2012/9/30 ローマ書六1―4(五20―六4)「いのちにあって新しい歩みをする」
一言で言えば、キリスト教とはどんな教えか、と聴かれたら何と答えればよいでしょうか。ひとことで答えられるかどうか、はともかく、取っ掛かりとして相応しい言葉が、今日の、いのちにあって新しい歩みをする、という4節の言葉です。神の愛とか、赦しとか、そういう面も大切です。けれども、その、神の愛、赦しという事そのものが、私たちを、いのちにあって新しい歩みへと突き動かす、というところまで行ってこその、神の愛であり、罪の赦しのメッセージなのです。
先週まで読んで参りました、このローマ人への手紙の五章までには、本当に豊かで確かな神の恵みが、丁寧に述べられてきました。私たちが善い行いをするから救われるというのであれば、誰一人、神の前に正しいことなど出来ない罪人であるわけですが、だからこそ神様は、私たちに、キリスト・イエス様を送ってくださって、罪からいのちに移してくださった。それがどんなに確かなことか。
そう繰り返したのは、やはり人間の側に、神様の愛への疑い、不安、不信というものがあるからです。善行とかお布施、難行苦行といった犠牲を払って、神様の気を引くことでも出来なければ、救ってはいただけないのではないか、という人間の陥りがちな考えでは間に合わないほどの大きな神の愛ですから、パウロは重ねて言葉を継ぎ、譬えをいくつも持ち出して、神の救いの確かさを語ります。その一つのクライマックスと言えるのが、今読みました、五章最後の部分です。そこには、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
という言葉さえありました。神様が律法を与えて、人間に自分の罪を動かしようのないほどハッキリとお示しになる。しかし、それによって私たちは絶望するのではなくて、いよいよ神様のお恵みというものを知る。私たちが善いから、立派だから、ではなく、本当に、一方的な恵みによって救ってくださるという神様の測り知れない恵み深さがいよいよ分かる。満ちあふれる程に見えてくる。そこまでパウロは言い切ったのです。
しかし、そうしますと、人間というのは本当に屁理屈をこねるもので、
「六1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」
こういうことを言い出す人がいる。実際にそういう人がいることをパウロは念頭に置いて、先手を打つように話しているのだと思います。神様の恵みによる救い-人の行いには一切依らない救い-これは、ずっと後の宗教改革において回復された主張ですが、その時も既存のカトリック教会が非難した攻撃の一つは、「そんなことを言い出せば、みんなが野放図に、好き勝手に生き始めても歯止めが出来なくなる。不道徳を助長する邪教だ」という論理でした。実際そういう動きもありました。それが、人間の罪であり、狡さだとも思います。
しかし、宗教改革者たちもパウロも、それに対してこう言うのです。
「 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
罪に対して死んだ。これはどういう意味でしょうか。直前の五21節では、
「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる…」
とありました。罪が支配した状態から、恵みが支配するようにと新しくされた、と言います。それが、罪に対して死んだ、ということです 。
確かに、神様の愛は、私たちがどんなに罪を犯しても、私たちを赦し、愛し続け、最善をなしてくださる恵みです。しかし、私たちが罪を犯していても「まあ、いいや」と大目に見るというのとは違うのです。私たちを愛するからこそ、私たちを見捨てまい、滅ぼすまい、というだけではなく、罪の支配から恵みの支配へと移す。私たちの心を毒し、やがては滅ぼすような罪を怒らないだけでなく、その罪から引き摺り出してでも救い、生き方を一新させようとする。それが私たちを愛する神様の愛です。そうでなければ、本当に私たちを愛するとは言えないのではありませんか。
赦されるならば罪を楽しんでもええじゃないか、それで一層恵みを味わわせてもらったほうがいいじゃないか、と言って憚らないとしたら、それこそが罪の奴隷となっている証拠ですね。そういう人間の性根-罪がどれだけ神を傷つけ人を傷つけるかを考えずに、自分の楽しみや都合を振り翳す人間の罪-そこから神様は私たちを救い出してくださったのだ。それなのにまだ罪の中に生きよう、その方が恵みが分かる、などということはあり得ないじゃないか、と言われているのです。
