聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/8 マタイ伝22章34~40節「神と隣人と自分を愛する」

2021-08-07 12:48:19 | マタイの福音書講解
2021/8/8 マタイ伝22章34~40節「神と隣人と自分を愛する」

 イエスが十字架に掛けられる前、最後の一週間、「棕櫚の主日」から始まった受難週の記事が続いています。特にその火曜日がず~っと問答を続けています[1]。その最後の質問がこれで、次の41節ではイエスから彼らに問われる質問で締めくくります。そういう意味でも今日の質問と答は、人間の問いとイエスの答とを突き詰めた最もユニークなやりとりだと言えます。
36「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
 「律法」は聖書(旧約聖書)の最初の五巻のことで、聖書全体を指す時にも使われます。その律法には、613の命令があると言われていました[2]。その中でもどれが一番重要ですか。

37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。

 心、いのち、知性、その全てを尽くして、主を愛する。これがその他の戒めよりも大事な、神から人間に与えられた一番重要な戒めだとお答えになりました。このイエスの答は聖書の申命記6章4~5節の戒めです[3]。実はこの言葉は「聞け(シェマー)」と呼ばれて、イスラエル人が最も大事にしている最も大事な律法です。ですから、この答は想定内の模範解答だったでしょう。イエスのユニークさ、質問した律法の専門家が想定外で答に窮したのはこの続きです。

39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

 一番重要な戒めは?と、一つを選ぶよう質問したのに、イエスは第二の戒めも選ばれ、その二つを「同じように重要」と言われました。神を愛することが一番なのが当然と思っていた宗教家に対して、主を愛することと隣人を愛すること、それも自分自身のように愛すること。それが同じように重要なのだと言われた[4]。それがイエスの答です。この時の質問への答、というだけでなく、この二つが最も重要な戒めだとイエスは心から考えて、そのように生きられた。いつもこの二つのことを同じように大事にしながら生きておられ、そして、私たちにもそのように求められます。
 キリスト者は、神を愛し、隣人を自分のように愛することを、同じように大事にする[5]。それが出来ているわけではとてもないけれど、この二つの愛を、同じように最も重要と仰るイエスに導かれて、ここにいつも立ち返り、これを求めて生きるのです。

 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われますが、エペソ書5章29節は、
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。[6]

 「でも私は自分が嫌いです」という人は少なくないでしょう。だから、この「自分を愛する、自分を憎む」とは「好きか嫌いか」という感情ではないのです。私たちは自分を嫌いでも、その自分を養い、自分を守り大事にし、その時その時最善と思える行動を取ってあげています。それが「自分を愛する」ことです。
 その自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい。その隣人を好きになるとか、好きなフリをして親切にするとかよりも、自分と同じ、欠けも癖もあり、必要も願いもある存在、人格として大事にしなさい。また、自分を犠牲にして、でもありません。私たちが自分を愛する(大事にする)ことが隣人を愛する手がかりです。自分を大事にしているからこそ、隣人も大事にすることが出来るのです。
 そして、愛の使徒ヨハネによれば、

Ⅰヨハネ4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 目に見えない神を愛する事と、目に見える隣人を愛することとは深く結びついています。イエスは
「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」
――聖書のすべてがここに掛かっていると言います。「かかっている」とは扉と柱をつなぐ蝶番(ちょうつがい)のことだと説明されます[7]。神を愛し隣人を愛する。この二つで一つの戒めを軸に、神の言葉全体が動いている。宗教家やこの神を知らない人間は、神を愛するか人を愛するかと選ばせたり、神と人と自分、誰が一番の優先順位かと切り離したりしたがります。するとそれはバランスの問題になり、自分が蝶番のように動こうとしたりして、愛より道徳になってしまって、疲れてしまいます。
 その疲れてしまっている私たちを、イエスは招いてくださいました。そして、神を愛し、隣人を自分のように愛する。これが神の律法で一番大事な、この二つに聖書のすべてが掛かっているほどの、最も重要な戒めだと教えてくださいます。神が求めているのは、犠牲とか仕えられることではありません。こう求める神ご自身が、まず私たちを愛し、私たちに仕え、私たちに愛し合うこと、大事にし合うことを何よりも願われるのです。
 だからこそ、神への忠実を大義名分にして人を顧みない律法の専門家たちや、人も自分も大事にしない人間の罪に、イエスは立ち向かわれるのです。そして、まず神が、私たちを愛し(大事に思っていてくださり)、私たちも神と隣人と自分という大事な関わりの中に生かされていることへと立ち戻らせてくださるのです。イエス・キリストが、私たちを、この「愛する」道へと導いてくださいます。

