2012/10/14 ローマ書六5―7「接ぎ合わされて」
イザヤ書四三1―13 詩篇一四七篇
ローマ書前半の、救いの確かさを説き続ける言葉を今日も噛みしめたいと願います。前回は、六1で、
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
と始まった話題を、洗礼(バプテスマ)という入会儀式に訴えて論じていました。今日はその続きで、更に突っ込んで、私たちが洗礼によって、キリストとともに罪に死に、いのちにあって新しい歩みをする者と約束されていることを論じます。
「 5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
これがもう一度、要点を纏めていて、続く6―7節で、5節の前半、キリストの死と同じようになっている、という部分を話して、次回見ます8―11節で、5節の後半、キリストの復活とも同じようになる、という部分に触れる、という構造になっています。今日はその最初の、私たちがキリストの死に与っている、ということを教えられたいと思います。本当に、6節に言われるように、
「 6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
そうだと言えるのだと知りたい、知っていただきたいと思うのです。
しかし、これはいったいどういう意味でしょうか。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅んだ、とパウロは言い切っているのでしょうか。だとすると、「私の中には、罪を犯す「古い人」が相変わらず大手を振ってのさばっているから、とてもそうは思えない。私はキリストに結ばれていないんだろうか…」と不安になる方もいるのではないでしょうか。
しかし、「古い人」というのが、私たちの中にある「古い、罪を犯すもう一人の人格」というように考える読み方自体が正しいかどうか考えなければなりません。面白いことに、この「古い人」というのは定冠詞付きの「あの、古い人」という言い方です。そして、単数形です。「私たちの古い人」というのですから、定冠詞なしで複数形、というほうがしっくり来るでしょうに、「あの古い人」と言うのです。ですから、これは、キリスト者個々人の中にいる、罪の人格、などということではないのです 。
同じ「古い人」「新しい人」という表現は、エペソ書四22やコロサイ書三9でもパウロが使っています。いずれも、単数で定冠詞付きです 。そして、「古い人」に対照される「新しい人」については、エペソ書二15にも出て来ます。こう言われるのです。
「エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
つまり、「新しい人」とはキリスト者一人一人の心にある人格ではなくて、キリストの和解によってユダヤ人も異邦人も一つとされた全体、キリストをかしらとする民を「ひとつからだ」と見なす、比喩的な表現です。そして、当然それに対応する「古い人」もまた、そういう意味でしょう。つまり、アダムをかしらとする、神に逆らい、罪と死に支配されている民全体です。決して、私たちの心にまだ残っている、罪を犯そうとする衝動、肉の思いを指しているのではないのです。
そのような罪の思いが、まだ死んでなどおらず、私たちの中に残っていて、強く私たちに働きかけている事実は、この後、七章に入ってパウロの赤裸々な告白と共に明らかにされていきます。今この六章では、そのことにはまだ触れていません。むしろ、そういう事実に目を向ける以前に、まず知っておくべき事として、私たちがすでにアダムの子、罪の支配下にあるものではなく、キリストの子、キリストをかしらとする民のひとりとされている、その事実を踏まえさせようとしているのです。6節は、私たちにとっては今、キリストの十字架によって「古い人」は私たちに対して死んだものとなった事実と、その事実の当然の目的が、罪のからだが滅びて、私たちが罪の奴隷として生きることを止めることにある、と教えています。まだ、罪のからだは滅びておらず、罪の奴隷に舞い戻ってしまったりそういう生き方を続けたりしていることもあるかもしれない。それは目的であり、途上であって、未完成です。けれども、その土台である、キリストの十字架に「古い人」が死んだことは事実です。私たちは罪の奴隷ではなく、キリストのしもべなのです。
まだ罪を犯し、失敗し、誘惑に負けるのです。しかし、それによって私たちが神の支配から漏れ落ちるとか、救いにあずかれない、ということではないのです。私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられた-十字架につけなさい、ではないのです-すでに十字架につけられた。この事実は変わらず動かないのです。しかし、だから罪を犯してもいい、というのではない。パウロがこれを語っているのは、「罪の中にとどまるなんてことは、絶対にない」と論じる中でのことです。私たちにとって古い人がキリストとともに十字架につけられた、と信じることは、それが、罪のからだが滅びて、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであるとの目的を受け入れることでもあります。その事実を厳粛に受け止めて、罪を楽しもうなどとはしないのです。
「 7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
まだ罪の力は働いています。恵みさえ口実にして罪を大いに犯そうなどと詭弁を弄する声になびくことさえあるのです。それでも、私たちは罪の支配からは解放されて、キリストの支配の中にあるのです。罪との戦いは生涯なくならない、と思えばガッカリかもしれませんが、それでも私たちは罪の支配下にではなくキリストの恵みの支配下にある、と知る事は、不思議にも大きな慰めではないでしょうか。