少し考えるとお分かりになることですが、このように言われている事自体、逆に、この手紙の読者である当時の教会も、それ以降の私たちを含めたキリスト者たちも、イエス様を信じたら、たちまち心が清くなって罪を犯さなくなる、というわけではないし、どうせ赦されるのだから罪を楽しもうという屁理屈を捨てているわけでもないのです。もしそうなら、こんなこと自体、言わなくてもいいはずですから。
「 3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」
とあるのも、洗礼(バプテスマ)を受けたから、自動的に新しく生まれ変わって、いのちにあって新しい歩みをしている、もう罪のない生き方をしている、ということではないわけです。洗礼やその水に、何か特別な力があるのではありません。しかし、パウロは洗礼を受けた事実に訴えます。イエス様が洗礼を教会にお命じになったのですが、教会への入会儀式として洗礼があることを私たちは軽く考えて、「ただの儀式だ」などと言ってはなりません。それを受けたからと言って心が新しく生まれ変わるのではない。また、洗礼を受ける本人が、どれだけ罪からきよくされた生き方を自覚しているかも定かではないかも知れません。それでも、その洗礼を受けたという揺るぎない事実を根拠としてパウロが訴えているように、私たちは、キリストの福音を信じ、洗礼を受けるときに、自分がもう神の支配の中にあるという事実を信じることが許されるのです。まだ罪を犯してしまうのも事実です。神の愛が見えない思いをするときもあるのです。それでも、私たちは、神の恵みの支配の中に、今自分がある。罪は、私たちの心に働きかけますが、決して私たちを支配して、神の手から私たちを奪って滅ぼすことは出来ないと信じなければならない。
この夏に秩父でありました合同修養会で教えられたことの一つは、私の心には、不安や心配がいつもある、ということです。自分の性格を考えさせられて、改めて、自信のなさが、自分の行動や心理を物凄く左右していることを認めざるを得なくなりました。そういう私にとっては、本当にこの聖書のメッセージは慰めであり救いです。私が恐れたり案じたりしていても、神様が私を支配してくださっているという事実は変わらない。私が頑張って聖い生き方をしようとか罪を犯すまいとすることで信仰が確かになるのではない。明日も東から太陽が昇るのだろうか、目が覚めたら1足す1が7になっていたらどうしようかと人間が心配し始めたとしても、それで自然法則が揺らぐことなどないように、私が疑おうと分からなくなろうと、神様の方で私を支配していてくださる。だから、この方への信頼と服従に生きる。いのちにあって新しい歩みをする、のです。
「歩み」という言葉、文字通り、歩むという言葉です 。キリストの支配に入れられることは、走ったり躍ったり、熱狂するようなことではなく、「歩み」です。目立ったり偉大なことをしたり、丸きり生活を変えて生きるのではなく、変わらない毎日の中で、淡々と歩みつつ、しかしその歩みがいのちに支配されている。神を礼拝し、罪に背を向け、キリストの救いの恵みの中にあることを確信して、一歩一歩、歩んでいる。キリストを信じても、日常の営みの苦労はなくならないでしょうし、病気や災害や死に襲われなくなるわけでもありません。けれども、先の五章3節以下では、そんな艱難さえも、私たちを忍耐や品性や希望を生み出すと、喜んで告白すると言われていました。私たちは、自分を省みれば如何に小さく、身勝手な者であるかを知るばかりです。けれども、そんな私たちを、神様がどれほど確かに捉えていてくださることでしょうか。私たちの心の底の底までご存じのお方が、その心の底で神様を信じ、喜び、お委ねする、新しい歩みをさせようと決めてくださっている。その恵みにご一緒に与りたいと思います。
「キリストにある者とされる幸いが、罪を楽しむでも敬虔さを装うでもなく、あなた様の恵みにますます信頼する歩みであることを教えてくださり感謝します。今なお恵みよりも自分の力に頼もうとする思い上がりを砕き、只管(ひたすら)、主に拠り頼ませてください。豊かに私共をもてなしてくださる一方的な御愛のうちに、この午後も憩わせてください」
文末脚注
1 次の七章では、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。…」と(身も蓋もないような)譬えを語っています。
