聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/29 マタイ伝24章15~22節「安全な逃げ道へ」

2021-08-28 12:26:36 | マタイの福音書講解
2021/8/29 マタイ伝24章15~22節「安全な逃げ道へ」[1]

 今日の箇所で、イエスが命じておられるのは「逃げなさい」です。それも、何も取りに帰らずに大至急「逃げなさい」。身重の女性や乳飲み子を持つ母たちは本当に逃げるのが大変だし、
20あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
 雨で道がぬかるむ冬や、歩く歩数を制限して門も閉められた安息日は、なおさら逃げるのが大変だから、とわざわざその日にならないように祈れと言われるような大変な日、逃げるべき日が来ると言われるのです。それがいつのことかと言えば、15節にこうあります。
15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら-読者はよく理解せよ-
 旧約聖書のダニエル書の9章27節に
「荒らすもの…忌まわしいもの」
という言葉が出て来ます[2]。これはダニエルの四百年程後、紀元前2世紀に成就しました[3]。イエスはこれを引いて、
「荒らす忌まわしいもの」
が聖なる所に立つ、と言われます。既に成就した言葉を引いて、将来への備えとさせました。ですから「いつの何の事か」以上のメッセージです。

 何より弟子たちは度肝を抜かれたでしょう。
1イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
 金と大理石で輝く神殿は当時の地中海世界でも有名な美しい建造物でした。その美観を指さす弟子たちにイエスは「荒らす忌まわしいもの」がここに再び踏み込む。この神殿の石も他の石と同様崩れる日が来る。「あの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら…山へ逃げなさい。」と言われる。これは「いつの預言か」より「それが起こる」事自体が聴く者の理解へのチャレンジです[4]。

 この言葉から四十年後、ローマ軍がエルサレムを包囲します[5]。ローマ軍を見ても、過激な原理主義たちは、民衆の脱出も許さずに、結果110万人が死に、六千の餓死者がいたそうです。最後まで「神である主は神殿で天からの助けを送られる」という偽預言に縋り[6]、その預言が外れても過ちを認めず、捕虜として捕まるぐらいなら死を選ぶ思想がありました。
 しかしキリスト者は、エルサレムの危険の兆しが見えた段階で東に逃げ、一人も死ななかったそうです[7]。彼らも神殿や律法を軽んじず、強く大事にするユダヤ人です[8]。しかしローマ軍を見た時、「神殿だから大丈夫、神さまがいるのだから守られる」とは思わず、すぐに逃げたのです。

 キリスト教は「逃げろ」という宗教だ、と言った方がいます[9]。「逃げることは恥ずかしい」という考えや、問題に向き合うのが怖くて「逃げちゃダメ」と言われることがあります。エルサレム陥落の時だけでなく、多くの戦争や虐殺で、危険が迫っているのに「きっと大丈夫だろう」とか、財産に執着して命を失ってしまう悲劇が歴史には山ほどあります。近年の災害で、大雨が降っても「大丈夫だろう」と思って避難しない、大地震でも津波は来ないと高を括ってしまって逃げ遅れる、「安全神話」「正常性バイアス」という言葉が知られてきました。不安だからこそ藁にも縋る思いで「何とかなる」と言い聞かせてしまう[10]。
 夏休みが終わる今、子どもが追い詰められてしまうことが多い今、「逃げるな」より「安全な逃げ場所」がある事の大事さが言われます。イエスは「逃げなさい」と言われます。神殿だって例外ではないし、学校や家庭、教会も、絶対安全という聖域はない[11]。危なくなったら逃げて良い。大事な物にも背を向けて、何も持たなくて良いから、安全な場所に逃げなさいと、イエスは言ってくださるのです。

Ⅰコリント書10:31あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 「耐えられない試練はないから逃げずに我慢せよ」ではなく、
「脱出の道も備えている」
なのです。
 また「わたしの元に逃れよ」と、宗教的な解決でも済ませません[12]。「山に逃げなさい」と明確・具体的です。闇雲に逃げたり、助けにならない逃避に走ったりする事は危険です。安全な逃げ道であることが大事です。逃げる日が少しでも楽になるように、短くなるように祈れとは言われますが、祈っていれば禍が来ないとは言われません[13]。ですから、「大丈夫」という言葉に逃げず、安全な逃げ道に飛び込んだり、対策を取ったりすべき時がある事実と、そこにも主の配慮を求めるなら応えてくださるという約束。その両方を私たちは戴いています。

 このような「苦難」は弟子たちが先走って考えた「世の終わり」とは限らず、70年にも私たちの日常であり得ることです[14]。安全なはずの「聖域」も安全でなくなる。その時は逃げていい[15]。だから他の人にも「逃げてはいけない」より「逃げていいよ」「逃げるのもありだよ」と言い、具体的な脱出方法を一緒に考えたり、時には自分を逃げ場所に提供したり出来る。そして、そのような私たちを促して、ともにいて、守ってくださるキリストを信頼するのです。

