが現されているのではないでしょうか。
 そして、それがまた、赤い雌牛だとか、宿営の外だとか、最初に申し上げたこの規程のユニークさの理由でもあるのでしょう。罪を犯すとか犯さないとか、そういうレベルとはもっと別の次元でのきよめが必要であることを、死という現実に触れるときに人間は気づかなければならない、ということなのです。祭壇や幕屋での儀式では間に合わないような、きよめの儀式が備えられなければならない、としていた意味では、旧約の儀式律法の限界をここで現しています。様々な生贄や儀式が定められてはいましたが、それが万能なのではなく、本当に肝腎な、一番の根底にある死という問題を解決することは、幕屋や神殿や儀式では出来ない、と白状しているのです。
 死は人間にとって自然なものではありません。本来、神様は人間をご自身のかたちに似せてお造りになり、儚(はかな)い死すべき存在としてではなく、ご自身との永遠の交わりに生きるものとしようとされたのです。その神様に逆らい、人間が自分の力で生きようとし始めた時に、人は死すべき者となってしまって、今日に至っています。死は、それ自体が、人間が神に背いた事実の証しです。勿論、その死さえも神様は益とされて、私たちに最善をなしてくださいます。また、慰めに満ちた死に方とか、悔いのない最期という場合もあります。そうでなくとも、私たちは、死の先に、イエス様が私共を迎え入れてくださり、地上の生涯では朧(おぼろ)な幻でしかなかった祝福へと導き入れてくださる、と知らされています。それでも、その死自体は益でも喜びでもなく、神様のいのちのわざを無に帰そうとする虚しいものであり、罪の報酬であることを私たちは忘れてはならないのです。
 今日、この民数記十九章で、祭司の役割について教えてきた締め括りに、このような規程がある事実を心に刻みましょう。祭司は、民に、死をサラリと流さず、そこでもう一度謙(へりくだ)り、砕かれて、神様へと悔い改めさせることを、その大きな使命の一つとしていました 。死の中にある民に、いのちの神をしっかりと仰がせることが、祭司の重要な役割だったのです。それは、今日の教会にも言えることでしょう。キリスト教の葬儀に出席して初めてキリスト教に触れる、意味が分かる葬儀という体験をする、という声をよく聴きますが、そういう場でこそ、お茶を濁したような弔辞ではなく、本当に神様の前に謙り、悔い改めるような告白を、キリスト者が自ら持つべきなのです。
 最初に引用しましたように、ヘブル人への手紙九13、14では、
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
と言われていました。私たちは、雌牛の灰よりも遥かに優れた、イエス・キリストの血に与っています。イエス・キリストは私たちのために、都の外で十字架に殺されました。そして、私たちに水の洗礼をお命じになり、罪の全ききよめを現してくださいました。赤い雌牛ならぬ赤い葡萄液の杯を差し出されて、私たちにご自身のいのちを差し出してくださっています。私たちは、死を恐れることなく、永遠のいのちをいただいて歩んでいますが、それは死を軽んじるのではなく、イエス様の十字架の死という測り知れないみわざを心に深く留めることによってなされるのですし、また、私たちの生活が、死んだ行いから離れさせる-この地上の朽ち行くものを(責任をもって受け止めつつ)決してそこに価値の規準を置いたり耽溺したりせずに生きる-ことを伴うのです。
 今日読みました使徒の働きで、パウロが死んだ者に汚れを恐れることなく触れたという行動は、死者にふれては汚れる、という律法の限界を超えて、死に優るいのちを証しした行為でもありました 。私たちも、イエス様の十字架を知ることによって、どんな死よりも強い、生ける神に仕える者として整えていただきたいと願うのです。

「私共の心に主のいのちを届けてください。死の闇を打ち破るいのちの光を輝かせてください。たくさんの死のニュースに、心を麻痺させるでも恐れるでもなく、この世界のためにこそイエス様がおいでくださったのだと、深く覚えさせてください。自分や愛する者が死すべき存在でありつつ、いのちに生かされていると心から告白させてください」?


文末脚注

1 ルカ伝十章13、14節。
2 そのためにも、祭司たち自身が、死者にふれることが厳しく制限されていました。レビ記二一1、11以下参照。
3 使徒二〇7―12。また、エリヤ(Ⅰ列王記十七19、21)、エリシャ(Ⅱ列王記四34)も、死者に身を重ねました。また、善きサマリヤ人の譬えを語られたイエス様ご自身、死者に触れられていのちをお与えになりました(ルカ八54)。



