聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/10/14 ローマ書六5―7「接ぎ合わされて」

2012-11-06 11:18:49 | 聖書
2012/10/14 ローマ書六5―7「接ぎ合わされて」
イザヤ書四三1―13 詩篇一四七篇

 ローマ書前半の、救いの確かさを説き続ける言葉を今日も噛みしめたいと願います。前回は、六1で、
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
と始まった話題を、洗礼(バプテスマ)という入会儀式に訴えて論じていました。今日はその続きで、更に突っ込んで、私たちが洗礼によって、キリストとともに罪に死に、いのちにあって新しい歩みをする者と約束されていることを論じます。
「 5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
 これがもう一度、要点を纏めていて、続く6―7節で、5節の前半、キリストの死と同じようになっている、という部分を話して、次回見ます8―11節で、5節の後半、キリストの復活とも同じようになる、という部分に触れる、という構造になっています。今日はその最初の、私たちがキリストの死に与っている、ということを教えられたいと思います。本当に、6節に言われるように、
「 6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
 そうだと言えるのだと知りたい、知っていただきたいと思うのです。
 しかし、これはいったいどういう意味でしょうか。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅んだ、とパウロは言い切っているのでしょうか。だとすると、「私の中には、罪を犯す「古い人」が相変わらず大手を振ってのさばっているから、とてもそうは思えない。私はキリストに結ばれていないんだろうか…」と不安になる方もいるのではないでしょうか。
 しかし、「古い人」というのが、私たちの中にある「古い、罪を犯すもう一人の人格」というように考える読み方自体が正しいかどうか考えなければなりません。面白いことに、この「古い人」というのは定冠詞付きの「あの、古い人」という言い方です。そして、単数形です。「私たちの古い人」というのですから、定冠詞なしで複数形、というほうがしっくり来るでしょうに、「あの古い人」と言うのです。ですから、これは、キリスト者個々人の中にいる、罪の人格、などということではないのです 。
 同じ「古い人」「新しい人」という表現は、エペソ書四22やコロサイ書三9でもパウロが使っています。いずれも、単数で定冠詞付きです 。そして、「古い人」に対照される「新しい人」については、エペソ書二15にも出て来ます。こう言われるのです。
「エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
 つまり、「新しい人」とはキリスト者一人一人の心にある人格ではなくて、キリストの和解によってユダヤ人も異邦人も一つとされた全体、キリストをかしらとする民を「ひとつからだ」と見なす、比喩的な表現です。そして、当然それに対応する「古い人」もまた、そういう意味でしょう。つまり、アダムをかしらとする、神に逆らい、罪と死に支配されている民全体です。決して、私たちの心にまだ残っている、罪を犯そうとする衝動、肉の思いを指しているのではないのです。
 そのような罪の思いが、まだ死んでなどおらず、私たちの中に残っていて、強く私たちに働きかけている事実は、この後、七章に入ってパウロの赤裸々な告白と共に明らかにされていきます。今この六章では、そのことにはまだ触れていません。むしろ、そういう事実に目を向ける以前に、まず知っておくべき事として、私たちがすでにアダムの子、罪の支配下にあるものではなく、キリストの子、キリストをかしらとする民のひとりとされている、その事実を踏まえさせようとしているのです。6節は、私たちにとっては今、キリストの十字架によって「古い人」は私たちに対して死んだものとなった事実と、その事実の当然の目的が、罪のからだが滅びて、私たちが罪の奴隷として生きることを止めることにある、と教えています。まだ、罪のからだは滅びておらず、罪の奴隷に舞い戻ってしまったりそういう生き方を続けたりしていることもあるかもしれない。それは目的であり、途上であって、未完成です。けれども、その土台である、キリストの十字架に「古い人」が死んだことは事実です。私たちは罪の奴隷ではなく、キリストのしもべなのです。
