聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

2016-03-06 20:02:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/03/06 ウ小教理問答107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

 

 今日で「主の祈り」の解説は終わります。そして、「ウェストミンスター小教理問答」もこれが最後の質問になります。分かりますね。

問107 主の祈りの結びの言葉は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの結びの言葉、すなわち「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」は、私たちに、祈りにおける励ましを神からのみ受けるように、また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、教えています。そして、祈りが聞かれるようにという私たちの願いと、確かに聞かれるという確信の証しとして、私たちは「アーメン」と言います。

 主の祈りには六つの願いが含まれていますが、その最後にこのような言葉で結ぶ習慣が、ごく最初の頃から出来たようなのですね。「だからです」と言うように、六つの願いを祈ってきた最後に、どうしてこのような願いを祈るのか、という理由を確認するのがこの結びです。

「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」。

 ここには、二つのことが言えます。一つは

「祈りにおける励ましを神からのみ受けるように」

とあるように、私たちを励まし、この祈りが必ず答えられる、という確信を与える面ですね。「国」言い換えれば、天の父は王であって、全てを支配しておられ、すべてのものはあなたのものだからです。「力」もあなたのものです。神より強いものはないし、天の父にはどんなことでも成し得る全能の力があります。「主の祈り」の六つの願いは、途方もない願いのようにも思えます。

「私たちを試みに会わせないで悪からお救い下さい」

という祈り一つ取っても、本当に私たちが悪から守られるか、大丈夫か、不安にも思えます。しかし、

「国と力と栄えは永久にあなたのもの」

だから、神には私たちの思いや限界を遥かに越えて、私たちを守り救ってくださると信じて、お祈りさせていただけるのです。そういう意味ですね。

 先に読んだ、Ⅰ歴代誌29章の言葉を思い出してください。Ⅰ歴代誌の最後の章です。ここでは、ダビデ王が死ぬ間際に祈った祈りが書かれています。自分が死んだ後、息子ソロモンに、神殿建設という大事業を委ねることになっていました。これは今まで誰もしたことのない、壮大な事業です。上手くいくんだろうか、また、神の御心に叶う事業に出来るのか、不安もあったでしょう。そこでダビデが祈ったのが、この祈りです。

11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

 ここに、主の祈りの結びと同じ言葉が出て来ますね。■力と栄え、王国もあなたのもの。面白い事に、そっくりそのままです。そして■偉大さと栄光と尊厳、天にあるもの、地にあるもの、すべてのもの、富と誉れ、勢いと力、すべてが神のもので、神から出て、神によって大いにされると歌っていますね。だから、ダビデはソロモンが神殿建設をすることも、神様が導き祝福し、聖めてくださるようにと祈っているのですね。神は、王であって、力も栄光もお持ちである。そう信じる事は私たちにとって希望と励ましです。

 同時に、それだけではありません。それはまた、私たち自身の自惚れや勘違いにも気づかせてくれます。

「国と力と栄えとは、永久にあなたのものです」

、言い換えれば、「私のもの」ではありません。私たちは自分が王様のように思い通りにしたい気持ちがあります。神にも自分の願いを叶えてもらいたいと思って、熱心に祈るのです。また、自分の栄光(名誉や賞賛)を求めたがりますね。また、自分が馬鹿にされたり、恥をかいたりしたくない、それよりスポットライトを浴びたい、有名になりたい。そういう思いに動かされていることが多くあるのです。でも「国と力と栄えとは(私のものではなく)あなたのものです」。そういうのですね。ダビデも続いて言いました。■

14まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

 私たちの持っているものはすべて神から出たものです。「これは自分のものだ」なんて言えるものは何一つないのです。その事に気づかされるのですね。ここでも、■

…また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、…

とあります。自分のものに握りしめかけていたものを全部神にお返しして、神の御心が、神の御名が崇められるために、行われますように。自分の思いが自分の名誉のために叶うようになんて思いは、お返しします、そう気づかされるのだとも思うのです。

 今日の言葉は「主の祈り」の結びの言葉についてだけの解説ではありません。お祈りが終わって、立ち上がったら、関係なくなるのではありません。いいえ、むしろ、私たちの全生活が、どこを取っても神様のもの、どこを切っても神の栄光や愛が思われるはずですね。私たちの生きているすべてが、神の国であり、神の力によって支えられて、神の栄光を現すためのものなのです。主の祈りは、私たちをそのような神の絶大な栄光に引き戻してくれます。私たちの祈りの根拠が、神の力への確信と希望であるとともに、自分の小ささや思い上がりにハッとさせられて、謙虚にさせられ、天の父を心から賛美させられるのですね。祈りは、私たちが神に自分の願いを聞いてもらうためにするのではありません。祈りは、私たちが神ではなく、神に栄光をお返しし、神に焦点を合わせた生き方をさせてくれるのです。祈りの素晴らしさとは、自分の願いを叶えることではなくて、私たちがますます神を信頼するように変えられ、喜びや謙虚、信頼と平安をもって生きるようにしてくれることにあります。

 ウェストミンスター小教理問答で学んできた通り、聖書の教理を学ぶ時、私たちの生き方が、神への信頼を軸として、天の父との親しい交わりに生かされるようになります。

 祈りましょう。祈りましょう。神から喜びと励ましと賛美を戴きましょう。神はそれを下さるお方です。天の父である神は私たちの祈りを喜び、豊かに祝福してくださいます。

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