聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/9/30 ローマ書六1―4(五20―六4)「いのちにあって新しい歩みをする」

2012-11-07 15:05:19 | 聖書
2012/9/30 ローマ書六1―4(五20―六4)「いのちにあって新しい歩みをする」

 一言で言えば、キリスト教とはどんな教えか、と聴かれたら何と答えればよいでしょうか。ひとことで答えられるかどうか、はともかく、取っ掛かりとして相応しい言葉が、今日の、いのちにあって新しい歩みをする、という4節の言葉です。神の愛とか、赦しとか、そういう面も大切です。けれども、その、神の愛、赦しという事そのものが、私たちを、いのちにあって新しい歩みへと突き動かす、というところまで行ってこその、神の愛であり、罪の赦しのメッセージなのです。
 先週まで読んで参りました、このローマ人への手紙の五章までには、本当に豊かで確かな神の恵みが、丁寧に述べられてきました。私たちが善い行いをするから救われるというのであれば、誰一人、神の前に正しいことなど出来ない罪人であるわけですが、だからこそ神様は、私たちに、キリスト・イエス様を送ってくださって、罪からいのちに移してくださった。それがどんなに確かなことか。
 そう繰り返したのは、やはり人間の側に、神様の愛への疑い、不安、不信というものがあるからです。善行とかお布施、難行苦行といった犠牲を払って、神様の気を引くことでも出来なければ、救ってはいただけないのではないか、という人間の陥りがちな考えでは間に合わないほどの大きな神の愛ですから、パウロは重ねて言葉を継ぎ、譬えをいくつも持ち出して、神の救いの確かさを語ります。その一つのクライマックスと言えるのが、今読みました、五章最後の部分です。そこには、
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
という言葉さえありました。神様が律法を与えて、人間に自分の罪を動かしようのないほどハッキリとお示しになる。しかし、それによって私たちは絶望するのではなくて、いよいよ神様のお恵みというものを知る。私たちが善いから、立派だから、ではなく、本当に、一方的な恵みによって救ってくださるという神様の測り知れない恵み深さがいよいよ分かる。満ちあふれる程に見えてくる。そこまでパウロは言い切ったのです。
 しかし、そうしますと、人間というのは本当に屁理屈をこねるもので、
「六1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」
 こういうことを言い出す人がいる。実際にそういう人がいることをパウロは念頭に置いて、先手を打つように話しているのだと思います。神様の恵みによる救い-人の行いには一切依らない救い-これは、ずっと後の宗教改革において回復された主張ですが、その時も既存のカトリック教会が非難した攻撃の一つは、「そんなことを言い出せば、みんなが野放図に、好き勝手に生き始めても歯止めが出来なくなる。不道徳を助長する邪教だ」という論理でした。実際そういう動きもありました。それが、人間の罪であり、狡さだとも思います。
 しかし、宗教改革者たちもパウロも、それに対してこう言うのです。
「 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
 罪に対して死んだ。これはどういう意味でしょうか。直前の五21節では、
「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる…」
とありました。罪が支配した状態から、恵みが支配するようにと新しくされた、と言います。それが、罪に対して死んだ、ということです 。
 確かに、神様の愛は、私たちがどんなに罪を犯しても、私たちを赦し、愛し続け、最善をなしてくださる恵みです。しかし、私たちが罪を犯していても「まあ、いいや」と大目に見るというのとは違うのです。私たちを愛するからこそ、私たちを見捨てまい、滅ぼすまい、というだけではなく、罪の支配から恵みの支配へと移す。私たちの心を毒し、やがては滅ぼすような罪を怒らないだけでなく、その罪から引き摺り出してでも救い、生き方を一新させようとする。それが私たちを愛する神様の愛です。そうでなければ、本当に私たちを愛するとは言えないのではありませんか。