 これを言ったためにイエスは十字架に掛けられました。そして、その十字架が、私たちに一番重要な律法を示しています。縦の杭と横の棒と両方あっての十字架です。縦の棒が無ければ横棒だけでは浮かべません。でも、縦の棒だけでも十字架にはなりません。縦と横、両方合っての十字架です。
神と隣人と自分、どれも欠かせず愛する。それが主の心の願いなのです。

「私たちを愛される主よ。あなたは愛である故に、何よりも私たちが愛することを願われます。どうぞそのあなたの大きな愛を受け取り、すべてを新しい目で見る愛の心を育てください。私たちの気持ちや心は貧しく無力ですが、あなたの深い恵みを、みことばを通し、聖霊によって知らせてください。痛みの多いこの世界で、目には見えませんが私たちを祝福したもうあなたと、目の前の隣人、そして自分自身を、日々かけがえのない命として受け止めさせてください」



脚注

[1] イエスを何とかして排除しよう、言葉の罠に掛けて失脚させようというのが34、35節の「パリサイ人」や祭司階級の「サドカイ人」、律法学者です。

[2] ユダヤ教のラビは、「~しなければならない」と命じられている律法が248、「~してはならない」と禁止されている律法が365、合計613の戒めがあるとし、それぞれの戒めに更に細かい規定を加えていきました。参照、https://bible-seisho.net/messagetext/20130922.html 

[3] 申命記6章4~5節「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい

[4] これは、福音書の並行記事だけでなく、新約において何度も繰り返される原則です。ヨハネ伝13章34-35節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」、ローマ書13章8~10節「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。9「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。10愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」、Ⅰコリント書13章、ガラテヤ書5章14節「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」、ヤコブ書2章8節「もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。」、他。

[5] 並行記事のルカ伝10章27節(すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。)は、「愛しなさい」が一度だけで、目的語が「神を、また隣人を」という文章です。「愛しなさい」の中に、神と隣人との両方を視野に入れています。そして、この後に「良きサマリヤ人」の譬え(隣人愛の問題)が挙げられるのです。「神を愛する」は当時、当然の重要な戒めでした。問題は、隣人愛との関係であり、その「隣人とは誰か」という定義だったのです。

マタイも、この週の説教の結びは、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのです」の結論。

[6] エペソ書5章は、夫と妻への戒めを語っている中で、この言葉を言っています。25~30節を引用すると「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。29いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。30私たちはキリストのからだの部分だからです。」

[7] 「かかっているクレマンニュミ」は、マタイではここ以外18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。)で使われている。「あるドイツのギリシア語学者が、たいへん立派な辞書を書きました中で、こういう説明をしました。この「かかっている」ということばは、ちょうど扉が蝶番いで掛かっている、ふたつか三つの蝶番いで柱にしっかりと掛かっている、そういうことを意味するのだという説明をいたしました。…律法全体と預言者、別の言葉で申しますと、私どもが旧約聖書と呼んでいる聖書の中に告げられている真理、神の真理に生きる生活はどこで成り立つかというと、このふたつの戒めにかかっている。そしてこのふたつの戒めにしっかりと結びつけられ、そこが外れないようになった時に、扉は実に自由に動くことができる。それと同じように、私どもの信仰者として、人間としての生活が生き生きと動くようになる。そう理解するのです。」加藤常昭『マタイによる福音書』、287頁

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