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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」

2012-11-06 10:29:33 | 聖書
2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」
         イザヤ書四八7―19  詩篇一二五篇


 六章1節で提出された、罪人がただ恵みによって赦されるというなら、ますます罪を犯そうじゃないか、という屁理屈に応えている言葉が続いています。今日の、
「 8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」1
とあるのも、罪に対して死ぬ、というのは、キリストとともに生きるということを言いたいわけです。
しかし私たちは、このような言葉を読むと、「そうは言われても、自分はまだまだ罪に対して死んでいない。誘惑に負け、感情に流され、自己中心的な計算や発想をすぐにしてしまう。私にはこんな御言葉は到底信じられない」とすぐに思ってしまうのではないでしょうか。前回も、そうではないことをお話ししました。七章でパウロは、パウロ自身の中にある、
「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです」2
という現実を正直に告白しています。ですから、ここでも、私たちの中に悪や罪がなくなると言っているのではないのです。特に、今日の箇所では、キリストが死んでよみがえられたように、私たちも罪に対して死んで、神に対して生きている、と言っています。では、キリストは、どのような意味で罪と死に対して死なれたのでしょうか。これを理解することが鍵になります。ここで注意したいのは、パウロは9節10節で、キリストの死と復活を述べていることです。
「 9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように.....、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
キリストは、十字架に死なれました。しかし、死なれる前は、罪を犯しておられたのでしょうか。いいえ、キリストは、お生まれになってから十字架に掛かられるまでも、何一つ罪を犯されませんでした3。キリストが死なれたのは、それまでは罪を犯したけれども、死んでからは罪を犯さなくなった、というような意味ではありません。10節にある、「ただ一度」という言葉は、一回だけ、という意味ではなく、その一回ですべて(once and for all)、あるいは「決定的に」「最終的に」という意味での「ただ一度」です。キリストは、人となられたときに、私たちを死から解放してくださるために、ご自身が死ぬべき肉体をもたれ、死の支配下に置かれることをよしとされました。しかし、その死によって、死はもうキリストを支配することが出来なくなりました。罪を犯さなくなった、のではなく、死の支配に束縛されることがなくなったのです。
それと同じ意味で、とパウロは言います。私たちは、キリストを信じてキリストにつぎ合わされるとき、もはや罪を犯さなくなるのではありません。キリストの死は、罪との決別という意味ではなく、死の支配との決別だったのですから。まだまだ、罪を犯すのです(だからといって罪を犯そうと開き直るのでは決してありませんが)。けれども、救われるときに、私たちはその罪を認め、嘆き、悔い改める者となるのです。
「ある人が再生されているという証拠は、すべての罪と腐敗から自由にされているなどという虚しい妄想ではなく、キリストの赦しと、聖霊が私たちのうちに罪に死に義に生きるよう誠心誠意戦わせてくださっている働きとをバランスよく自覚しているかどうか、にあるのです。私たちが聖書において出会う忠実なキリスト者たちは、この世における完成などは決して口にせず、キリストの贖いによる自分たちの罪の赦しを宣言したのであり、罪に対する飽くことなき戦いを教えたのです。…再生していない人のうちは腐敗が支配していますが、再生された人のうちには神の御霊と神の律法が主導権を握っているのです(ローマ八・七-十四)。再生されていない人のうちでは、罪が統治しています。再生された人のうちでは、罪は死に絶えてはいませんが、支配してはいないのです。」4
私たちは、罪の誘惑に負けてしまうことがあります。けれども、私たちはそこでもキリストが御霊によって私たちを支配しておられて、自分の罪に気づきそれを認め、心砕かれて、謙虚にされ、神に悔い改めるよう導いてくださることを約束されています。私たちが何一つ罪を犯さないものとなることが条件とか不可欠だというのではなく、罪はあってもキリストが私たちを支配してくださっている....................ことが何よりも大切なのです。そういう意味で、私たちは罪に対しては死んだ者であると信じるのであり、罪の支配下にではなく神の御支配の中にあるという意味で、
「神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと思いなさい」
と言われているのです。