 赦されるならば罪を楽しんでもええじゃないか、それで一層恵みを味わわせてもらったほうがいいじゃないか、と言って憚らないとしたら、それこそが罪の奴隷となっている証拠ですね。そういう人間の性根-罪がどれだけ神を傷つけ人を傷つけるかを考えずに、自分の楽しみや都合を振り翳す人間の罪-そこから神様は私たちを救い出してくださったのだ。それなのにまだ罪の中に生きよう、その方が恵みが分かる、などということはあり得ないじゃないか、と言われているのです。
 少し考えるとお分かりになることですが、このように言われている事自体、逆に、この手紙の読者である当時の教会も、それ以降の私たちを含めたキリスト者たちも、イエス様を信じたら、たちまち心が清くなって罪を犯さなくなる、というわけではないし、どうせ赦されるのだから罪を楽しもうという屁理屈を捨てているわけでもないのです。もしそうなら、こんなこと自体、言わなくてもいいはずですから。
「 3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」
とあるのも、洗礼(バプテスマ)を受けたから、自動的に新しく生まれ変わって、いのちにあって新しい歩みをしている、もう罪のない生き方をしている、ということではないわけです。洗礼やその水に、何か特別な力があるのではありません。しかし、パウロは洗礼を受けた事実に訴えます。イエス様が洗礼を教会にお命じになったのですが、教会への入会儀式として洗礼があることを私たちは軽く考えて、「ただの儀式だ」などと言ってはなりません。それを受けたからと言って心が新しく生まれ変わるのではない。また、洗礼を受ける本人が、どれだけ罪からきよくされた生き方を自覚しているかも定かではないかも知れません。それでも、その洗礼を受けたという揺るぎない事実を根拠としてパウロが訴えているように、私たちは、キリストの福音を信じ、洗礼を受けるときに、自分がもう神の支配の中にあるという事実を信じることが許されるのです。まだ罪を犯してしまうのも事実です。神の愛が見えない思いをするときもあるのです。それでも、私たちは、神の恵みの支配の中に、今自分がある。罪は、私たちの心に働きかけますが、決して私たちを支配して、神の手から私たちを奪って滅ぼすことは出来ないと信じなければならない。
 この夏に秩父でありました合同修養会で教えられたことの一つは、私の心には、不安や心配がいつもある、ということです。自分の性格を考えさせられて、改めて、自信のなさが、自分の行動や心理を物凄く左右していることを認めざるを得なくなりました。そういう私にとっては、本当にこの聖書のメッセージは慰めであり救いです。私が恐れたり案じたりしていても、神様が私を支配してくださっているという事実は変わらない。私が頑張って聖い生き方をしようとか罪を犯すまいとすることで信仰が確かになるのではない。明日も東から太陽が昇るのだろうか、目が覚めたら1足す1が7になっていたらどうしようかと人間が心配し始めたとしても、それで自然法則が揺らぐことなどないように、私が疑おうと分からなくなろうと、神様の方で私を支配していてくださる。だから、この方への信頼と服従に生きる。いのちにあって新しい歩みをする、のです。
 「歩み」という言葉、文字通り、歩むという言葉です 。キリストの支配に入れられることは、走ったり躍ったり、熱狂するようなことではなく、「歩み」です。目立ったり偉大なことをしたり、丸きり生活を変えて生きるのではなく、変わらない毎日の中で、淡々と歩みつつ、しかしその歩みがいのちに支配されている。神を礼拝し、罪に背を向け、キリストの救いの恵みの中にあることを確信して、一歩一歩、歩んでいる。キリストを信じても、日常の営みの苦労はなくならないでしょうし、病気や災害や死に襲われなくなるわけでもありません。けれども、先の五章3節以下では、そんな艱難さえも、私たちを忍耐や品性や希望を生み出すと、喜んで告白すると言われていました。私たちは、自分を省みれば如何に小さく、身勝手な者であるかを知るばかりです。けれども、そんな私たちを、神様がどれほど確かに捉えていてくださることでしょうか。私たちの心の底の底までご存じのお方が、その心の底で神様を信じ、喜び、お委ねする、新しい歩みをさせようと決めてくださっている。その恵みにご一緒に与りたいと思います。