なお思われがちな誤解を逆手に取ってみますと、古い人を自分の手で十字架に殺さなければならない、とは言われていないのです。自分の罪ある自我を一生懸命殺し続けよとも言われていません。古い人を十字架に付けたのは、キリストです。私たちではありません。私たちが古い人であったときは、罪を楽しみ、神を恐れず、罪からの解放を願いもしませんでした。しかし、キリストが私たちに聖霊をお遣わしくださったとき、この救いが届けられて、罪からの解放を願うようにしていただいたのです。
ここから、私たちの「選び」についても一つの理解が与えられます。救いに選ばれず滅びる人々は可哀想ではないか不公平ではないのでしょうか。しかし、今のような言葉を考えますと、選ばれず罪の中に放っておかれる人は、自分から、罪からの解放を願いさえしないのです。勿論、神様の選びや救いへの不平を言って、神に叫び神を罵(ののし)るでしょう。けれども、では悔い改めて神の光のもとに来なさい、罪からの救いをいただきなさい、と言われても、それは拒むのです。
言い換えれば、悔い改めは救いの手段ではありません。悔い改めは救いの本質なのです。自分のプライドが第一であり中心であった生き方から、神を神とし神を中心とする生き方に立ち帰る。それが救いであり、それのない救いなどはありません。そしてこれを受け入れ、悔い改めたい、神様を神として生きたいと願うことは、神様の側からの一方的な働きかけなくして人間が願うことはないのです。選ばれなかった人は、選ばれたいと願いもしない。しかし、選んでいただいた私たちは、自分の罪になお負けたり流されたりしながらも、本当にこの罪から救われたい、神様に感謝と賛美をささげたいと願う者に変えられていくのであり、そう変えていただいたことを喜び感謝しているのです。
5節の「つぎ合わされて」という言葉は、「継ぎ接ぎする」という意味の継ぎ合わすではなく、「接ぎ木する」という意味での「接ぎ合わす」です 。このところから、洗礼について、「キリストに接ぎ木されること」とする告白が生まれました 。私たちは、キリストに接ぎ木されている。洗礼において、そのことをハッキリと示していただいている。今も罪を残してはいても、神様の一方的な選びによって、神を神とする「新しい人」の一部とされている。この事実をまず受け入れたいのです。
「古い人は十字架につけられて、キリストの民、新しい人とされた幸いな事実を受け止めます。私共の願いや思いや貧しさを越えて、あなた様が私共を継ぎ合わせてくださっています。既に罪に死に、いのちに生かされている者として、ますます整えてください。主の愛の中で、この計り知れず尊い新しさによって、活き活きと生かしてください。」
文末脚注
イザヤ書四三1―13 詩篇一四七篇
ローマ書前半の、救いの確かさを説き続ける言葉を今日も噛みしめたいと願います。前回は、六1で、
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
と始まった話題を、洗礼(バプテスマ)という入会儀式に訴えて論じていました。今日はその続きで、更に突っ込んで、私たちが洗礼によって、キリストとともに罪に死に、いのちにあって新しい歩みをする者と約束されていることを論じます。
「 5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
これがもう一度、要点を纏めていて、続く6―7節で、5節の前半、キリストの死と同じようになっている、という部分を話して、次回見ます8―11節で、5節の後半、キリストの復活とも同じようになる、という部分に触れる、という構造になっています。今日はその最初の、私たちがキリストの死に与っている、ということを教えられたいと思います。本当に、6節に言われるように、
「 6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
そうだと言えるのだと知りたい、知っていただきたいと思うのです。
しかし、これはいったいどういう意味でしょうか。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅んだ、とパウロは言い切っているのでしょうか。だとすると、「私の中には、罪を犯す「古い人」が相変わらず大手を振ってのさばっているから、とてもそうは思えない。私はキリストに結ばれていないんだろうか…」と不安になる方もいるのではないでしょうか。
しかし、「古い人」というのが、私たちの中にある「古い、罪を犯すもう一人の人格」というように考える読み方自体が正しいかどうか考えなければなりません。面白いことに、この「古い人」というのは定冠詞付きの「あの、古い人」という言い方です。そして、単数形です。「私たちの古い人」というのですから、定冠詞なしで複数形、というほうがしっくり来るでしょうに、「あの古い人」と言うのです。ですから、これは、キリスト者個々人の中にいる、罪の人格、などということではないのです 。
同じ「古い人」「新しい人」という表現は、エペソ書四22やコロサイ書三9でもパウロが使っています。いずれも、単数で定冠詞付きです 。そして、「古い人」に対照される「新しい人」については、エペソ書二15にも出て来ます。こう言われるのです。
「エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