 まだ罪を犯し、失敗し、誘惑に負けるのです。しかし、それによって私たちが神の支配から漏れ落ちるとか、救いにあずかれない、ということではないのです。私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられた-十字架につけなさい、ではないのです-すでに十字架につけられた。この事実は変わらず動かないのです。しかし、だから罪を犯してもいい、というのではない。パウロがこれを語っているのは、「罪の中にとどまるなんてことは、絶対にない」と論じる中でのことです。私たちにとって古い人がキリストとともに十字架につけられた、と信じることは、それが、罪のからだが滅びて、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであるとの目的を受け入れることでもあります。その事実を厳粛に受け止めて、罪を楽しもうなどとはしないのです。
 「 7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
 まだ罪の力は働いています。恵みさえ口実にして罪を大いに犯そうなどと詭弁を弄する声になびくことさえあるのです。それでも、私たちは罪の支配からは解放されて、キリストの支配の中にあるのです。罪との戦いは生涯なくならない、と思えばガッカリかもしれませんが、それでも私たちは罪の支配下にではなくキリストの恵みの支配下にある、と知る事は、不思議にも大きな慰めではないでしょうか。
 なお思われがちな誤解を逆手に取ってみますと、古い人を自分の手で十字架に殺さなければならない、とは言われていないのです。自分の罪ある自我を一生懸命殺し続けよとも言われていません。古い人を十字架に付けたのは、キリストです。私たちではありません。私たちが古い人であったときは、罪を楽しみ、神を恐れず、罪からの解放を願いもしませんでした。しかし、キリストが私たちに聖霊をお遣わしくださったとき、この救いが届けられて、罪からの解放を願うようにしていただいたのです。
 ここから、私たちの「選び」についても一つの理解が与えられます。救いに選ばれず滅びる人々は可哀想ではないか不公平ではないのでしょうか。しかし、今のような言葉を考えますと、選ばれず罪の中に放っておかれる人は、自分から、罪からの解放を願いさえしないのです。勿論、神様の選びや救いへの不平を言って、神に叫び神を罵(ののし)るでしょう。けれども、では悔い改めて神の光のもとに来なさい、罪からの救いをいただきなさい、と言われても、それは拒むのです。
 言い換えれば、悔い改めは救いの手段ではありません。悔い改めは救いの本質なのです。自分のプライドが第一であり中心であった生き方から、神を神とし神を中心とする生き方に立ち帰る。それが救いであり、それのない救いなどはありません。そしてこれを受け入れ、悔い改めたい、神様を神として生きたいと願うことは、神様の側からの一方的な働きかけなくして人間が願うことはないのです。選ばれなかった人は、選ばれたいと願いもしない。しかし、選んでいただいた私たちは、自分の罪になお負けたり流されたりしながらも、本当にこの罪から救われたい、神様に感謝と賛美をささげたいと願う者に変えられていくのであり、そう変えていただいたことを喜び感謝しているのです。
 5節の「つぎ合わされて」という言葉は、「継ぎ接ぎする」という意味の継ぎ合わすではなく、「接ぎ木する」という意味での「接ぎ合わす」です 。このところから、洗礼について、「キリストに接ぎ木されること」とする告白が生まれました 。私たちは、キリストに接ぎ木されている。洗礼において、そのことをハッキリと示していただいている。今も罪を残してはいても、神様の一方的な選びによって、神を神とする「新しい人」の一部とされている。この事実をまず受け入れたいのです。