2012/10/14 ローマ書六5―7「接ぎ合わされて」

2012-11-06 11:18:49 | 聖書
2012/10/14 ローマ書六5―7「接ぎ合わされて」
イザヤ書四三1―13 詩篇一四七篇

 ローマ書前半の、救いの確かさを説き続ける言葉を今日も噛みしめたいと願います。前回は、六1で、
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
と始まった話題を、洗礼(バプテスマ)という入会儀式に訴えて論じていました。今日はその続きで、更に突っ込んで、私たちが洗礼によって、キリストとともに罪に死に、いのちにあって新しい歩みをする者と約束されていることを論じます。
「 5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
 これがもう一度、要点を纏めていて、続く6―7節で、5節の前半、キリストの死と同じようになっている、という部分を話して、次回見ます8―11節で、5節の後半、キリストの復活とも同じようになる、という部分に触れる、という構造になっています。今日はその最初の、私たちがキリストの死に与っている、ということを教えられたいと思います。本当に、6節に言われるように、
「 6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
 そうだと言えるのだと知りたい、知っていただきたいと思うのです。
 しかし、これはいったいどういう意味でしょうか。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅んだ、とパウロは言い切っているのでしょうか。だとすると、「私の中には、罪を犯す「古い人」が相変わらず大手を振ってのさばっているから、とてもそうは思えない。私はキリストに結ばれていないんだろうか…」と不安になる方もいるのではないでしょうか。
 しかし、「古い人」というのが、私たちの中にある「古い、罪を犯すもう一人の人格」というように考える読み方自体が正しいかどうか考えなければなりません。面白いことに、この「古い人」というのは定冠詞付きの「あの、古い人」という言い方です。そして、単数形です。「私たちの古い人」というのですから、定冠詞なしで複数形、というほうがしっくり来るでしょうに、「あの古い人」と言うのです。ですから、これは、キリスト者個々人の中にいる、罪の人格、などということではないのです 。
 同じ「古い人」「新しい人」という表現は、エペソ書四22やコロサイ書三9でもパウロが使っています。いずれも、単数で定冠詞付きです 。そして、「古い人」に対照される「新しい人」については、エペソ書二15にも出て来ます。こう言われるのです。
「エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
 つまり、「新しい人」とはキリスト者一人一人の心にある人格ではなくて、キリストの和解によってユダヤ人も異邦人も一つとされた全体、キリストをかしらとする民を「ひとつからだ」と見なす、比喩的な表現です。そして、当然それに対応する「古い人」もまた、そういう意味でしょう。つまり、アダムをかしらとする、神に逆らい、罪と死に支配されている民全体です。決して、私たちの心にまだ残っている、罪を犯そうとする衝動、肉の思いを指しているのではないのです。
 そのような罪の思いが、まだ死んでなどおらず、私たちの中に残っていて、強く私たちに働きかけている事実は、この後、七章に入ってパウロの赤裸々な告白と共に明らかにされていきます。今この六章では、そのことにはまだ触れていません。むしろ、そういう事実に目を向ける以前に、まず知っておくべき事として、私たちがすでにアダムの子、罪の支配下にあるものではなく、キリストの子、キリストをかしらとする民のひとりとされている、その事実を踏まえさせようとしているのです。6節は、私たちにとっては今、キリストの十字架によって「古い人」は私たちに対して死んだものとなった事実と、その事実の当然の目的が、罪のからだが滅びて、私たちが罪の奴隷として生きることを止めることにある、と教えています。まだ、罪のからだは滅びておらず、罪の奴隷に舞い戻ってしまったりそういう生き方を続けたりしていることもあるかもしれない。それは目的であり、途上であって、未完成です。けれども、その土台である、キリストの十字架に「古い人」が死んだことは事実です。私たちは罪の奴隷ではなく、キリストのしもべなのです。
 まだ罪を犯し、失敗し、誘惑に負けるのです。しかし、それによって私たちが神の支配から漏れ落ちるとか、救いにあずかれない、ということではないのです。私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられた-十字架につけなさい、ではないのです-すでに十字架につけられた。この事実は変わらず動かないのです。しかし、だから罪を犯してもいい、というのではない。パウロがこれを語っているのは、「罪の中にとどまるなんてことは、絶対にない」と論じる中でのことです。私たちにとって古い人がキリストとともに十字架につけられた、と信じることは、それが、罪のからだが滅びて、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであるとの目的を受け入れることでもあります。その事実を厳粛に受け止めて、罪を楽しもうなどとはしないのです。
 「 7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
 まだ罪の力は働いています。恵みさえ口実にして罪を大いに犯そうなどと詭弁を弄する声になびくことさえあるのです。それでも、私たちは罪の支配からは解放されて、キリストの支配の中にあるのです。罪との戦いは生涯なくならない、と思えばガッカリかもしれませんが、それでも私たちは罪の支配下にではなくキリストの恵みの支配下にある、と知る事は、不思議にも大きな慰めではないでしょうか。
 なお思われがちな誤解を逆手に取ってみますと、古い人を自分の手で十字架に殺さなければならない、とは言われていないのです。自分の罪ある自我を一生懸命殺し続けよとも言われていません。古い人を十字架に付けたのは、キリストです。私たちではありません。私たちが古い人であったときは、罪を楽しみ、神を恐れず、罪からの解放を願いもしませんでした。しかし、キリストが私たちに聖霊をお遣わしくださったとき、この救いが届けられて、罪からの解放を願うようにしていただいたのです。
 ここから、私たちの「選び」についても一つの理解が与えられます。救いに選ばれず滅びる人々は可哀想ではないか不公平ではないのでしょうか。しかし、今のような言葉を考えますと、選ばれず罪の中に放っておかれる人は、自分から、罪からの解放を願いさえしないのです。勿論、神様の選びや救いへの不平を言って、神に叫び神を罵(ののし)るでしょう。けれども、では悔い改めて神の光のもとに来なさい、罪からの救いをいただきなさい、と言われても、それは拒むのです。
 言い換えれば、悔い改めは救いの手段ではありません。悔い改めは救いの本質なのです。自分のプライドが第一であり中心であった生き方から、神を神とし神を中心とする生き方に立ち帰る。それが救いであり、それのない救いなどはありません。そしてこれを受け入れ、悔い改めたい、神様を神として生きたいと願うことは、神様の側からの一方的な働きかけなくして人間が願うことはないのです。選ばれなかった人は、選ばれたいと願いもしない。しかし、選んでいただいた私たちは、自分の罪になお負けたり流されたりしながらも、本当にこの罪から救われたい、神様に感謝と賛美をささげたいと願う者に変えられていくのであり、そう変えていただいたことを喜び感謝しているのです。
 5節の「つぎ合わされて」という言葉は、「継ぎ接ぎする」という意味の継ぎ合わすではなく、「接ぎ木する」という意味での「接ぎ合わす」です 。このところから、洗礼について、「キリストに接ぎ木されること」とする告白が生まれました 。私たちは、キリストに接ぎ木されている。洗礼において、そのことをハッキリと示していただいている。今も罪を残してはいても、神様の一方的な選びによって、神を神とする「新しい人」の一部とされている。この事実をまず受け入れたいのです。

