聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/8/9 マタイ伝9章27~31節「信仰のとおりに」

2020-08-15 14:14:53 | マタイの福音書講解
2020/8/9 マタイ伝9章27~31節「信仰のとおりに」
 イエスがなさった奇蹟の記事が続いてきて、この9章27節から
「目の見えない二人の人」
の癒やしが伝えられます[1]。この奇蹟は今までと違い、ただイエスが病人を奇蹟的な力で癒やされた、だけではない、「なぜだろう?」という疑問が出てきます。最初に
「ダビデの子」
と呼びかけられます。このマタイの福音書で何度も出てくるイエスの呼び名です[2]。ここが、ハッキリとイエスに向かって「ダビデの子よ」と使われる初めての箇所です。ダビデはイエスの時代から千年ほど前、紀元前10世紀にイスラエルの王だった人物で、大きな失敗も犯したことも含めて、その生涯や信仰が聖書に詳しく記されている人物です。そして、そのダビデの子孫から、もう一度、神が永遠の王として立てる救い主を送ってくださる。そういう約束が与えられていたのです。つまり「ダビデの子」とは、メシヤ(キリスト)の呼び名の一つでした。ですから、今までの奇蹟や教えが伝わっていく中で、イエスが「ダビデの子」ではないか、神が遣わした救い主、王として治めてくださるお方ではないか、そういう期待が高まってきて、この目の見えない二人の方も、イエスに向かって「ダビデの子よ」と期待したのでしょう。
 しかし、この名前とか「救い主」に対しては、当時、もっと政治的な期待、ローマ帝国の圧政や軍事力を蹴散らしてくれる、という期待がありました。イエスが「ダビデの子よ」と呼びかけられてもすぐには応じずに「家に入られ」てから声をかけたのはそんな危険があったからの慎重さでしょう。人々の熱狂的な期待の火に油を注ぐことは望まないところでした。
 イエスはこの二人と静かに向き合いたかった。病人を癒やして自分の力を見せびらかそう、アッと驚かせて信者を増やそうとは考えない。あくまでも、この二人に語りかけます。
「わたしにそれができると信じるのか」。
 二人は「目が見えるようにしてください」とは言っていなかったのに、イエスも「わたしにそれが出来ると信じるのか」と問われます。こう問われて、改めて二人は「自分が直りさえすれば」という願いから、このイエスというお方を信じる-「わたしができると信じるか」と問うお方への信頼を求められました。自分の願いをこの方が知っていて、それを出来ると信じるか、と迫られました。そして、二人は
「はい、主よ」
と踏み出したのです。彼らの立派さ、というより、主がこの言葉を引き出してくださったのです。
 そこでイエスはまず彼らの
「目に触り」
ました。わざわざ触りました[3]。二人はイエスが目に触れた時、イエスが「それ」と仰ったのが自分たちの目の事だとちゃんと分かっておられたのだ、とホッとしたかもしれません。今まで見えなくて最も悲しかった所にイエスが触れてくださったことで、どんな思いをしたのだろうか、とも想像します[4]。そして、
「あなたがたの信仰のとおりになれ」
と仰って、彼らの目は開いた。見えるようになりました。
 この「あなたがたの信仰」というのは、イエスご自身が彼らに問うて、引き出した信仰です。イエスが私をあわれんでくださって[5]、目が見えるようになりたいという私の願いを知っておられて、それを叶える力がある。そう信じる信仰をイエスは引き出した上で、その信仰の通りになると仰いました。だから大事なのは、この人が信じる信仰の純粋さとか、私たち人間の側の真剣さ以上に、私たちが信じる信仰の中身、イエスに対する信頼、イエスの私に対する力強い憐れみ。それはその通りになるのです[6]。そしてその信頼も、イエスが引き出されるのです。
30…イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。31しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた[7]。
とあるように、二人はイエスの厳重な約束に従いません。それからすれば二人の「信仰」はとても未熟でした。この後マタイの記事は今までよりも周りの反応が取り上げられます。イエスの力に預かった人も従わない。今までよりも周囲が騒々しくなり、逆風も強まっていきます[8]。徐々に十字架への不穏なうねりが始まります。だからこそイエスはこの二人に厳しく沈黙を求め、守ろうとなさった。イエスが求めたのは、周りがどうあろうと、それに流されず、この二人と、また私たち一人一人との強い信仰の関係、「信じるか」「はい、主よ」「あなたの信仰の通りになるように」と言うような会話をすることだったのです[9]。
 イエスは彼らの未熟さやその言い触れ回った結果ご自分に降りかかる迷惑もお見通しだったとしても、それでも彼らに真剣に向き合い、自分が受けたあわれみを味わわせたい。言い広めるより、そっと心に納め、思い巡らし、それこそ「瞳のように」大事にさせて、もっと味わわせたかったのです。結果的にここでは二人が言い広める終わり方になりますが、そんな人間に対してこそ、イエスが求めるのが、あわれみを受け取ることなんだ。私たちに「出来ると信じるか」と問われて、「はい、主よ」という精一杯の信仰を肯定してくださり、その恵みを誰かに伝えるより、まず静かに自分の中で深めることを願う方なのだ。不穏な空気が強まっていく中で、イエスは益々一人一人と向き合われた。その事を見る目を開かれたいと願うのです[10]。
 主イエスは私たちにも憐れみを惜しまないお方です。主は私をあわれんで、語りかけ、信仰を引き出し、私たちの苦しみや痛みを見てくださいます。そして、私たちの願いよりも大きなことをしてくださる。そう信じるかと問われるなら、「はい、主よ」と応える。そうして引き出した信仰に、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と、主イエスは言って下さるのです[11]。

「主イエス、ダビデの子、永遠の王なる主よ。あなたが私たちを憐れんでくださること、あなたにしか出来ないことを、あなたがしてくださることを、信じて「はい、主よ」と静かに言う今日とさせてください。その信仰の通りになれとのもったいないほどの御声を感謝します。あなたに求めている私たちの願いを引き出し、あなたの憐れみを仰ぐ目を持たせてください」
[1] 正直な所、「こんな奇蹟自体、信じられない」という思いもあるでしょう。確かにこれは信じがたいこと、本当だとすれば驚くべきことです。私は以前、「奇蹟を起こす神など信じがたいが、奇蹟を起こせない神なら信じる価値がない」という言葉を読んで、ストンと腑に落ちました。
