聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/11/11 ローマ書六15―18「罪から解放されて義の奴隷となった」

2012-11-12 10:47:58 | 聖書
2012/11/11 ローマ書六15―18「罪から解放されて義の奴隷となった」
申命記三二36―43 詩篇八六篇

 15節を読んで、同じような言葉がどこかにもあったと思い当たる方もいるでしょう。
「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
 六1にも同じような言葉がありました。
「 1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
 恵みがあるのだから、罪を犯してもいいのだ、という屁理屈がまた15節でも取り上げられます。持ち出している根拠は微妙に違っていますが、あれこれと言い訳をしながら何とか罪に留まろうという人間の心境という意味では同じでしょう。ロイドジョンズの説教をまた引用するなら、福音ではなく道徳を説教するなら、こういう誤解は産まれないだろう、福音を説教するならば、必ず「では罪を犯してもいいではないか」という誤解は招きかねないのだ、恵みによる赦し、人のわざには依らない救いを説くならば、では罪にふけってもいいじゃないか、と思われないわけにはいかない、ということです 。勿論、そういう誤解に対して、
 「絶対にそんなことはありません」
と言うのも福音なのですが、それは、「やっぱりよいこともしなければ」とか「恵みをいただいたのだから、ちゃんとした生き方でお返ししなければ神様も怒るから」といったような理由ではないのです。言い換えれば、同じ信仰のわざを行っていても、その動機が福音に基づいていることもあれば、人間的な義務か義理のような場合もある、ということでしょう。パウロは、福音に基づいて、罪を捨てる生き方をする理由を、今日のところではどう述べているのでしょうか。
 パウロはこう言うのです。
「16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」
 罪を愛するなら罪の奴隷となる。罪を離れるなら従順の奴隷となる。律法のさばきの下にではなく、恵みの下にあるからといって、罪を犯そう、堂々とであれ少しぐらいであれ、罪に耽っていようというのであれば、それは恵みの下から飛び出して、自分を罪の奴隷としてしまうことです。そんなことは絶対にあってはならない。
 ところで、奴隷と言うのは、第一に、自分が誰かの所有である、ということです。現代の私たちは、奴隷と言えば、人間扱いされないとか、酷く扱き使われるとか、手足を鎖に繫がれてガレー船をこぎ続けるようなイメージを持たれがちですが、そういうことではありません。身分の高い奴隷も大勢いました。一世紀の文献を見ると、奴隷を養うことを考えれば使用人を雇った方が割安だ、というような表現も見られます。酷使していい、という存在ではなかったのです。奴隷であるということが直ちに重労働や悲惨や死を意味するわけではない。ただ、主人のものであった、のです。ですから、ここに「従順の奴隷」「義の奴隷」という言葉がありますが、そこにあるのは主従関係であって、人格を剥奪されるとか惨めに言いなりにならなければならない、とは考えなくてよいのです。
 しかし、それよりも、ここでお気づきになるでしょう、罪の奴隷か従順の奴隷か、そのどちらかしかないのでしょうか。それほど従順に生きることも出来ていないけれど、罪の奴隷と言われるのも心外だ。その中間ということはないのでしょうか。
 パウロはそうは言いません。罪の奴隷か従順の奴隷か。人間は、自分で自分の主人になることは出来ません。神の奴隷になるか、神以外の何かの奴隷になるか 。それ以外にはないのです。自分で自分の主人になっているつもりだとしたら、それはもう神を忘れた傲慢という罪の虜になっているのです。神に背を向けた、罪の奴隷か、神に従う、義の奴隷か、どちらかしかない。このこともまた私たちは心に刻まなければなりません。
 しかし、決してパウロは、あなたがたがどちらの生き方を選ぶかによって、義の奴隷にもなり、罪の奴隷にもなるのだぞ、だから神に従う生き方を選ばなければならない、とは言っているのではありません。それは誤解してはならないことです。
「17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 もうあなた方は、義の奴隷である。もとは罪の奴隷であったけれども、今は違う。罪から解放されて、義の奴隷となってしまっている。私たちが自分で生き方を選ぶことで誰を主人とするかを決められるのではないのです。自分の生き方を選べるのは奴隷ではなく自由人であります。先に申しましたように、奴隷は主人のものです。かつては罪が主人であった。しかし、そこから逃げ出して正しく生きることによって神の奴隷となれるのではありません。それは逃亡奴隷でしかないのです。そうではなく、神が恵みの下に入れてくださった。罪から解放してくださった。もうあなたは罪のものではない、わたしのものだ、と仰って、私たちの主となってくださった。そこで私たちがいくら罪の方に走っていっても、それで主のものでなくなるのではない。身分を変えることは人間には出来ないのです。
 けれども、だからといって勝手(かって)気儘(きまま)にほっつき歩いていて言い訳もない。むしろ、神のものである以上、神に従わなければなりません。また、主も、所属さえご自身のものとなっていればいい、というおつもりで私たちを買い取られたのではありません。私たちが罪の性質を捨ててきよくされて、神のしもべらしくしようとのご計画がある。
 17節に、伝えられた教えの規準、という言葉がありますが、規準というのは「型」という言葉です 。教えの型、キリスト教信仰・教理の大枠、全体像、といってもいいでしょう。それ以上に、この「伝えられた」とは「引き渡された」「委ねられた」と訳されることの多い言葉です。あなたがたに伝えられた、と言う以上に、あなたがたがその教えの型に引き渡された、その教え。罪の裁きだけでなく、罪そのものから救われて、神様の御心に叶う者としてくださるというその教えに、私たちは引き渡された。身分を罪の奴隷でなくされた、というだけでなく、神様の教え、御言葉の規準に、私たちは引き渡された。けれどもそれも無理矢理とか嫌々ではなくて、
 「心から服従し」
なのです。キリストの福音を聞かされて、罪の赦しだけでなく、神様が私たちをご自身のものとして新しくしてくださる、よいご計画をもって私たちを変えてくださる。愛されるだけでなく、愛する者へと招いていてくださる。そのメッセージを、私たちはみな、それなりに心から喜んで、心から受け入れ、お従いします、という決心をしてきたのではないでしょうか。
 「義の奴隷」とあります。この「義」は「あの義」という言葉です。一般的な正義や正しさ、ではありません。イエス・キリストにおいて示された義。罪人を救い、義とするという驚くべき義です。その義に私たちが捕らえられている。その義に、私たちの心も生き方も捕らえられて、ますますその義のしもべとされていく。
 もう罪はない、というのではありません。罪の誘惑に負けない、失敗をしない、というのでもない。罪との戦いはあり、悔い改めもしなくていい日はない。罪を謙虚に認めつつ、罪を握り締めたり耽ったりしてもいいとする詭弁には逃げないのです。神のものとして生きるのです。それは不自由で窮屈な生き方ではありません。私たちが心から服従したくなるような、幸いな生き方です。私たちが主の奴隷である、主のものである、ということを、ハイデルベルグ信仰問答は、「唯一の慰め」と言いました 。先ほど読みました詩篇八六篇でも、三度、自分のことを「あなたのしもべ」と呼んで、そこを手がかりに主の憐れみと恵みを希(こいねが)ったのです。
「あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
 私たちは主のしもべです。もはや罪のものではなく、主の恵みの中に立てられていき、罪や恐れから自由にされて、主の祝福と義を求めることを許されています。

「尊い代価を払っていただいて、あなた様のものとしてくださった恵みを感謝します。その幸いにより罪や欺きに背を向けさせてください。カルヴァンが、「私の心を、主よ、あなたにささげます。速やかに、かつ、真心を込めて」と言いましたように、私共もまた、この心を主にささげさせてください。主の義を慕い求めて歩ませてください。」



文末脚注

文末脚注
1 ロイドジョンズ『ローマ書講解6章』344ページ以下。
2 マルチン・ルターは、『奴隷意志論』を書きました。エラスムスの『自由意志論』に反論して、人間の意志の自由をよりは、奴隷的な性質を論じたものです。これもまた、宗教改革から始まるプロテスタントの原点のひとつです。
3 テュポス。五14で「アダムは来るべき型のひな型...です」と訳されていた言葉です。
4 ハイデルベルグ信仰問答「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか。 答 私の唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、私の体も魂も、わたしのものではなく、私の真実の救い主イエス・キリストのものであるということです。主は貴い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、私を悪魔のすべての支配から贖いだしてくださいました。主は、いまも、天にいます私の父のみこころではなければ、私の頭から髪の毛一本も落ちることのないように、いな、すべてのことが私の救いに役立つように、私を護っていてくださいます。それゆえ、主は、ご自身の聖霊によって、私に、永遠の生命(いのち)を保証し、今から後は、主のために生きることを、心から学び、進んでそうすることができるようにしてくださるのです。」
5 詩篇八六4

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