「古い人は十字架につけられて、キリストの民、新しい人とされた幸いな事実を受け止めます。私共の願いや思いや貧しさを越えて、あなた様が私共を継ぎ合わせてくださっています。既に罪に死に、いのちに生かされている者として、ますます整えてください。主の愛の中で、この計り知れず尊い新しさによって、活き活きと生かしてください。」



文末脚注




2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」

2012-11-06 10:29:33 | 聖書
2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」
         イザヤ書四八7―19  詩篇一二五篇


 六章1節で提出された、罪人がただ恵みによって赦されるというなら、ますます罪を犯そうじゃないか、という屁理屈に応えている言葉が続いています。今日の、
「 8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」1
とあるのも、罪に対して死ぬ、というのは、キリストとともに生きるということを言いたいわけです。
しかし私たちは、このような言葉を読むと、「そうは言われても、自分はまだまだ罪に対して死んでいない。誘惑に負け、感情に流され、自己中心的な計算や発想をすぐにしてしまう。私にはこんな御言葉は到底信じられない」とすぐに思ってしまうのではないでしょうか。前回も、そうではないことをお話ししました。七章でパウロは、パウロ自身の中にある、
「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです」2
という現実を正直に告白しています。ですから、ここでも、私たちの中に悪や罪がなくなると言っているのではないのです。特に、今日の箇所では、キリストが死んでよみがえられたように、私たちも罪に対して死んで、神に対して生きている、と言っています。では、キリストは、どのような意味で罪と死に対して死なれたのでしょうか。これを理解することが鍵になります。ここで注意したいのは、パウロは9節10節で、キリストの死と復活を述べていることです。
「 9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように.....、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
キリストは、十字架に死なれました。しかし、死なれる前は、罪を犯しておられたのでしょうか。いいえ、キリストは、お生まれになってから十字架に掛かられるまでも、何一つ罪を犯されませんでした3。キリストが死なれたのは、それまでは罪を犯したけれども、死んでからは罪を犯さなくなった、というような意味ではありません。10節にある、「ただ一度」という言葉は、一回だけ、という意味ではなく、その一回ですべて(once and for all)、あるいは「決定的に」「最終的に」という意味での「ただ一度」です。キリストは、人となられたときに、私たちを死から解放してくださるために、ご自身が死ぬべき肉体をもたれ、死の支配下に置かれることをよしとされました。しかし、その死によって、死はもうキリストを支配することが出来なくなりました。罪を犯さなくなった、のではなく、死の支配に束縛されることがなくなったのです。
それと同じ意味で、とパウロは言います。私たちは、キリストを信じてキリストにつぎ合わされるとき、もはや罪を犯さなくなるのではありません。キリストの死は、罪との決別という意味ではなく、死の支配との決別だったのですから。まだまだ、罪を犯すのです(だからといって罪を犯そうと開き直るのでは決してありませんが)。けれども、救われるときに、私たちはその罪を認め、嘆き、悔い改める者となるのです。
「ある人が再生されているという証拠は、すべての罪と腐敗から自由にされているなどという虚しい妄想ではなく、キリストの赦しと、聖霊が私たちのうちに罪に死に義に生きるよう誠心誠意戦わせてくださっている働きとをバランスよく自覚しているかどうか、にあるのです。私たちが聖書において出会う忠実なキリスト者たちは、この世における完成などは決して口にせず、キリストの贖いによる自分たちの罪の赦しを宣言したのであり、罪に対する飽くことなき戦いを教えたのです。…再生していない人のうちは腐敗が支配していますが、再生された人のうちには神の御霊と神の律法が主導権を握っているのです(ローマ八・七-十四)。再生されていない人のうちでは、罪が統治しています。再生された人のうちでは、罪は死に絶えてはいませんが、支配してはいないのです。」4
私たちは、罪の誘惑に負けてしまうことがあります。けれども、私たちはそこでもキリストが御霊によって私たちを支配しておられて、自分の罪に気づきそれを認め、心砕かれて、謙虚にされ、神に悔い改めるよう導いてくださることを約束されています。私たちが何一つ罪を犯さないものとなることが条件とか不可欠だというのではなく、罪はあってもキリストが私たちを支配してくださっている....................ことが何よりも大切なのです。そういう意味で、私たちは罪に対しては死んだ者であると信じるのであり、罪の支配下にではなく神の御支配の中にあるという意味で、
「神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと思いなさい」
と言われているのです。
ロイドジョンズという説教者が述べていますが、この六11はローマ書始まって以来、最初の命令です5。そして、六12、13、19節と命令文があって6、次は十二章の有名な、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」
まで、命令文はないのですね。それを考えても、ここで言われているパウロの勧告-私たちが自分を、罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思う(みなす、認める)ということ-がどれ程大切か、とパウロが言っているのだと分かるでしょう。
キリスト教は「永遠のいのち」を語る宗教です。信じるならば永遠のいのちが与えられます、と伝道します。その永遠のいのちとは、こういう意味でのいのちなのです。ただ肉体や魂が永遠に存続する、というだけではない。罪の支配から、神の御支配の中に移されていくのです。時間の上での永遠だけで心には不信仰や自己陶酔、砂をかむような思いが(永遠に)残っているとしたら、なんと虚しいことでしょうか。神が私たちに用意されているのは、そんな恐ろしい牢獄ではなくて、罪を捨てて永遠なる神のいのちに生かされるという、喜ばしく、願っても見ないような祝福なのです。それも、私たちがそれに相応しいから、ではなくて、相応しくないものに対する、溢れ余るほどの恵みなのですね。
私たちの実感としては、まだ自分は罪深い、罪に負けてしまう、という経験がまさっているでしょう。これは、ただ神の御言葉の約束と、イエス・キリストへの信頼だけを保証として、「信じる」ことが要求される、宣言です。私たちは自分の不信仰や醜い現実を見てしまうのではなく、御言葉の約束とキリストご自身を仰ぎ、受け入れるのです。同時に、これはやはり私たちの経験、歩みを通して私たちが導かれていく信仰でもあります。ある日突然に、御霊によってこういう信仰を持つ、というのではないし、神様に選ばれさえすれば、状況とは無関係にその人がポンと信仰を持つ、というのでもありません。私たちの出会い、人間関係、ちょっとした出来事やインパクト、様々なきっかけの積み重ねの中で、あるいは、教会の伝道計画、知恵の積み重ね、また信仰者の聖化などを通して、豊かな恵みへと導かれてきたのです。
であれば、私たちが恵みによって新しくされ、神の御支配を信じる者とされたこと、そこで主の御愛にいよいよ打たれて、賛美と感謝を捧げていくとき、その私たちの歩みを通して、周りの方々が信仰へと導かれていくことも、大いに期待したいものです。主の主権による救いとか選びというものは、もう融通の利かない、決定事項とか硬直したものではありません。私たちが、
「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
もちろん、そう思えない私たちの弱さをも用いて、神様は救いの御栄光を現されるでしょうが、だからこそその主の恵みを私たちがいよいよ確信させられていくときに、その私たちの歩みや祈りや賛美を通して、どれほど豊かな恵みをご計画されていることでしょうか。そして、私たちが弱さや罪に悩むとしても、究極的に私たちの救いは、神の一方的な主権にのみかかっていると信じる事実を仰ぐことが出来るのです。
主の慈しみの深さをここに本当に味わい知って、私たちの周りにも御栄えを現してくださると大いに期待して、望みをもって祈り、伝え、愛し、仕えていきましょう。
「キリストがただ一度、私共のために死んでくださいました。それによって私共は今なお罪と戦いつつも、すでに神に向かって生きる者とされています。この測り知れない幸いをもっと心から信じさせてください。自分の弱さやサタンよりも強い、主の御愛と御力を信じさせてください。その私共の歩みもまた、御栄えを現すと確信させてください」