「古い人は十字架につけられて、キリストの民、新しい人とされた幸いな事実を受け止めます。私共の願いや思いや貧しさを越えて、あなた様が私共を継ぎ合わせてくださっています。既に罪に死に、いのちに生かされている者として、ますます整えてください。主の愛の中で、この計り知れず尊い新しさによって、活き活きと生かしてください。」



文末脚注



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2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」

2012-11-06 10:29:33 | 聖書
2012/10/21 ローマ書六8―11「キリスト・イエスにあって生きている」
         イザヤ書四八7―19  詩篇一二五篇


 六章1節で提出された、罪人がただ恵みによって赦されるというなら、ますます罪を犯そうじゃないか、という屁理屈に応えている言葉が続いています。今日の、
「 8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」1
とあるのも、罪に対して死ぬ、というのは、キリストとともに生きるということを言いたいわけです。
しかし私たちは、このような言葉を読むと、「そうは言われても、自分はまだまだ罪に対して死んでいない。誘惑に負け、感情に流され、自己中心的な計算や発想をすぐにしてしまう。私にはこんな御言葉は到底信じられない」とすぐに思ってしまうのではないでしょうか。前回も、そうではないことをお話ししました。七章でパウロは、パウロ自身の中にある、
「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです」2
という現実を正直に告白しています。ですから、ここでも、私たちの中に悪や罪がなくなると言っているのではないのです。特に、今日の箇所では、キリストが死んでよみがえられたように、私たちも罪に対して死んで、神に対して生きている、と言っています。では、キリストは、どのような意味で罪と死に対して死なれたのでしょうか。これを理解することが鍵になります。ここで注意したいのは、パウロは9節10節で、キリストの死と復活を述べていることです。
「 9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように.....、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
キリストは、十字架に死なれました。しかし、死なれる前は、罪を犯しておられたのでしょうか。いいえ、キリストは、お生まれになってから十字架に掛かられるまでも、何一つ罪を犯されませんでした3。キリストが死なれたのは、それまでは罪を犯したけれども、死んでからは罪を犯さなくなった、というような意味ではありません。10節にある、「ただ一度」という言葉は、一回だけ、という意味ではなく、その一回ですべて(once and for all)、あるいは「決定的に」「最終的に」という意味での「ただ一度」です。キリストは、人となられたときに、私たちを死から解放してくださるために、ご自身が死ぬべき肉体をもたれ、死の支配下に置かれることをよしとされました。しかし、その死によって、死はもうキリストを支配することが出来なくなりました。罪を犯さなくなった、のではなく、死の支配に束縛されることがなくなったのです。
それと同じ意味で、とパウロは言います。私たちは、キリストを信じてキリストにつぎ合わされるとき、もはや罪を犯さなくなるのではありません。キリストの死は、罪との決別という意味ではなく、死の支配との決別だったのですから。まだまだ、罪を犯すのです(だからといって罪を犯そうと開き直るのでは決してありませんが)。けれども、救われるときに、私たちはその罪を認め、嘆き、悔い改める者となるのです。
「ある人が再生されているという証拠は、すべての罪と腐敗から自由にされているなどという虚しい妄想ではなく、キリストの赦しと、聖霊が私たちのうちに罪に死に義に生きるよう誠心誠意戦わせてくださっている働きとをバランスよく自覚しているかどうか、にあるのです。私たちが聖書において出会う忠実なキリスト者たちは、この世における完成などは決して口にせず、キリストの贖いによる自分たちの罪の赦しを宣言したのであり、罪に対する飽くことなき戦いを教えたのです。…再生していない人のうちは腐敗が支配していますが、再生された人のうちには神の御霊と神の律法が主導権を握っているのです(ローマ八・七-十四)。再生されていない人のうちでは、罪が統治しています。再生された人のうちでは、罪は死に絶えてはいませんが、支配してはいないのです。」4
私たちは、罪の誘惑に負けてしまうことがあります。けれども、私たちはそこでもキリストが御霊によって私たちを支配しておられて、自分の罪に気づきそれを認め、心砕かれて、謙虚にされ、神に悔い改めるよう導いてくださることを約束されています。私たちが何一つ罪を犯さないものとなることが条件とか不可欠だというのではなく、罪はあってもキリストが私たちを支配してくださっている....................ことが何よりも大切なのです。そういう意味で、私たちは罪に対しては死んだ者であると信じるのであり、罪の支配下にではなく神の御支配の中にあるという意味で、
