2012/9/16 ローマ書五18―19「ひとりの従順」
イザヤ書四六章 詩篇八六篇
12節で言いたかったことが、少々遠回りをした上で、ようやくこの18節で、文章のまとまりがつきます。前回まで、違反を犯したアダムと、従順を貫かれたイエス様との共通している面と、違っている面とが教えられてきました。しかし、要するに、この本文で分かるように、パウロが言いたいのは、
「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
ということです。アダムの違反のせいで、全人類が罪と死に支配されるようになった、というのは、あくまでもイエス・キリストにある救いを、引き立てるための道具に他なりません。(勿論、アダムの違反によって、全人類が罪を負い、死ぬようになったのは、歴史的事実です。ただの譬えだ、という意味ではありません。)
同じ事をずっと繰り返しているようですが、パウロもまた、ここで諄いほどにこのことを言っています。そして、次の20節では、有名な、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
という聖句がありますが、これはこれだけで味わいたいと思いますので、今日は18-19節だけをお話しします。
第二版をお持ちの方は、18節が、
「一つの違反によって…一つの義の行為によって」
とあるのにお気づきになったでしょう。第三版に改訂されたとき、
「ひとりの違反によって…ひとりの義の行為によって」
と言葉を変えたのです。文法上はどちらも可能なのですが、文脈を考えると、
「…「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」
そういう理由から、「ひとつの」ではなく「ひとりの」と改訳したのです。アダムとキリストが対比されている。もっと正確には、イエス・キリストが際立つために、アダムを持ち出して、ふたりを並べている、ということです。パウロは、私たち読者に、主キリストへの揺るぎない確信を持たせたいのです。私たちも、アダムの違反・堕落を考えても、一層、第二のアダム「キリスト」にあって、絶対確実な救いが現れて、自分が今、その中に入れていただいているのだという、この恐れ多く、驚くべき事実を心に刻みたいと思います。
ある人は、ここに、「すべての人」と繰り返されているところを取り上げて、「すべての人、というのだから、これは全人類だろう。神様は誰も滅ぼしたりはせず、最後には全員をお救いになるのだ」と考えます。前回もお話ししたように、17節には、
「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、」
と限定されています。聖書全体を見ても、終わりの日に滅びる人が必ずいると言われていますので、神様は誰をも滅ぼされない、という意味で「すべての人」と言っているわけではありません。かといって、神様はみんなを救いたいのだけれど、後は信じて救いを我がものとするかどうか(救いのチャンスを生かせるか)は、全人類に平等に与えられている自助努力に掛かっている、と考える人もそれ以上に多くいますが、それもまたあやふやな話で、聖書が語るのはそんな不完全な救いでもありません。第一ここでは、「すべての人が義と認められる」と言い切られているのです。
「すべての人」とは、人類全員、という意味ではなく、
「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」
のことであり、それが、人種や民族、信仰の豊かな人、未熟で自助努力が必要だと思い込んでいる人、そういうことに関わらず、イエス・キリストを受け入れたすべての人、と考えるのが一番筋が通るでしょう。18節最後にある部分は直訳すると、
「すべての人がいのちの義へと認められる」
という文章です。「いのちの義」、言い換えると、義と認められていのちを与えられる、ということになりますが、この義をいただくまでは、アダムの罪の中にあって死んでいたのです。死んだ者が、ただイエス・キリストの「義の行為」によっていのちの義をいただいて、信仰も持てるのです。死んだ者が信仰を持って、それによっていのちの義をいただける、などということはあり得ません。ここで言われているのは、完全に、イエス・キリストの恵みによる救いです。アダムが罪を犯した時、それ以降に生まれる全人類がまだ影も形もなかったのに、アダムの子として有罪判決を受け、死に服する者とならざるを得なかったように、イエス・キリストが従順を果たされたとき、神様が、そのイエス様に結びつけられる人全員を、まだ信じたり悔い改めたりしない先に、義とすると決めてくださったのです。