文末脚注

1 「5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる…」と言われていたのを、6―7節で、前半のキリストの死と同じようになっていることを説明して、今日の8―11では、後半の、必ずキリストの復活とも同じようになることを説明している。そういう構造になっています。
2 ローマ七21。七13―24全体を参照。
3 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル書四15
4 G.I. Williamson のウェストミンスター信仰告白第六章五―六節の解説より。
5 あえて言えば、一7で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」と言われていたのがありますが、これは命令ではなく、祝福です。
6 六12「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に...従っては....いけま...せん..。」13「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい........。」 19「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に...進みなさい.....。」


2012/10/28 宗教改革記念礼拝 ローマ書六12―14「神にささげる生」

2012-11-05 14:45:30 | インポート
2012/10/28 宗教改革記念礼拝 ローマ書六12―14「神にささげる生」
箴言六1―19 詩篇一一六篇

 今日の箇所を読んで、もう一度思い出していただけたと思いますが、パウロはずっと、神様の恵みによって赦される-赦されることによって神の義の栄光が現される-のであれば、ますます罪を犯してもいいではないか、という揚げ足取りを想定して、そうではないことを論破しようとしています。11節までに論じられてきたことの要点は、今日の13節の言い回しの中に見出せると言えるでしょう。
「13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」
 この後半には、
 「…あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」
とあるのですが、前半では、
 「…あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」
としか言っていなかったのです。あなたがた自身を(あるいは、あなたがたを)罪にささげてはいけない、という言い方をパウロはしていません。ここだけではなく19節でも同じ言葉遣いです。
「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
 パウロが「ささげる」ことで考えているのは、「手足」なのです。もちろん、手と足だけではありません。これは、「器官」 、「からだの一部」 とも訳される言葉で、手や足や目や耳などすべての部分を指します。そういう部分々々を罪に捧げてはならない、とパウロは言う。しかし、あなたがた自身を罪に捧げるな、とは言いません。それは何故かと言えば、11節で言っていた通りです。
「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」
 これは、「気の持ちようでどのようにもなるのだから、そう思い込め」という意味ではありません。事実、キリスト・イエスにあって、キリスト者は罪に対しては死んでいるのだし、神に対して生きている者である、だから、その事実を認めなさい、という意味でした。私たちは、既に罪に対して死んでいる。だから、自分自身を罪にささげることは出来ない、あり得ないのです。あるいは、罪を犯してしまうとき、私たちは「また罪に流されてしまった。サタンの配下に飛び込んでしまった。」「神様の手から落ちてしまった」などというような思いを抱いてしまうのですが、そうではない、そんなことは起こり得ない。私たちはもう神様のものである。どうしたところで、私たちが神のものではなく、罪やサタンのものとなることなど不可能だ。なぜなら、イエス・キリストに結ばれた私たちは、罪に対しては死んで、神に対して生きている者なのだからです。
 しかし、神のもの、であるけれども、自分の手足を罪にささげてしまうことは出来るのです。出来るから、といって、して良いのではない。むしろ、神のものであるからこそ、自分のからだを、義の器として神にささげる。それがキリスト者の生活なのですね。
 前回もお話ししたように、パウロがローマ書でハッキリと命じている勧告、命令文は、一章以来ここまではありませんでした。この六章11節から13節で初めて、パウロは読者に対して、だからあなたがたは自分を罪に死に、神に生きている者だと考えなさい、そして、自分のからだを罪に捧げるのではなく、自分と自分のからだ(手足)を義の器として神にささげなさい、と命じるのです。そして、19節でまた、