ロイドジョンズという説教者が述べていますが、この六11はローマ書始まって以来、最初の命令です5。そして、六12、13、19節と命令文があって6、次は十二章の有名な、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」
まで、命令文はないのですね。それを考えても、ここで言われているパウロの勧告-私たちが自分を、罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思う(みなす、認める)ということ-がどれ程大切か、とパウロが言っているのだと分かるでしょう。
キリスト教は「永遠のいのち」を語る宗教です。信じるならば永遠のいのちが与えられます、と伝道します。その永遠のいのちとは、こういう意味でのいのちなのです。ただ肉体や魂が永遠に存続する、というだけではない。罪の支配から、神の御支配の中に移されていくのです。時間の上での永遠だけで心には不信仰や自己陶酔、砂をかむような思いが(永遠に)残っているとしたら、なんと虚しいことでしょうか。神が私たちに用意されているのは、そんな恐ろしい牢獄ではなくて、罪を捨てて永遠なる神のいのちに生かされるという、喜ばしく、願っても見ないような祝福なのです。それも、私たちがそれに相応しいから、ではなくて、相応しくないものに対する、溢れ余るほどの恵みなのですね。
私たちの実感としては、まだ自分は罪深い、罪に負けてしまう、という経験がまさっているでしょう。これは、ただ神の御言葉の約束と、イエス・キリストへの信頼だけを保証として、「信じる」ことが要求される、宣言です。私たちは自分の不信仰や醜い現実を見てしまうのではなく、御言葉の約束とキリストご自身を仰ぎ、受け入れるのです。同時に、これはやはり私たちの経験、歩みを通して私たちが導かれていく信仰でもあります。ある日突然に、御霊によってこういう信仰を持つ、というのではないし、神様に選ばれさえすれば、状況とは無関係にその人がポンと信仰を持つ、というのでもありません。私たちの出会い、人間関係、ちょっとした出来事やインパクト、様々なきっかけの積み重ねの中で、あるいは、教会の伝道計画、知恵の積み重ね、また信仰者の聖化などを通して、豊かな恵みへと導かれてきたのです。
であれば、私たちが恵みによって新しくされ、神の御支配を信じる者とされたこと、そこで主の御愛にいよいよ打たれて、賛美と感謝を捧げていくとき、その私たちの歩みを通して、周りの方々が信仰へと導かれていくことも、大いに期待したいものです。主の主権による救いとか選びというものは、もう融通の利かない、決定事項とか硬直したものではありません。私たちが、
「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
もちろん、そう思えない私たちの弱さをも用いて、神様は救いの御栄光を現されるでしょうが、だからこそその主の恵みを私たちがいよいよ確信させられていくときに、その私たちの歩みや祈りや賛美を通して、どれほど豊かな恵みをご計画されていることでしょうか。そして、私たちが弱さや罪に悩むとしても、究極的に私たちの救いは、神の一方的な主権にのみかかっていると信じる事実を仰ぐことが出来るのです。
主の慈しみの深さをここに本当に味わい知って、私たちの周りにも御栄えを現してくださると大いに期待して、望みをもって祈り、伝え、愛し、仕えていきましょう。
「キリストがただ一度、私共のために死んでくださいました。それによって私共は今なお罪と戦いつつも、すでに神に向かって生きる者とされています。この測り知れない幸いをもっと心から信じさせてください。自分の弱さやサタンよりも強い、主の御愛と御力を信じさせてください。その私共の歩みもまた、御栄えを現すと確信させてください」


文末脚注

1 「5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる…」と言われていたのを、6―7節で、前半のキリストの死と同じようになっていることを説明して、今日の8―11では、後半の、必ずキリストの復活とも同じようになることを説明している。そういう構造になっています。
2 ローマ七21。七13―24全体を参照。
3 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル書四15
4 G.I. Williamson のウェストミンスター信仰告白第六章五―六節の解説より。
5 あえて言えば、一7で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」と言われていたのがありますが、これは命令ではなく、祝福です。
6 六12「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に...従っては....いけま...せん..。」13「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい........。」 19「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に...進みなさい.....。」

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