「それなら、人間が何をしても関係ないのか、選ばれているなら罪を犯しても救われて、選ばれていなければ努力も何も報われない-それなら、したい放題に生きてもいいはずだ」などという屁理屈(へりくつ)は、次の六章で扱われます。ですが、今ここでも、本当にこの「救い」というものが、十字架とか復活とかいう「ひとつの義の行為」よりも、「ひとりの(イエス・キリストの)義の行為」によるものなのだ。それも、漠然と大風呂敷を広げるような福音だけ準備しておいて、後は本人の心がけで、合格した者だけが救われる、というようなものではなくて、本当に、この私、この自分を、罪に死んだ生き方から、罪の欲望に流されるままの無気力な生き方から救い出そうとのご計画をもって、義の行為をしてくださったのだ。そう知らされていくときに、あれこれ言い訳して罪の生き方、自己中心の生活を何とか続けようという、ケチな根性も、氷解せずにはおかないはずです。19節では、
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
と言われています。この「従順」とは、「義の行為」を言い換えたものです。ですから、十字架の死に至るまでの従順という、苦痛や死にも甘んじて従われた事実(これを「受動的従順」ともいいます )もさることながら、イエス様が神の御心に従ってこの世にお生まれになってから十字架に掛かられるまでのすべての義の行為、焦点にまで至る全ご生涯を丸ごと指しての「従順」です。これを「能動的従順」と言います。十字架だけではないのです 。イエス様のなしてくださったのは、私たちの代わりに罪の罰を受けられる、というだけではなくて、生涯一点の曇りなく、神に従われたのです。その義を私たちも着せていただき、永遠のいのちを約束されていると信じてよいのです。
そして、それは、本当にどんなに有り難く、感謝なことでしょうか。そしてまた、私たちはこのことの素晴らしさを忘れてしまうにどれほど早いことでしょうか。「すべての人」が文字通り「すべての人」ではないじゃないか、と不平を言いつつ、限られた神の民としての「すべて」に対してさえ、「救われてもあれじゃあな」「あんな人が救われるとは到底思えない」などと決めつけたがる。そして、その根っこには、やはり自分が救われたこと、信仰者として今歩んでいることのうちに、自分の善良さとか真面目さ、正しさを誇っているところがあるのではないでしょうか。
ローマの教会が、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との民族・文化の違いを乗り越えられずにいたように、パウロは今も私たちが様々な偏見や経験から、「すべての人」ではない、と思いたがる、その自己過信から主イエス様を見上げさせようとしています。私たちが「イエス様の十字架」を信じるよりも「十字架と復活のイエス様」を信じる。そして、そのイエス様の能動的な従順に与って-いのちの義を与えられて生きる。日曜日だけ、神様を礼拝する時だけでなく、私たちの生活のすべてが、もはやアダムの違反の傘下にではなく、キリストにあって新しく生かされる。いいえ、キリストが私たちを新しく生かしてくださる。もうその新しいいのちの中に、私たちがあるのだと知らせているのです。
「アダムの違反の歴史に楔を打ち込んだイエス様の御救いに、私共が入れていただいている不思議な光栄を感謝します。どうぞ、私共を救いの喜びで溢れさせてくださり、主の豊かないのちのわざに仕える者として整えてください。私共の目を開いてください」?
文末脚注
1 新日本聖書刊行会のホームページより。「新改訳聖書第二版のローマ5章18節で「一つの違反」「一つの義の行為」と訳されていた言葉を、第三版は「ひとりの違反」「ひとりの義の行為」と訳しています。原文にあるヘノスというギリシャ語は、中性形ととって「一つの」と訳すことも、男性形ととって「ひとりの」と訳すことも可能です。/この語は5章12-19節で12回も用いられていて、中性形ととるべきケースもあります。それは16節後半にあるヘノスです。「多くの違反」と対照されていることから、明らかに「一つ違反」だとわかります。18節はその「一つ違反」を取り上げ、それですべての人が罪ある者とされたことと「一つの義の行為」によって義認がもたらされたことを対比させている、と解釈すれば、第二版のような訳が生れます。その際、ヘノスが「ひとり」を意味するなら、12、15、17、19節のように「人」「イエス・キリスト」といった語を加えればよいのに、それをしていないのだから、意図は「ひとつ」にある、と論じることもできるかもしれません。/しかしながら、実のところ、そうした語を加える必要がない程、文脈は「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」 http://www.seisho.or.jp/about-rev3/column/rome5_18.html
2 ピリピ二8「(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」など。
3 勿論、十字架だけでも測り知れない主の御受難と愛とは証しされています。