「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
と言い、次は十二章までまた命令文(勧告)はなくて、十二1で、
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」
と勧めるのですね。そして、その後で、具体的な命令がずっと続いていくのですが 、その最初のところで命じられているのが、やはり「からだをささげなさい」なのです。ローマ書の適用は、福音の力、素晴らしさだけではなく、私たちが自分のからだを神に捧げる、ということです。それがキリスト者の生の柱なのです。私たちの手や足、目や唇、そのなす事一つ一つを、情欲(自分の感情や欲)に従わせず、義の器として神に捧げる。それが、キリスト者に対する神の御心なのです。
 神に自分を捧げる。私は神のものだと考える。それは勿論です。しかしそう言いつつ、からだの営みを見れば、この世の欲や発想に従って齷齪(あくせく)とこの世の道を歩んでいる、そういうことが大いにあり得る、と言うのです。献身とか恵みや聖化ということが抽象的な、精神的なことだけで考えられて、手足のしていること、目が見ているもの、口が語っていることも、神へのささげもの、という意識が抜け落ちている 。いや、むしろ、放っておけばそうしてしまうのであって、罪に捧げてしまわぬよう、どれほど私たちが注意深くなり、謙虚に祈り、力を尽くさなくてはならないか、は説明するまでもないでしょう。「神様にお委ねしています」と言えば聞こえはいいのですが、「委ねる」という事自体、実は行動であって、怠惰にすり替わってはならないはずです。私たちは、手足あるこのからだを神に捧げるよう命じられているのです 。
 とはいっても、私たちが正しく生きることによって救われるのでもありませんし、恵みによって救われた後は自分の力で頑張って正しく生きる、というのでもありません。
「13というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
 私たちが恵みの下にある、だから、自分の手足を義の器として神にささげなさい、というのです。律法の下にはいなくて恵みの下にいるのだから、何をしてもいい、ではないのですね。律法はそれだけでは罪の支配下にある人を救うことは出来ませんでした。義を示し、罪に気づかせるだけで、罪に囚われた者を救い出すことは律法には(当然ながら)出来ませんでした。けれども、恵みは罪人を義とし、罪人に神との平和をもたらし、罪に死んでいた者を「神の栄光を望んで大いに喜ぶ」者へと変えるのです 。その恵みの下にある者は、心や魂だけではなく、そのからだを罪の支配に委ねず、神のものとして捧げるよう努める。それが恵みの下にある者に与えられる生活なのです。
 今日は宗教改革記念礼拝で、ルターが「九五箇条の提題」を発表したことから始まった宗教改革の原点を、世界中のプロテスタントがともに確認をする日です。そのルターのひと世代後に登場したジャン・カルヴァンを、私たち長老教会はより直接的な原点として覚えるわけですが、マクグラスというイギリスの神学者はこう書いています。
「ルターにとって神の恵み深さは、神がそのような特権に対してふさわしくない罪人である人間を義とされたという事実にある。カルヴァンにとって神の恵み深さは人間をその功績に関わりなく救う決定にある。ある人間を救うという決定はその人間がふさわしいかどうかとは関係なくなされるのである。ルターにとって神の恵み深さは神が彼らの罪深さ〈にもかかわらず〉罪人を救うことにおいて示されるが、カルヴァンにとってそれは個人の功績とは無関係に救うということにおいて示されるのである。」
 ルターは私たちが罪人であっても救われる、という革命的な恵みを強調しましたが、カルヴァンは神が私たちを救ってくださる御心そのものを恵みとしました。そして、私たちが神の栄光を現す者とされていく、という本来の目的の回復に結びつけたのです。これが、キリスト者の生活を積極的なものとして位置づけ、世界そのものとの関わりに対する肯定的な姿勢を産み出し、後の科学や経済、労働の発展につながったのです 。
 この伝統は、今日の箇所でも裏付けられる財産です。恵みによるのだからと自分の罪や弱さを正当化するのではない。キリスト者であるということを抽象的・精神化してしまうのでもない。日々、私の手が、目が、唇が、罪を犯す器ではなく 、義の器、恵みの器となりますように、と祈る。特に、自分がどのような罪を犯しやすいか、具体的に自分の脆さ、クセを自覚して、聖とされたいと願い、祈ることがどれほど大切でしょうか。それは、律法に支配される、堅苦しいことではありません。恵みの下にある者ゆえの聖なる願い、喜ばしい渇望です。どうか、本当に私たちが、そういう宗教改革の財産を確認して、恵みの下にある歩みに成長し、祈り願うものとされたいものです。

「この手も足も目も口も耳もあなた様のものですから、どうか私共がこの一つ一つを主の器として尊び、恵みを運ばせて戴けますように。恵みによって救われるからこそ、恵みによって強められ、心もからだもきよくされる、そんな幸いを信じ、願わせてください。信仰の先人の道筋に励まされ、このからだを神にささげる喜びに与らせてください」


