聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」

2012-11-19 15:05:21 | インポート
2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」
エゼキエル書十六19―23 詩篇十六篇

 六章の最後の部分になりますが、ここでパウロは、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。…」
という言い方をしています。この前後でパウロは、奴隷制を引き合いに出して語っています。神様の恵み、救い、自由は、地上の出来事の何によっても例えることは出来ないものです。けれども、それを奴隷制に準えて知らせようとしているのです。「恵みによって救われるのだから罪を犯そう」というような詭弁に振り回されるような幼稚さ、弱さを慮(おもんばか)って、パウロは人間的な言い方をして、身を屈めて分からせようと順応しているのです。そしてもう一度、
「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」
と、奴隷の譬えを展開します。完璧な譬えには程遠いのですが、しかし、思い切ったこの例証によって、罪の生き方を捨てるようにと言っているのです。
 何度もお話ししてきたように、決してパウロは、罪の生き方を捨てることによって、神の奴隷(しもべ)となりなさい、と命じているのではありません。むしろ、神の恵みによって既に罪から救い出された、もう既に神の奴隷であるという事実を言っており、その事実に基づいて、罪に生きるのではなく、義に生きなさいと言っているのです。私たちは、なお罪を犯してしまうものです。罪の奴隷であるかのように、傲慢や欲や感情に振り回されてしまうことはあります。しかし、罪の奴隷であるかのように生きてしまうことはあっても、罪の奴隷となってしまうのではありません。この区別はとても大切です。
 パウロは20節以下でもこう言います。
「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
 罪の奴隷であった時、とか、その当時、という言い方が示しているように、それは過去の生き方なのです。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となっている、なのです。もう以前とは違うアイデンティティ、立場、身分、肩書きがあるのです。それは、神のしもべ、神のものである、という私たちであるのです。
 「義については、自由にふるまっていた」
というのはどういうことでしょうか。自由に義を行っていた、という意味ではないのは明らかです。ここでは、「自由」と「奴隷」とは反対ですから、罪の奴隷であったということであり、義に従わずに生きてきた、愚かで不正な生き方を指しているのです。それは喜ばしい自由だったのでしょうか。そこに良い実りがあったのでしょうか。いいえ、何もなかったのです。今にして思えば、罪を楽しむ生き方とは、恥じる外ない生き方であり、何の良い実もない不毛な生き方であり、死に向かっていたのです。
 「行き着くところ」
と21節と22節にありますが、この言葉は「終わり・最後」とも「目的・ゴール」とも訳せる言葉です 。罪に従う生き方は、死を目的地・終着駅としています。これは、肉体的な死、最後は心臓が止まって死ぬ、という意味に限らないでしょう。神に従う生き方も、からだの死は避けられないのです。むしろ、神のいのちに逆らい、生きながらにして死んだ者となっている、「霊的な死」と言うべき状態を指しているのでしょう。この世の欲や権力の虜(とりこ)となり、誰よりも長生きをしているとしても、いのちの主である神に逆らったその歩みは既に死んだものなのです。
 主イエス・キリストは、私たちをそのような、死へと向かう生き方から救い出してくださいました。神の恵みによって、私たちはもう神のものとなっているのです。そして、だからこそ、私たちは、
 「聖潔に進みなさい」
と命じられています。罪の方にではなく、聖なるものとされることを願い求めなさいと言われるのです。
 次の23節では、このことを纏めてこう言います。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
 ここには、「死」と「永遠のいのち」とが対照されています。先に、罪のゴールは死、神に従う道のゴールは永遠のいのち、と言われていたのをもう一度纏めています。けれどもやはりここでも、私たちが神に従うことによって、永遠のいのちをいただく、とは言われていないのですね。死は罪の報酬と言われていましたが、いのちは神の下さる賜物です。プレゼントです 。人間が神に従った結果としていのちをいただくのではないのです。これは、神様からの贈り物です。