イザヤ書四六章 詩篇八六篇
12節で言いたかったことが、少々遠回りをした上で、ようやくこの18節で、文章のまとまりがつきます。前回まで、違反を犯したアダムと、従順を貫かれたイエス様との共通している面と、違っている面とが教えられてきました。しかし、要するに、この本文で分かるように、パウロが言いたいのは、
「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
ということです。アダムの違反のせいで、全人類が罪と死に支配されるようになった、というのは、あくまでもイエス・キリストにある救いを、引き立てるための道具に他なりません。(勿論、アダムの違反によって、全人類が罪を負い、死ぬようになったのは、歴史的事実です。ただの譬えだ、という意味ではありません。)
同じ事をずっと繰り返しているようですが、パウロもまた、ここで諄いほどにこのことを言っています。そして、次の20節では、有名な、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
という聖句がありますが、これはこれだけで味わいたいと思いますので、今日は18-19節だけをお話しします。
第二版をお持ちの方は、18節が、
「一つの違反によって…一つの義の行為によって」
とあるのにお気づきになったでしょう。第三版に改訂されたとき、
「ひとりの違反によって…ひとりの義の行為によって」
と言葉を変えたのです。文法上はどちらも可能なのですが、文脈を考えると、
「…「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」
そういう理由から、「ひとつの」ではなく「ひとりの」と改訳したのです。アダムとキリストが対比されている。もっと正確には、イエス・キリストが際立つために、アダムを持ち出して、ふたりを並べている、ということです。パウロは、私たち読者に、主キリストへの揺るぎない確信を持たせたいのです。私たちも、アダムの違反・堕落を考えても、一層、第二のアダム「キリスト」にあって、絶対確実な救いが現れて、自分が今、その中に入れていただいているのだという、この恐れ多く、驚くべき事実を心に刻みたいと思います。
ある人は、ここに、「すべての人」と繰り返されているところを取り上げて、「すべての人、というのだから、これは全人類だろう。神様は誰も滅ぼしたりはせず、最後には全員をお救いになるのだ」と考えます。前回もお話ししたように、17節には、
「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、」
と限定されています。聖書全体を見ても、終わりの日に滅びる人が必ずいると言われていますので、神様は誰をも滅ぼされない、という意味で「すべての人」と言っているわけではありません。かといって、神様はみんなを救いたいのだけれど、後は信じて救いを我がものとするかどうか(救いのチャンスを生かせるか)は、全人類に平等に与えられている自助努力に掛かっている、と考える人もそれ以上に多くいますが、それもまたあやふやな話で、聖書が語るのはそんな不完全な救いでもありません。第一ここでは、「すべての人が義と認められる」と言い切られているのです。
「すべての人」とは、人類全員、という意味ではなく、
「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」
のことであり、それが、人種や民族、信仰の豊かな人、未熟で自助努力が必要だと思い込んでいる人、そういうことに関わらず、イエス・キリストを受け入れたすべての人、と考えるのが一番筋が通るでしょう。18節最後にある部分は直訳すると、
「すべての人がいのちの義へと認められる」
という文章です。「いのちの義」、言い換えると、義と認められていのちを与えられる、ということになりますが、この義をいただくまでは、アダムの罪の中にあって死んでいたのです。死んだ者が、ただイエス・キリストの「義の行為」によっていのちの義をいただいて、信仰も持てるのです。死んだ者が信仰を持って、それによっていのちの義をいただける、などということはあり得ません。ここで言われているのは、完全に、イエス・キリストの恵みによる救いです。アダムが罪を犯した時、それ以降に生まれる全人類がまだ影も形もなかったのに、アダムの子として有罪判決を受け、死に服する者とならざるを得なかったように、イエス・キリストが従順を果たされたとき、神様が、そのイエス様に結びつけられる人全員を、まだ信じたり悔い改めたりしない先に、義とすると決めてくださったのです。