「キリストにある者とされる幸いが、罪を楽しむでも敬虔さを装うでもなく、あなた様の恵みにますます信頼する歩みであることを教えてくださり感謝します。今なお恵みよりも自分の力に頼もうとする思い上がりを砕き、只管(ひたすら)、主に拠り頼ませてください。豊かに私共をもてなしてくださる一方的な御愛のうちに、この午後も憩わせてください」


文末脚注

1 次の七章では、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。…」と(身も蓋もないような)譬えを語っています。
2 新共同訳や口語訳では「生きる」と訳しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012/10/07 民数記十九章「赤い雌牛の灰の水」

2012-11-07 15:02:35 | 聖書
2012/10/07 民数記十九章「赤い雌牛の灰の水」
詩篇五六篇 使徒の働き二十7―12

 民数記の十六章から続いて参りました、祭司の役割についての教えが、今日の箇所で一段落します。次の二十章からはまたしばらく、色々な出来事が綴(つづ)られていきますので、この十九章は一つの区切りとして大切な意味を持っているはずです。それが、雌牛の灰を作って、それを混ぜた水を、死者に触れた人に振りかけて、汚れをきよめなければならない、という規程です。
 新約聖書のヘブル人への手紙九章13―14節にはこうあります。
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 今日の民数記十九章の「雌牛の灰」を引用して、まして、キリストの血は、どんなにか私たちの良心をきよめるか、と言う。しかし、逆に言えば、そういう引き合いに出すぐらい、この規程は大事なものである、ということでもあるでしょう。
 それにしても、今日の箇所は、第一印象も取っつきにくく思われるでしょうが、読めば読むほど、不思議であり、また「異例」ずくめです。まず、赤い雌牛とありますが、赤いかどうか、以前に、雌牛を屠って儀式に使う、という事例はここ以外にありません。また、3節にあるように、
 「宿営の外に引き出し」
つまり、幕屋の中の祭壇ではなく、外で動物を焼くというのも他にはない指示です。
 「 5その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに…」
焼くという焼き方も特別です。全焼のいけにえでさえ、皮は剥ぎ、血は流し、内蔵は洗った、その残りを「全焼」とするのです。
「 6祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。」
というのもここだけです。レビ記十四6でも、この三点セットは登場しましたが、焼かれはしませんでした。
 そもそも、これは「いけにえ」ではありません。「焼く」という動詞が生贄を焼く場合とは別の言葉が使われています。焼かれるのも、祭壇でではなく、外で灰を作るため、なのです。
 こうした雌牛の扱いそのものについての異例さと共に、目に付くのは後半11節以下の、罪の汚れの理解もユニークであることです。雌牛を焼くのは、その灰を湧き水に混ぜて、汚れをきよめる水として用いるためでした。しかし、その罪の汚れとは、
 「11どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」
 こう言われる通り、人の死体に触れたときの「汚れ」なのです。道徳的な罪ではなくて、死体に触れた結果、触った人が担う汚れを指して、「罪」と言っているのです。道徳的なことを言えば、人の死体に触れることが罪だとは言えません。むしろ、嫌がらずに死体に触れることがその人の憐れみとか自己犠牲の精神から出ている、ということもあるでしょう。「善きサマリヤ人」の譬えで、祭司とレビ人が、強盗に襲われた旅人を見ながら、
 「反対側を通り過ぎて行ってしまった」
のは、もし死んでいた場合に死体に触れたら自分が汚れることになってしまう、と考えたからでもあったのでしょう。それは明らかに非難すべき行動でした。ですから、ここで言われている「罪の汚れ/罪のきよめ」とは、死体に触れることが道徳上よろしくない、という事ではなく、もっと根源的な人間の罪を扱っているのでしょう。人道的には何一つ責められるようなことはしていなくても、人は必ず死ななければなりません。また、周りの人が突如として亡くなり、その亡骸(なきがら)に触れざるを得ない場合も起こるでしょう。そういう身近な死によって人間が思い知らされる罪-いのちの源である神に背を向けてしまっている罪の事実-をここでは問うているのです。
 人間の罪の現実の、どうしようもなさ、死という冷たい事実を問うてくる。そして、それは三日目と七日目にきよめの水をかける、という形の儀式であって、その水をかければ忽(たちま)ちきよくなるというものでもないし、かえってその儀式に関わった人、灰に触ったきよい人たちさえも汚れに巻き込まずにはおれない、ということにもまた、死の現実の度(ど)し難(がた)さが現されているのではないでしょうか。