つまり、「新しい人」とはキリスト者一人一人の心にある人格ではなくて、キリストの和解によってユダヤ人も異邦人も一つとされた全体、キリストをかしらとする民を「ひとつからだ」と見なす、比喩的な表現です。そして、当然それに対応する「古い人」もまた、そういう意味でしょう。つまり、アダムをかしらとする、神に逆らい、罪と死に支配されている民全体です。決して、私たちの心にまだ残っている、罪を犯そうとする衝動、肉の思いを指しているのではないのです。
そのような罪の思いが、まだ死んでなどおらず、私たちの中に残っていて、強く私たちに働きかけている事実は、この後、七章に入ってパウロの赤裸々な告白と共に明らかにされていきます。今この六章では、そのことにはまだ触れていません。むしろ、そういう事実に目を向ける以前に、まず知っておくべき事として、私たちがすでにアダムの子、罪の支配下にあるものではなく、キリストの子、キリストをかしらとする民のひとりとされている、その事実を踏まえさせようとしているのです。6節は、私たちにとっては今、キリストの十字架によって「古い人」は私たちに対して死んだものとなった事実と、その事実の当然の目的が、罪のからだが滅びて、私たちが罪の奴隷として生きることを止めることにある、と教えています。まだ、罪のからだは滅びておらず、罪の奴隷に舞い戻ってしまったりそういう生き方を続けたりしていることもあるかもしれない。それは目的であり、途上であって、未完成です。けれども、その土台である、キリストの十字架に「古い人」が死んだことは事実です。私たちは罪の奴隷ではなく、キリストのしもべなのです。
まだ罪を犯し、失敗し、誘惑に負けるのです。しかし、それによって私たちが神の支配から漏れ落ちるとか、救いにあずかれない、ということではないのです。私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられた-十字架につけなさい、ではないのです-すでに十字架につけられた。この事実は変わらず動かないのです。しかし、だから罪を犯してもいい、というのではない。パウロがこれを語っているのは、「罪の中にとどまるなんてことは、絶対にない」と論じる中でのことです。私たちにとって古い人がキリストとともに十字架につけられた、と信じることは、それが、罪のからだが滅びて、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであるとの目的を受け入れることでもあります。その事実を厳粛に受け止めて、罪を楽しもうなどとはしないのです。
「 7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
まだ罪の力は働いています。恵みさえ口実にして罪を大いに犯そうなどと詭弁を弄する声になびくことさえあるのです。それでも、私たちは罪の支配からは解放されて、キリストの支配の中にあるのです。罪との戦いは生涯なくならない、と思えばガッカリかもしれませんが、それでも私たちは罪の支配下にではなくキリストの恵みの支配下にある、と知る事は、不思議にも大きな慰めではないでしょうか。
なお思われがちな誤解を逆手に取ってみますと、古い人を自分の手で十字架に殺さなければならない、とは言われていないのです。自分の罪ある自我を一生懸命殺し続けよとも言われていません。古い人を十字架に付けたのは、キリストです。私たちではありません。私たちが古い人であったときは、罪を楽しみ、神を恐れず、罪からの解放を願いもしませんでした。しかし、キリストが私たちに聖霊をお遣わしくださったとき、この救いが届けられて、罪からの解放を願うようにしていただいたのです。
ここから、私たちの「選び」についても一つの理解が与えられます。救いに選ばれず滅びる人々は可哀想ではないか不公平ではないのでしょうか。しかし、今のような言葉を考えますと、選ばれず罪の中に放っておかれる人は、自分から、罪からの解放を願いさえしないのです。勿論、神様の選びや救いへの不平を言って、神に叫び神を罵(ののし)るでしょう。けれども、では悔い改めて神の光のもとに来なさい、罪からの救いをいただきなさい、と言われても、それは拒むのです。
言い換えれば、悔い改めは救いの手段ではありません。悔い改めは救いの本質なのです。自分のプライドが第一であり中心であった生き方から、神を神とし神を中心とする生き方に立ち帰る。それが救いであり、それのない救いなどはありません。そしてこれを受け入れ、悔い改めたい、神様を神として生きたいと願うことは、神様の側からの一方的な働きかけなくして人間が願うことはないのです。選ばれなかった人は、選ばれたいと願いもしない。しかし、選んでいただいた私たちは、自分の罪になお負けたり流されたりしながらも、本当にこの罪から救われたい、神様に感謝と賛美をささげたいと願う者に変えられていくのであり、そう変えていただいたことを喜び感謝しているのです。
5節の「つぎ合わされて」という言葉は、「継ぎ接ぎする」という意味の継ぎ合わすではなく、「接ぎ木する」という意味での「接ぎ合わす」です 。このところから、洗礼について、「キリストに接ぎ木されること」とする告白が生まれました 。私たちは、キリストに接ぎ木されている。洗礼において、そのことをハッキリと示していただいている。今も罪を残してはいても、神様の一方的な選びによって、神を神とする「新しい人」の一部とされている。この事実をまず受け入れたいのです。
「古い人は十字架につけられて、キリストの民、新しい人とされた幸いな事実を受け止めます。私共の願いや思いや貧しさを越えて、あなた様が私共を継ぎ合わせてくださっています。既に罪に死に、いのちに生かされている者として、ますます整えてください。主の愛の中で、この計り知れず尊い新しさによって、活き活きと生かしてください。」
文末脚注