文末脚注


1 ローマ書十二4、5など。
2 マタイ伝五29、30。
3 参照、十二章2節以下十五章まで。ここに、「愛には偽りがあってはなりません。」「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」などなどの有名な勧告がギッシリと詰まっています。
4 箴言六16―19「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。」なども、聖書がどれほど具体的に私たちの罪をからだと結びつけて具体的に考えているかを教えています。
5 私たちの中に罪が残っている限り、「居心地の良い信仰生活」などという口上は世(よ)迷(ま)い言(ごと)でしかない、ということでしょう。
6 ローマ書五章(1―5節、15節、など)、および、その説教を参照。
7 アリスター・マクグラス『宗教改革の思想』(髙柳俊一訳、教文館、2000年)178ページ。
8 アリスター・マクグラス『ジャン・カルヴァンの生涯 西洋文化はいかにして作られたか 下』(芳賀力訳、キリスト新聞社、2010年)タイトルが示す通り、同書全体が、カルヴァンの西洋史における貢献を論じているが、特に、251ページなどにまとめられています。
9 「器」と訳されるギリシャ語ホプラは、ローマ書十三12では「…やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」と訳されています。(Ⅱコリント六7、十4、参照)。口語訳聖書では、この六13も「〈不義の、また義の〉武器」と訳しています。罪の武器として、他者と自分を傷つけ、神に刃向かおうとするのではなく、義の武器としてサタンのわざを打ち負かす、というニュアンスも捨てがたいものです。