2 新共同訳や口語訳では「生きる」と訳しています。
一言で言えば、キリスト教とはどんな教えか、と聴かれたら何と答えればよいでしょうか。ひとことで答えられるかどうか、はともかく、取っ掛かりとして相応しい言葉が、今日の、いのちにあって新しい歩みをする、という4節の言葉です。神の愛とか、赦しとか、そういう面も大切です。けれども、その、神の愛、赦しという事そのものが、私たちを、いのちにあって新しい歩みへと突き動かす、というところまで行ってこその、神の愛であり、罪の赦しのメッセージなのです。
先週まで読んで参りました、このローマ人への手紙の五章までには、本当に豊かで確かな神の恵みが、丁寧に述べられてきました。私たちが善い行いをするから救われるというのであれば、誰一人、神の前に正しいことなど出来ない罪人であるわけですが、だからこそ神様は、私たちに、キリスト・イエス様を送ってくださって、罪からいのちに移してくださった。それがどんなに確かなことか。
そう繰り返したのは、やはり人間の側に、神様の愛への疑い、不安、不信というものがあるからです。善行とかお布施、難行苦行といった犠牲を払って、神様の気を引くことでも出来なければ、救ってはいただけないのではないか、という人間の陥りがちな考えでは間に合わないほどの大きな神の愛ですから、パウロは重ねて言葉を継ぎ、譬えをいくつも持ち出して、神の救いの確かさを語ります。その一つのクライマックスと言えるのが、今読みました、五章最後の部分です。そこには、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
という言葉さえありました。神様が律法を与えて、人間に自分の罪を動かしようのないほどハッキリとお示しになる。しかし、それによって私たちは絶望するのではなくて、いよいよ神様のお恵みというものを知る。私たちが善いから、立派だから、ではなく、本当に、一方的な恵みによって救ってくださるという神様の測り知れない恵み深さがいよいよ分かる。満ちあふれる程に見えてくる。そこまでパウロは言い切ったのです。
しかし、そうしますと、人間というのは本当に屁理屈をこねるもので、
「六1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」
こういうことを言い出す人がいる。実際にそういう人がいることをパウロは念頭に置いて、先手を打つように話しているのだと思います。神様の恵みによる救い-人の行いには一切依らない救い-これは、ずっと後の宗教改革において回復された主張ですが、その時も既存のカトリック教会が非難した攻撃の一つは、「そんなことを言い出せば、みんなが野放図に、好き勝手に生き始めても歯止めが出来なくなる。不道徳を助長する邪教だ」という論理でした。実際そういう動きもありました。それが、人間の罪であり、狡さだとも思います。
しかし、宗教改革者たちもパウロも、それに対してこう言うのです。
「 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
罪に対して死んだ。これはどういう意味でしょうか。直前の五21節では、
「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる…」
とありました。罪が支配した状態から、恵みが支配するようにと新しくされた、と言います。それが、罪に対して死んだ、ということです 。
確かに、神様の愛は、私たちがどんなに罪を犯しても、私たちを赦し、愛し続け、最善をなしてくださる恵みです。しかし、私たちが罪を犯していても「まあ、いいや」と大目に見るというのとは違うのです。私たちを愛するからこそ、私たちを見捨てまい、滅ぼすまい、というだけではなく、罪の支配から恵みの支配へと移す。私たちの心を毒し、やがては滅ぼすような罪を怒らないだけでなく、その罪から引き摺り出してでも救い、生き方を一新させようとする。それが私たちを愛する神様の愛です。そうでなければ、本当に私たちを愛するとは言えないのではありませんか。
赦されるならば罪を楽しんでもええじゃないか、それで一層恵みを味わわせてもらったほうがいいじゃないか、と言って憚らないとしたら、それこそが罪の奴隷となっている証拠ですね。そういう人間の性根-罪がどれだけ神を傷つけ人を傷つけるかを考えずに、自分の楽しみや都合を振り翳す人間の罪-そこから神様は私たちを救い出してくださったのだ。それなのにまだ罪の中に生きよう、その方が恵みが分かる、などということはあり得ないじゃないか、と言われているのです。