14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。15それゆえ、…
 こう言われての今日の言葉です。福音は全世界に宣べ伝えられる。誰かが自分の命を大事にして、「安全神話」より本当に安全な場を求めて、逃げる自由をもいただいて生きる時、福音はその逃げ場所に伝えられます。主がともに逃げてくださって、新しい場所で福音を伝えさせてくださいます[16]。主は、どこからでも「逃れの道」を創り出して私たちを守り、新しいことを始めてくださるお方、そうして、世界の隅々にまで福音を宣べ伝えられるお方です。

「主よ、あなたは私たちの命を尊び、立ちすくむ私たちに「逃げよ」と言ってくださる神、私たちとともに逃げてくださるお方です。留まるべき時には勇気を、逃げるべき時には知恵を、与えてください。あなたが脱出の道を備えてくださっているなら、躊躇わずに逃げることが出来ますように。判断に迷う、難しいことの多い今の状況で、主よ、私たちが命を選べるよう、命を祝えるよう、助けてください。そうした歩みをも、あなたの福音の証しとしてください」



脚注

[1] 7月の「海外宣教週間」に24章1~14節をお話ししたので、その続きからお話しします。

[2] ダニエル書9章27節(彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。)、11章31節(彼の軍隊は立ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。)、12章11節(常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千二百九十日がある。」

[3] シリアの王アンティオコスがエルサレム神殿に入り込んで、エルサレム神殿にゼウスの祭壇を立てるという、ユダヤ人にとっては許しがたい出来事がありました。その後、シリアに対する抵抗運動(マカバイ戦争)が行われ、2年掛けて神殿を取り戻します。それが毎年祝われる「宮きよめ」の祭りとなりました。参照、ヨハネ伝10章22節「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。」

[4] 23章まで宮の中では、その権威者たちとイエスの緊張した対話がなされて、「わざわいだ」という言葉が繰り返されたばかりなのに、なお弟子たちは、その宮の立派さを疑わずにいました。直前の23章38節でも「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」と言われていました。

[5] 紀元70年、過激化するユダヤを制圧するため、ローマ軍はエルサレムを囲み、兵糧攻めで五ヶ月後に、神殿も城壁も破壊されました。「読者は良く理解せよ」とあるのは、マタイの福音書を書いた時、こういう遠回しな言い方が必要なくらい、既に緊張が高まっていたから、とも思われます。

[6] フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』第六巻第五章2節。

[7] エウセビオス『キリスト教史』第三巻第五章2節。

[8] 参照、『使徒の働き』21章20節以下など。

[9] マタイ伝2:13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。)、3:7(ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。)、8:33(飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。)、10:23(一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。)、23:33(蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。)、24:16、26:56(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)

[10] 「教会に来ていれば、疫病にかからないのではないか、津波が来ても助かるのでは、戦争が起きても生き延びられるのでは、暴力が起きても通り過ぎてくれるはずだ」と思いたいでしょう。

[11] 21節(そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。)は、世の終わりにこそ相応しいように思うかもしれません。しかし「今後」はあるのですから、それが世の終わりではないはずです。これは、ダニエル書12章1節(その時、あなたの国の人々を守る大いなる君 ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。)と重なります。ダニエルの預言と、イエスの神殿破壊の預言と、終末まで繰り返される苦難の大きさを繰り返して、「今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな」と評しているのでしょう。そもそも苦難を比較することは、客観的には出来ず、あくまでも主観的なことです。紀元70年のエルサレム陥落と、20世紀のホロコースト、ヒロシマ・ナガサキの原爆、いいえ、一人のイジメでさえ、本人にとっては計り知れない苦痛であり得るのです。「苦難」は9、29、13章21節と同じ言葉です。

[12] 創世記18章では、ロト家族も「主の御使いに縋れば、ソドムからは逃げなくて助かるのではないか」と考えました。しかしそれを御使いは窘め、引っ張って町から外に出されたのです。

[13] 22節「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」

[14] 出エジプト、パウロのエルサレムでの暗殺計画への対応、イエスも逃げたこと。聖書のテーマは「逃げる」だとも言えます。

[15] 不登校、引きこもり、ハラスメント、カルト、DVなどで、しばしば行われる間違ったアドバイスは「がんばって続けるべきだ。逃げてはいけない」です。それで乗り越える方もいれば、潰れてしまうケースも多くあります。現代では、不登校や保育室登校をます容認することから、自立への長い支援をするようになっていることは、教会の「根性論」を冷静に見つめさせてくれるでしょう。「教会で教えるべきことの第一は、ハラスメントや暴力に対して逃げること」と言われる方もいます。

[16] 今コロナ禍で、どうすればいいかを悩む時も、「教会だから大丈夫」とも「もうダメだ」のどちらの極端にも簡単に走らず、まず一人一人の安全や安心を求めています。これも、私たちにとって、神がどんなお方であるかの再確認です。

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