「それなら、人間が何をしても関係ないのか、選ばれているなら罪を犯しても救われて、選ばれていなければ努力も何も報われない-それなら、したい放題に生きてもいいはずだ」などという屁理屈(へりくつ)は、次の六章で扱われます。ですが、今ここでも、本当にこの「救い」というものが、十字架とか復活とかいう「ひとつの義の行為」よりも、「ひとりの(イエス・キリストの)義の行為」によるものなのだ。それも、漠然と大風呂敷を広げるような福音だけ準備しておいて、後は本人の心がけで、合格した者だけが救われる、というようなものではなくて、本当に、この私、この自分を、罪に死んだ生き方から、罪の欲望に流されるままの無気力な生き方から救い出そうとのご計画をもって、義の行為をしてくださったのだ。そう知らされていくときに、あれこれ言い訳して罪の生き方、自己中心の生活を何とか続けようという、ケチな根性も、氷解せずにはおかないはずです。19節では、
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
と言われています。この「従順」とは、「義の行為」を言い換えたものです。ですから、十字架の死に至るまでの従順という、苦痛や死にも甘んじて従われた事実(これを「受動的従順」ともいいます )もさることながら、イエス様が神の御心に従ってこの世にお生まれになってから十字架に掛かられるまでのすべての義の行為、焦点にまで至る全ご生涯を丸ごと指しての「従順」です。これを「能動的従順」と言います。十字架だけではないのです 。イエス様のなしてくださったのは、私たちの代わりに罪の罰を受けられる、というだけではなくて、生涯一点の曇りなく、神に従われたのです。その義を私たちも着せていただき、永遠のいのちを約束されていると信じてよいのです。
そして、それは、本当にどんなに有り難く、感謝なことでしょうか。そしてまた、私たちはこのことの素晴らしさを忘れてしまうにどれほど早いことでしょうか。「すべての人」が文字通り「すべての人」ではないじゃないか、と不平を言いつつ、限られた神の民としての「すべて」に対してさえ、「救われてもあれじゃあな」「あんな人が救われるとは到底思えない」などと決めつけたがる。そして、その根っこには、やはり自分が救われたこと、信仰者として今歩んでいることのうちに、自分の善良さとか真面目さ、正しさを誇っているところがあるのではないでしょうか。
ローマの教会が、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との民族・文化の違いを乗り越えられずにいたように、パウロは今も私たちが様々な偏見や経験から、「すべての人」ではない、と思いたがる、その自己過信から主イエス様を見上げさせようとしています。私たちが「イエス様の十字架」を信じるよりも「十字架と復活のイエス様」を信じる。そして、そのイエス様の能動的な従順に与って-いのちの義を与えられて生きる。日曜日だけ、神様を礼拝する時だけでなく、私たちの生活のすべてが、もはやアダムの違反の傘下にではなく、キリストにあって新しく生かされる。いいえ、キリストが私たちを新しく生かしてくださる。もうその新しいいのちの中に、私たちがあるのだと知らせているのです。
「アダムの違反の歴史に楔を打ち込んだイエス様の御救いに、私共が入れていただいている不思議な光栄を感謝します。どうぞ、私共を救いの喜びで溢れさせてくださり、主の豊かないのちのわざに仕える者として整えてください。私共の目を開いてください」?
文末脚注
1 新日本聖書刊行会のホームページより。「新改訳聖書第二版のローマ5章18節で「一つの違反」「一つの義の行為」と訳されていた言葉を、第三版は「ひとりの違反」「ひとりの義の行為」と訳しています。原文にあるヘノスというギリシャ語は、中性形ととって「一つの」と訳すことも、男性形ととって「ひとりの」と訳すことも可能です。/この語は5章12-19節で12回も用いられていて、中性形ととるべきケースもあります。それは16節後半にあるヘノスです。「多くの違反」と対照されていることから、明らかに「一つ違反」だとわかります。18節はその「一つ違反」を取り上げ、それですべての人が罪ある者とされたことと「一つの義の行為」によって義認がもたらされたことを対比させている、と解釈すれば、第二版のような訳が生れます。その際、ヘノスが「ひとり」を意味するなら、12、15、17、19節のように「人」「イエス・キリスト」といった語を加えればよいのに、それをしていないのだから、意図は「ひとつ」にある、と論じることもできるかもしれません。/しかしながら、実のところ、そうした語を加える必要がない程、文脈は「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」 http://www.seisho.or.jp/about-rev3/column/rome5_18.html
2 ピリピ二8「(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」など。
3 勿論、十字架だけでも測り知れない主の御受難と愛とは証しされています。