少し考えるとお分かりになることですが、このように言われている事自体、逆に、この手紙の読者である当時の教会も、それ以降の私たちを含めたキリスト者たちも、イエス様を信じたら、たちまち心が清くなって罪を犯さなくなる、というわけではないし、どうせ赦されるのだから罪を楽しもうという屁理屈を捨てているわけでもないのです。もしそうなら、こんなこと自体、言わなくてもいいはずですから。
「 3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」
とあるのも、洗礼(バプテスマ)を受けたから、自動的に新しく生まれ変わって、いのちにあって新しい歩みをしている、もう罪のない生き方をしている、ということではないわけです。洗礼やその水に、何か特別な力があるのではありません。しかし、パウロは洗礼を受けた事実に訴えます。イエス様が洗礼を教会にお命じになったのですが、教会への入会儀式として洗礼があることを私たちは軽く考えて、「ただの儀式だ」などと言ってはなりません。それを受けたからと言って心が新しく生まれ変わるのではない。また、洗礼を受ける本人が、どれだけ罪からきよくされた生き方を自覚しているかも定かではないかも知れません。それでも、その洗礼を受けたという揺るぎない事実を根拠としてパウロが訴えているように、私たちは、キリストの福音を信じ、洗礼を受けるときに、自分がもう神の支配の中にあるという事実を信じることが許されるのです。まだ罪を犯してしまうのも事実です。神の愛が見えない思いをするときもあるのです。それでも、私たちは、神の恵みの支配の中に、今自分がある。罪は、私たちの心に働きかけますが、決して私たちを支配して、神の手から私たちを奪って滅ぼすことは出来ないと信じなければならない。
この夏に秩父でありました合同修養会で教えられたことの一つは、私の心には、不安や心配がいつもある、ということです。自分の性格を考えさせられて、改めて、自信のなさが、自分の行動や心理を物凄く左右していることを認めざるを得なくなりました。そういう私にとっては、本当にこの聖書のメッセージは慰めであり救いです。私が恐れたり案じたりしていても、神様が私を支配してくださっているという事実は変わらない。私が頑張って聖い生き方をしようとか罪を犯すまいとすることで信仰が確かになるのではない。明日も東から太陽が昇るのだろうか、目が覚めたら1足す1が7になっていたらどうしようかと人間が心配し始めたとしても、それで自然法則が揺らぐことなどないように、私が疑おうと分からなくなろうと、神様の方で私を支配していてくださる。だから、この方への信頼と服従に生きる。いのちにあって新しい歩みをする、のです。
「歩み」という言葉、文字通り、歩むという言葉です 。キリストの支配に入れられることは、走ったり躍ったり、熱狂するようなことではなく、「歩み」です。目立ったり偉大なことをしたり、丸きり生活を変えて生きるのではなく、変わらない毎日の中で、淡々と歩みつつ、しかしその歩みがいのちに支配されている。神を礼拝し、罪に背を向け、キリストの救いの恵みの中にあることを確信して、一歩一歩、歩んでいる。キリストを信じても、日常の営みの苦労はなくならないでしょうし、病気や災害や死に襲われなくなるわけでもありません。けれども、先の五章3節以下では、そんな艱難さえも、私たちを忍耐や品性や希望を生み出すと、喜んで告白すると言われていました。私たちは、自分を省みれば如何に小さく、身勝手な者であるかを知るばかりです。けれども、そんな私たちを、神様がどれほど確かに捉えていてくださることでしょうか。私たちの心の底の底までご存じのお方が、その心の底で神様を信じ、喜び、お委ねする、新しい歩みをさせようと決めてくださっている。その恵みにご一緒に与りたいと思います。
「キリストにある者とされる幸いが、罪を楽しむでも敬虔さを装うでもなく、あなた様の恵みにますます信頼する歩みであることを教えてくださり感謝します。今なお恵みよりも自分の力に頼もうとする思い上がりを砕き、只管(ひたすら)、主に拠り頼ませてください。豊かに私共をもてなしてくださる一方的な御愛のうちに、この午後も憩わせてください」
文末脚注
1 次の七章では、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。…」と(身も蓋もないような)譬えを語っています。
2 新共同訳や口語訳では「生きる」と訳しています。