2012/11/04 民数記二〇章「主を聖なる方とする」

2012-11-05 13:48:03 | 聖書
2012/11/04 民数記二〇章「主を聖なる方とする」
詩篇一〇六篇 Ⅰペテロ書五6―9

 少し先の話になりますが、民数記三三38―39を見ますと、
「祭司アロンは主の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。」
とあります。それが、今日の箇所、二〇22以下に記されている記事です。ですから、十五章で約束の地に入ろうとする手前まで来て、イスラエルの人々の大半が主の言葉に反抗して、四十年荒野を彷徨うことになると言われた、その四十年が、いつのまにか過ぎていたのです。十六章から十九章の出来事がそのどの辺りで起きたことなのかは分かりません。しかし、二〇章の時点では、四十年が経っていたのです。
 ここには、ミリヤムの死で始まり、アロンの死で終わる出来事が伝えられています。そして、モーセもまた、アロンともども、約束の地に入ることが出来ない、という宣言も12節にあります。
「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、私が彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
 そして、アロンの死も、24節で、ハッキリと、
「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。」
と、10―13節の出来事と結びつけられています。四十年が終わろうとしており、ミリヤムも死に、アロンも死に、モーセもその後に続くと言われます。こうして、約束の地に入る人々の「世代交代」ということを強烈に印象づける章なのです。
 ところで、なぜモーセとアロンは、約束の地に入ることが出来ないと言われたのでしょうか。同じような出来事は、出エジプト記の十七章にもありました。エジプトを出てすぐ、水がなくなったために民が呟き、モーセを殺さんばかりの勢いになったときです。主は、ホレブの岩の上に立ち、その岩を打つように命じられました。果たしてモーセが主の臨在である、雲の柱の立つ岩を打つと、水が流れ出て、民を潤したのです。
 この出来事と、今日の民数記二〇章の出来事は一つの出来事だと言う学者も少なくないのですが、起きる出来事も言われている命令も全く違うのです 。あのときは、主が岩を打て、と言われました。しかし、今回は、岩に命じよ、と言われたのに、命じるのでなく、打ったのです。それも、二度も、恐らくは力任せに。
 この事を、主は、
「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」
と言われます。信じなかった、というのは、岩に命じるだけで水が出るとは信じられなかった、という意味ではないのでしょう。主がそれ以上の奇蹟をなさることを二人は十分に見て来たのですから。むしろ、民の不平不満、3―5節で言われているような、民の、モーセとアロンを悪者に仕立て上げた言い方をして止まないその不信仰ぶりに対する怒りに心を燃え上がらせて、主の声を信じる事を疎かにした、その態度を指しているのでしょう。実際、モーセは10節で岩を打つに当たって、
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
と自分たちのことだけを言っています。主が命じられたことに心から従う、というよりも、「お前たちのためにやってやりたくなどないのに、主が言われるから仕方なしにやらねばならないのだ」とぶちまけ、でも腹立ち紛れに岩を二度打つのです。それが、主が言われる、
「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」
という問題なのですね。
 しかし、こういう心境は私たちにもよく分かるのではないでしょうか。せっかく四十年がやっと経った。書かれてはいないけれども、沢山の出来事や苦労があったでしょう。何よりもハッキリしているのは、そのひと世代前の、男だけでも「六十万三千五百五十人」とあった人々が 、全員亡くなってその埋葬をしなければならなかった、という事実です 。どんな思いで同胞を葬ってきたか。その末に、姉のミリヤムを葬った。どのような思いだったか。それなのに、また民が、四十年前と変わらない呟きで喚(わめ)き出すのです。モーセとアロンの思いはもう一杯だったのでしょう。それを、主が、二人に約束の地に入ることは許されないとは、あまりにも厳しいではないか。もう少し、違う、軽い罰でも十分ではなかっただろうか、と思いたくならないでしょうか。けれども、主はこれに厳しく処せられるのですね。
 ここで、主は、ご自分を聖なる者とする、と言われます。また、13節では、
「これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」
と言われています。これは、どういう意味なのでしょうか。
 聖である、ということは、レビ記の一章以来お話ししてきましたように、一切の私利や固執を持たない、損得を惜しまない、という面があります。言い換えれば、聖であるとは主が愛のお方であることに通じます 。ここでもそのことはハッキリとしています。主は、怒ったり脅すような奇蹟でもって迫られたり、もう四十年間荒野を彷徨わせたりしても良いだろうこの状況で、そういう方向ではなく、静かに岩に命じるだけで水を与えようとなさいました。そして、それをモーセたちが踏みにじったにも関わらず民に水を与えられ、また、主を代弁するべきモーセたちが怒りを表すことによって主の聖なる御業を歪めたことを厳しく罰せられることによって、ご自身が聖なる者であること、測り知れない忍耐をもって民を導かれる方であることを示してくださったのです。
 14節から21節には、エドムの地を通ろうとしたけれども、受け入れられずに遠回りをしなければならなかったことが書かれています。ヨシュア記に行きますと、こういう場合は戦闘になりますし、次の二一章では早くもそういう「聖絶」の戦いが始まりますが、ここでは主の命令がありませんからイスラエルは引き上げます 。二一章の中にこの出来事があった、という繋がりから考えさせられるのは、主がその民を約束の地に導かれる道程(みちのり)は、人間が思うような道ではない、ということです。人間が常識や感情で判断することを主はお閉ざしになる。人には回り道のように思える道を受け入れなければならないように、感情的には受け入れがたいほどの主の聖なるあわれみ、赦し、慈しみを信じ、それに従わなければならない、ということです。私たちが怒り、妬み、力任せに生きようとする心を、一片たりとも持ち込むことは出来ないのです。勿論、それは律法的に、道徳的に、私たちがそうしなければならない、ということではありません。主はそのようにさせてくださる。けれども、それは私たちが何もせずに、いつの間にか、寛容で忍耐深い性格に変わっている、というようなものではなくて、毎日の葛藤や、怒っても当然というような状況で、主の前に謙らされ、砕かれて、自分の思いを捧げる、そういう作業を通してなのですね。主は、私たちをそのようにしてお取り扱いくださるし、お取り扱いくださっている、ということです。なぜかといえば、そうでなければ、主が聖なるお方であるとすることが出来ないから-人間が考えたりギリシャ神話に出て来たり、「仏の顔も三度」と言われるような、所詮はそんな神でしかないのだ、神の恵みだといっても、人間の努力が必要なのだ、と思わせてしまうから-であります。主が本当に恵みの尽きないお方であることを表すようなキリスト者とするために、主は私たちを訓練されて止まないのです。それが、主の備えられた地上の道です。
 アロンが召されたことは、アロンの最後である以上に、その息子のエルアザルに大祭司職が継承されたこととして強調されています。大祭司が絶えず民のために執り成しをすることと、アロンからエルアザルへの世代交代は、民に次の新しい時代への希望をもいだかせたはずです。そして、この大祭司職の末がイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちを導いてくださっています。聖なる御愛をもって、決して私たちを滅ぼさずに忍耐をもって導いておられる。その導きに似た私たちとされることを願います。

「聖なる主が、私共をも聖なる者としようとしておられる。私共以上にあなた様の忍耐はどれほどでしょう。どうぞ、私共の心を見せかけの愛から救い出し、主の愛によって砕き新しくしてください。この願いと祈りを、どうぞ日々新たにし強めさせてください」



文末脚注

1 両者とも、「メリバの水」という、原因譚(げんいんたん)的な文章で結ばれますが、地理的に離れた場所に同じ名前の地名を付けることも不思議ではありません。
2 民数記一46。
3 十六章の神罰では「一万四千七百人」が死んでいます(49節)。こういう突発的な出来事もあったわけですが、平均すると四十年では(男だけでも)一日四十人が亡くなる計算になります。女子どもを加えると、毎日百人平均の埋葬をしたことになります。
4 このことは、以前にもホセア書十一8―9でお話ししたことです。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」ここには、「聖なる者」であることが、イスラエルを「燃える怒りで罰しない」ことと結びつけられています。
5 また、これは、エドム人との関係が、聖絶の関係ではなく、先祖を兄弟とする友好関係にあることを教えてもいるでしょう。