「神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと思いなさい」
と言われているのです。
ロイドジョンズという説教者が述べていますが、この六11はローマ書始まって以来、最初の命令です5。そして、六12、13、19節と命令文があって6、次は十二章の有名な、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」
まで、命令文はないのですね。それを考えても、ここで言われているパウロの勧告-私たちが自分を、罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思う(みなす、認める)ということ-がどれ程大切か、とパウロが言っているのだと分かるでしょう。
キリスト教は「永遠のいのち」を語る宗教です。信じるならば永遠のいのちが与えられます、と伝道します。その永遠のいのちとは、こういう意味でのいのちなのです。ただ肉体や魂が永遠に存続する、というだけではない。罪の支配から、神の御支配の中に移されていくのです。時間の上での永遠だけで心には不信仰や自己陶酔、砂をかむような思いが(永遠に)残っているとしたら、なんと虚しいことでしょうか。神が私たちに用意されているのは、そんな恐ろしい牢獄ではなくて、罪を捨てて永遠なる神のいのちに生かされるという、喜ばしく、願っても見ないような祝福なのです。それも、私たちがそれに相応しいから、ではなくて、相応しくないものに対する、溢れ余るほどの恵みなのですね。
私たちの実感としては、まだ自分は罪深い、罪に負けてしまう、という経験がまさっているでしょう。これは、ただ神の御言葉の約束と、イエス・キリストへの信頼だけを保証として、「信じる」ことが要求される、宣言です。私たちは自分の不信仰や醜い現実を見てしまうのではなく、御言葉の約束とキリストご自身を仰ぎ、受け入れるのです。同時に、これはやはり私たちの経験、歩みを通して私たちが導かれていく信仰でもあります。ある日突然に、御霊によってこういう信仰を持つ、というのではないし、神様に選ばれさえすれば、状況とは無関係にその人がポンと信仰を持つ、というのでもありません。私たちの出会い、人間関係、ちょっとした出来事やインパクト、様々なきっかけの積み重ねの中で、あるいは、教会の伝道計画、知恵の積み重ね、また信仰者の聖化などを通して、豊かな恵みへと導かれてきたのです。
であれば、私たちが恵みによって新しくされ、神の御支配を信じる者とされたこと、そこで主の御愛にいよいよ打たれて、賛美と感謝を捧げていくとき、その私たちの歩みを通して、周りの方々が信仰へと導かれていくことも、大いに期待したいものです。主の主権による救いとか選びというものは、もう融通の利かない、決定事項とか硬直したものではありません。私たちが、
「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと、思いなさい。」
もちろん、そう思えない私たちの弱さをも用いて、神様は救いの御栄光を現されるでしょうが、だからこそその主の恵みを私たちがいよいよ確信させられていくときに、その私たちの歩みや祈りや賛美を通して、どれほど豊かな恵みをご計画されていることでしょうか。そして、私たちが弱さや罪に悩むとしても、究極的に私たちの救いは、神の一方的な主権にのみかかっていると信じる事実を仰ぐことが出来るのです。
主の慈しみの深さをここに本当に味わい知って、私たちの周りにも御栄えを現してくださると大いに期待して、望みをもって祈り、伝え、愛し、仕えていきましょう。
「キリストがただ一度、私共のために死んでくださいました。それによって私共は今なお罪と戦いつつも、すでに神に向かって生きる者とされています。この測り知れない幸いをもっと心から信じさせてください。自分の弱さやサタンよりも強い、主の御愛と御力を信じさせてください。その私共の歩みもまた、御栄えを現すと確信させてください」


文末脚注

1 「5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる…」と言われていたのを、6―7節で、前半のキリストの死と同じようになっていることを説明して、今日の8―11では、後半の、必ずキリストの復活とも同じようになることを説明している。そういう構造になっています。
2 ローマ七21。七13―24全体を参照。
3 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル書四15
4 G.I. Williamson のウェストミンスター信仰告白第六章五―六節の解説より。
5 あえて言えば、一7で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」と言われていたのがありますが、これは命令ではなく、祝福です。
6 六12「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に...従っては....いけま...せん..。」13「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい........。」 19「…あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に...進みなさい.....。」

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