 これは少し考えると、アンバランスな対比ではないか、とも思えます。義に従いなさい、罪を犯すのはやめなさい、と勧めながら、しかしそのように生きる結果・報いを語っているのではないのです。罪は死をもって報いるのですが、義がいのちという報いをもたらす、と言うのではないのです。義の根拠である、神と主イエス・キリストが示されるのです。パウロが指さすのは、恵みの神です。そこから、私たちが、罪が恥ずべきものであり、そして不毛でしかない現実を見させられて、手足を義にささげることが出来るのです。そこには、
 「聖潔に至る実」
も結ばれるのですが、しかし、それさえも、私たちが頑張って結べるわけではなくて、神の恵みがもたらした実なのです。
 さて、14節でパウロは、
 「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」
と言いました。そして、恵みの下にあるということを口実に、開き直って罪を犯そうとする人がいることを想定しました。しかし、パウロが考える「恵みの下」とは、罪を犯しても赦してもらえる、という意味での「恵みの下」ではなかったのです。その恵みは、私たちを聖潔に至らせ、永遠のいのちへと向かわせる恵みだったのです。恥ずべき罪を恥じさせてくださり、不毛なもの、いくら手に入れても決して心を満たされることないものを追うことを止めて、神の義を求めさせてくださるのが、恵みの神なのです。
 しかし、それほどの恵みを約束されていながら、パウロがそのような屁理屈を想定しなければならなかったのも現実です。私たちの中にもまた、神の恵みを、卑しく自分勝手に、歪めて考えてしまう思いがあるのです。自分の罪を大目に見てくれ、都合の良いようにあれこれと楽をさせてくれる、それが神の恵みだと思う自分がいるのです。
 パウロはそのような幼さを、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」
と言っていました。奴隷という譬えが不完全であるとは分かりながら、幼いキリスト者に分かって欲しくて、こういう言い方をしたのです。
 言い換えれば、キリスト者として成人していく、幼く弱い者から、成人した強い者へと成長していくということは、恵みをも口実として自分にとって居心地のよい生き方に温々としていよう、というのでなく、神に仕え、神のものとして生きることを喜び、本当に納得して、義に従って行くようになる、ということでもあるのでしょう。イエス・キリストにある永遠のいのち、恵み、賜物、といったことが、罪の思いと戦うようにされて、イエス様のように自分をささげ、御心に従ういのちであると悟っていくこと。あれもこれもあったらいい、と手足を伸ばすのではなく、自分の手足も持っているものすべてをも捧げる者とされていくのです。そのような、心の底における変化が、
 「聖潔に至る実」
を結ばせるのです。
 ボンヘファーは、従うことを願わないキリスト者が考えているものを「安価な恵み」、服従へと招く恵みを「高価な恵み」と呼びました 。私たちがキリストに従うことは真に高価な、そして本物の恵みです。その恵みのいのちへと至らせるために、キリストは十字架にかかってくださったのです。

「私共の心を開いて、あなた様に従う幸いを悟らせてください。主イエス・キリストが歩まれたしもべの道にこそある自由を求めさせてください。まだ弱く、幼い者です。だからこそ、あなた様が忍耐をもってお語りくださっている招きに従わせてください。永遠のいのちへと至る道を、いよいよ身軽に、いよいよ惜しまぬ心で、進ませてください」


文末脚注

1 ギリシャ語「テロス」。ローマ書では、十4に「終わらせられた」、十三7で「義務」と訳されています。
2 ギリシャ語「カリスマ」。恵み「カリス」の複数形であることにも、これが報いや資格に基づくものではなく、恵み(一方的な贈り物)であることが表されています。
3 「安価な恵みとは、説教、原理、体系としての恵みのことである。一般的真理としての罪の赦しのことである…安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない…安価な恵みとは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである…高価な恵みは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがするゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈物として与えるがゆえに恵みである」ディートリッヒ・ボンヘッファー『キリストに従う』より

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