[2] イエスはご自身を「ダビデの子」とは名乗らず、「人の子」というもっとマイナーな呼称を使われましたが、「ダビデの子」という呼称はマタイでのキーワードとして、11回使われます。1:1「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」、9:27「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。」、12:23「群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」」、15:22「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。」、20:30「すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」、21:9「群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」」、21:15「ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、」、22:42「「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」…、45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」」。ただし、1:20(彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。)はイエスではなく、父ヨセフに宛てられた呼称。
[3] 勿論イエスは、触らなくても癒やせます。願いを聞いただけで、いいえ、願いを口にしなくても直せるお方です。ですから、イエスが「触れた」という行為には、特別な意味がいつもあります。「身体的接触」が控えられている今、この意味は、実感としてわかるものがあります。「さわる」マタイに8回。8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。14:36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」
[4] ただし、「目が見えない人は不便で不幸でかわいそう」というのは、健常者の決めつけで、差別ともなります。私自身、それを気づかされたのは、伊藤亜紗『目が見えない人は世界をどう見ているのか』、ヨシタケシンスケ『みえるとか みえないとか』などを通してです。
[5] 「あわれむ(エレオー)」は、マタイの中で動詞7回、名詞3回、形容詞2回。以下の通り。5:7「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」、9:13「『わたしが喜びとするのは真実の愛(欄外「あるいは「あわれみ」」)。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」」、27「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。」、36「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」、12:7「『わたしが喜びとするのは真実の愛(欄外「あるいは「あわれみ」」)。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。」、15:22「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。」、17:15「こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。」、18:33「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』」、20:30「すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。31群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」、23:23「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」。14:14(イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。)と20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。)の「あわれんで」は、別の動詞スプランクニゾマイ。
[6] 私たちの信じる通りになるのだとしたら、世界はメチャメチャになる。ただ、ここでは目の見えない人、「この人が目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか?」と言われるような人の、直りたい、見えるようになりたい、必ずならせてもらえる、という信仰を、イエスは「その通りになれ」と言って下さった。もっとも悲しむ人、最も弱い人の悲願、笑止とされるような信仰を、イエスは「その通りになる」と仰ったのだ。幼子の願いを、イエスは祝福され、喜ばれ、引き出されて、成就される。
[7] 「言い広めた」28:25(復活を弟子の盗みによると言い広めた)とここのみ。
[8] 26節ではすでに「この話はその地方全体に広まった」とあったのだ。そこに輪をかけて、イエスのうわさが広まる。
[9] 「きびしく命じる」エネブリマオマイ マタイでここのみ。新約でも四回だけ。このとき、彼らには分からなかったけれど、厳しく「だれにも知られないように」と仰ったのもイエスのあわれみなのだ。彼らが期待した以上に、イエスは二人を憐れみ、だれにも知られないように気をつけることで初めて分かる、なんらかの体験、イエスとの関係をさせようとしておられたのだ。それが何か、このときには分からなかった。けれど、イエスは私たちの誤解・早とちりを超えて、私たちを憐れみ、支えてくださるお方である。
[10] 「だれにも知られないように気をつけなさい」は8:4と酷似。しかし、あちらでは黙っていたらしいが、こちらでは厳しさをスルーして、言い広めることが起きる。
[11] パウロの祈り「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:18~19)
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