 そして、それがまた、赤い雌牛だとか、宿営の外だとか、最初に申し上げたこの規程のユニークさの理由でもあるのでしょう。罪を犯すとか犯さないとか、そういうレベルとはもっと別の次元でのきよめが必要であることを、死という現実に触れるときに人間は気づかなければならない、ということなのです。祭壇や幕屋での儀式では間に合わないような、きよめの儀式が備えられなければならない、としていた意味では、旧約の儀式律法の限界をここで現しています。様々な生贄や儀式が定められてはいましたが、それが万能なのではなく、本当に肝腎な、一番の根底にある死という問題を解決することは、幕屋や神殿や儀式では出来ない、と白状しているのです。
 死は人間にとって自然なものではありません。本来、神様は人間をご自身のかたちに似せてお造りになり、儚(はかな)い死すべき存在としてではなく、ご自身との永遠の交わりに生きるものとしようとされたのです。その神様に逆らい、人間が自分の力で生きようとし始めた時に、人は死すべき者となってしまって、今日に至っています。死は、それ自体が、人間が神に背いた事実の証しです。勿論、その死さえも神様は益とされて、私たちに最善をなしてくださいます。また、慰めに満ちた死に方とか、悔いのない最期という場合もあります。そうでなくとも、私たちは、死の先に、イエス様が私共を迎え入れてくださり、地上の生涯では朧(おぼろ)な幻でしかなかった祝福へと導き入れてくださる、と知らされています。それでも、その死自体は益でも喜びでもなく、神様のいのちのわざを無に帰そうとする虚しいものであり、罪の報酬であることを私たちは忘れてはならないのです。
 今日、この民数記十九章で、祭司の役割について教えてきた締め括りに、このような規程がある事実を心に刻みましょう。祭司は、民に、死をサラリと流さず、そこでもう一度謙(へりくだ)り、砕かれて、神様へと悔い改めさせることを、その大きな使命の一つとしていました 。死の中にある民に、いのちの神をしっかりと仰がせることが、祭司の重要な役割だったのです。それは、今日の教会にも言えることでしょう。キリスト教の葬儀に出席して初めてキリスト教に触れる、意味が分かる葬儀という体験をする、という声をよく聴きますが、そういう場でこそ、お茶を濁したような弔辞ではなく、本当に神様の前に謙り、悔い改めるような告白を、キリスト者が自ら持つべきなのです。
 最初に引用しましたように、ヘブル人への手紙九13、14では、
「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
と言われていました。私たちは、雌牛の灰よりも遥かに優れた、イエス・キリストの血に与っています。イエス・キリストは私たちのために、都の外で十字架に殺されました。そして、私たちに水の洗礼をお命じになり、罪の全ききよめを現してくださいました。赤い雌牛ならぬ赤い葡萄液の杯を差し出されて、私たちにご自身のいのちを差し出してくださっています。私たちは、死を恐れることなく、永遠のいのちをいただいて歩んでいますが、それは死を軽んじるのではなく、イエス様の十字架の死という測り知れないみわざを心に深く留めることによってなされるのですし、また、私たちの生活が、死んだ行いから離れさせる-この地上の朽ち行くものを(責任をもって受け止めつつ)決してそこに価値の規準を置いたり耽溺したりせずに生きる-ことを伴うのです。
 今日読みました使徒の働きで、パウロが死んだ者に汚れを恐れることなく触れたという行動は、死者にふれては汚れる、という律法の限界を超えて、死に優るいのちを証しした行為でもありました 。私たちも、イエス様の十字架を知ることによって、どんな死よりも強い、生ける神に仕える者として整えていただきたいと願うのです。

「私共の心に主のいのちを届けてください。死の闇を打ち破るいのちの光を輝かせてください。たくさんの死のニュースに、心を麻痺させるでも恐れるでもなく、この世界のためにこそイエス様がおいでくださったのだと、深く覚えさせてください。自分や愛する者が死すべき存在でありつつ、いのちに生かされていると心から告白させてください」?


文末脚注

1 ルカ伝十章13、14節。
2 そのためにも、祭司たち自身が、死者にふれることが厳しく制限されていました。レビ記二一1、11以下参照。
3 使徒二〇7―12。また、エリヤ(Ⅰ列王記十七19、21)、エリシャ(Ⅱ列王記四34)も、死者に身を重ねました。また、善きサマリヤ人の譬えを語られたイエス様ご自身、死者に触れられていのちをお与えになりました(ルカ八54)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする