聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

2015-12-30 20:11:34 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/27 ウ小教理問答100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

 

 今日から「主の祈り」について学んで行きます。主の祈りについて学びながら、祈りについて学びます。祈りについて学ぶとは、私たちと神との関係を知る事ですし、神とはどんなお方か、私たちは今どういう者であり、何を願い、何を求めて生きるか、ということを知っていくことです。

 「主の祈り」は、主イエス・キリストが、弟子たちに教えられた祈りです。イエスの祈りを聞いていて、弟子たちは、イエスの神に対する祈りに、とても強い魅力を感じずにはおれなかったようです。弟子たちはイエスに、

「私たちにも祈りを教えて下さい」

と尋ねた、とルカの福音書11章に書かれています。そこで主イエスが教えられたのが、「主の祈り」でした。イエスが祈られた祈り、ではなくて、イエスが弟子たちに教えてくださったので「主の祈り」なのです。そしてこの「主の祈り」を通して、弟子たちが、また私たちが、イエスによって教えられなければ決して持てなかったような、新しい神との関係が育まれるのです。ですから、「主の祈り」を通して、私たちが全く新しく、深い視点を持って生きることを、今日からの学びに期待したいのです。今日はまず、主の祈りの最初の言葉(序文)について学びましょう。

問100 主の祈りの序文は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの序文、すなわち「天にいます私たちの父よ」は私たちに、私たちを助けることができ、また喜んでそうしてくださる神に、子どもが父親に対してするように、全く聖なる畏敬と信頼をもって近づくように、また私たちが、他の人々と共に、そして他の人々のために、祈るべきである、と教えています。

 「天にいます私たちの父よ」。こうイエスは祈るように教えられました。先ほど読んだローマ書8章では、パウロがこう言っていましたね。

ローマ八15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 イエスによる福音は、ただ神を「父」と呼ぶことを教えただけではありません。イエスは私たちに御霊を与えてくださいました。その御霊は、私たちを神の子どもとしてくださり、神を

「アバ、父」

と呼ばせてくださり、私たちが神の子どもであることを証言してくださる、というのです。「アバ」というのは、ヘブル人の子どもたちが舌足らずなうちから、お父さんを呼ぶ言い方です。日本語だと「パパ」、英語だと「ダディ」に近いでしょう。それは、本当に親しい言い方です。イエスは、神と私たちとを、そのように親しい絆で結びつけてくださいました。

 これは、当時のユダヤ教の考えでは、あり得ないことでした。神を「アバ」と呼ぶほど親しく馴れ馴れしくするだなんて、思い上がりも甚だしいと考えられたのです。実際、旧約聖書にはそのような呼び方は殆ど出て来ません。しかし、それにはそれで理由がありました。旧約聖書の時代、周囲の民族の宗教では、神を「父」と呼んでいたそうです。そこには馴れ馴れしさ-神を引き下げ、自分たちの思い通りに操ろうという自己中心の宗教理解-がありました。これに対して聖書は、神を、天地を造られた大いなる主として、恐れ、心から礼拝し、私たちこそ神の御心通りに従うべきことを強調します。その上で、イエスは、その「大いなる神」と私たちを、父と子という親しい関係で結び合わせてくださいました。そのために、神の子であるイエスご自身が私たちのようになってくださり、御霊を遣わして、その絆を与えてくださったのです。ですから、神を親しく「アバ、父」(お父さん)と呼べることが、決して軽々しいことではなく、神の子イエスの尊い御業によって与えられた特権であることを忘れてはなりません。

 神が神である故に、私たちは限りない恐れ、礼拝の念を忘れてはいけません。同時に、その神は本当に私たちの父となってくださったのですから、遠慮しすぎたり、畏まってカタくなったりする必要もありません。神は

天にいます私たちの父」

であり

「天にいます私たちの父

です。この両方をいつも忘れずにいましょう。逆説的なことを言えば、私たちが自分のお父さんを考えない方がいいのです。いいお父さんでも、完璧ではありません。そして、お父さんやお母さんとの関係が上手くいかなくなっている人も多くいます。そうした時、神が「天のお父さん」と言われても、困ってしまったり、その自分の両親との関係が限界になって、ぎこちなく考えてしまったりするのです。

 神は、人間の親とは違います。この方は、完全に私たちを知っておられます。また、私たちを愛しておられます。子どもの心をよく分かってあげられない人間ではありませんし、よかれと思って間違ったことをしてしまう親でもありません。また、自分自身に恐れや傷や自己中心があって、子どもを操作しようとすることも、神にはありません。ですから、ローマ書では、私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」と言っていました。この神との親子関係には、恐怖はありません。本当に恐れる事なく、神を「天のお父さん」と呼んで良いのです。しかも、そう祈ることから始めて良いのです。なぜなら、そう呼べるために必要なことは、すべて主イエスがもう果たしてくださったからです。私たちが、あれこれ準備したりしなくても、「天のお父さん」と呼んで良いのです。

 イエスが「主の祈り」を教えられたことを記す、もう一つのマタイ六章で祈る時は、会堂に出かけたり、みんなに見せるために通りに立ったりせず、家の奥の部屋で戸を閉めて祈りなさい、と言われています。なぜなら、天の父は隠れた所におられるからだ、と言われます。

マタイ六6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神との関係は、私たちの生活の隠れた、秘かな思いから始まるのです。装ったり、取り繕ったりしない、私たちの心の深い所まで、恐ろしいほどに知っておられる神が、私たちを愛し、私たちの祈りを全て聞き、私たちが願うよりももっと素晴らしく、深く、最善のご計画で応えてくださるのです。

 「天にいます私たちの父よ」。この言葉から、神への最大の畏敬と、最高の信頼をまず持たせて戴いて、祈りを始めましょう。自分のためだけでなく「私たち」と周りにも思いを馳せながら、天を仰いで、高い志をもって、祈りを捧げさせていただきましょう。

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