聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」

2021-05-15 00:03:46 | マタイの福音書講解
2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」[1]

 エルサレムに向かうイエスの所に、一人の人が近づいて来ました。20節は「青年」と言い、多くの財産を持っていたとも22節に言われます。マジメに律法を守ってきたと言い切れる。それでも、まだ何か足りない。若さも真面目さも財産も、満たしてはくれない思いの中で、
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
と聞いたのです。永遠のいのち、「天の御国に入る」[2]「救い」[3]と言われるのは、今ここで、永遠の価値に生かされること、天にいます永遠なる神の御支配に生かされることです[4]。この青年は、そういう神からの生き生きとしたいのちを求めて、イエスに尋ねて来たのです。
17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
 青年の質問は「どんな良いことをすれば」でしたが、イエスは「良い方はおひとりです」と神を思い起こさせます。私が何をするかでなく、良いお方(神)に目を向けるよう言います。神が何を仰っているかが大事なのです。これにも、
18彼は「どの戒めですか」と言った。
 神のどの戒めを自分が守ればいいのでしょうか、と神は見えていません。これに答えてイエスが挙げる戒め、
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19父と母を敬え。…」[5]。
 十戒の、人に対する五つの戒めと、その要約である
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
です。これが、神が示されたいのちの道です。「これらを守れば永遠のいのちを得られる」という手段ではありません。「永遠のいのちを得るために愛する、戒めを守る」は、神の御心とは違います。でも、この青年は言うのです。
20…「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」」
 律法を守っている、と言うのは当時のユダヤ教の理解では特に思い上がった事ではなかったようです[6]。それでも、彼はまだ満たされない。目的が手段にすり替わっているからです。
21イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。…
 欠けの満たし方でなく、全部手放しなさい。戒めを守っているという誇りも、多くの財産も、却って邪魔をしている。「良いことをしなければ」とか「私は守ってきました」と胸を張る、立派な信仰者を目指す、神を誤解した生き方を捨てなさい。財産は貧しい人たちのために使い切って、
「そのうえで、わたしに従って来なさい」。
 イエスは青年をそう招かれました。最も大事なのは、「私が良いことをする」以前に、「良いお方」である神とともに生きることです。イエスに従うとは、イエスに出会い、イエスの言葉に生きる事で、神とともに歩むことです。それこそが、いのちなのです。しかし、
22…このことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
 そしてこれに続いてイエスが仰ったのが今日の説教題にもした有名な、途方もない言葉です。
24…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
 この出来事の前、13~15節でイエスは小さなこどもたちを迎えて、
「天の御国はこのような者たちのものなのです」
と仰いました。小さな幼児、何も持たない、何も神に対して誇るものがない、そうした人こそ、神の一方的な恵みを手放しで戴くことが出来ます[7]。でも、金持ちや真面目な人、正しさを自負できる人は、それが出来ない。神の国の門は狭くても、何も持たない人や子どもは楽々入れるのに、あれもこれも捨てられずに却って、入れない[8]。それは本当に難しいので、駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうが易しい、と仰いました。
 これを聞いて弟子たちは
「たいへん驚き」
ます[9]。その驚く彼らをイエスは
「じっと見つめ」
ます[10]。
「それではだれが救われるだろう」
とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスが、こう仰るのです。
26…「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
 幼子のようにただ主の恵みを戴けばいいのに、隣人を自分のように愛せたら本当に楽なのに、物を握りしめず減らして使ってもらえば幸せになるのに、出来ない。「捨てなさい、手放すべきだ」と言われても、難しい。でもそれで立ち去ったら終わり、ということなら絶望です[11]。人には出来ない。だからこそ、神がしてくださるのです。人には悲しみでも、そこからこそ、神が私たちの神であり、私たちをじっと見つめ、救ってくださる希望が始まります。

 神は、神の国の狭い門の奥で、良い行いをした人やすべてを捨てた人だけを迎え入れようと待っている神かと思ったら、なんと天から飛び出して、貧しい人間となり、子どもを祝福し、良いことをしたなんて言えない者のそばに来てくださいました。神が人となる。それよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいことです。イエスは、それをしてくださいました。いいえ、それを惜しみなくするのが、神であり、それこそが神の国の治め方なのだと言われたのです[12]。

 私たちには神の国の生き方を選ぶことは出来ません。ただ神が、私たちのうちに働いて、私たちの小さな貧しい心に入ってくださって、神の国に入れてくださるのです。主は、私たちに良い行いを望むより、ご自身が良い方であることを私たちに知って、信頼して、喜んでほしいのです。そして、その喜びが溢れて、隣人を自分のように愛し、持っているもの全て惜しまずに捧げるような生き方を、私たち自身を委ねる心を育ててくださるのです[13]。そう、大事なのは、私たちには出来ないことを神がして下さること、私たちのために駱駝が針の穴を通る以上の事をしてくださった神がおられること、その神が今も私たちの神、永遠の王であることです。

「主よ、人には出来ないことを、あなたがしてくださいます。だから私たちは希望を持てます。そのあなたを小さく考え、自分を誇り、人をも心で踏みにじる罪を、どうぞ砕いてください。良い人でなければと心を閉ざす生き方に触れてくださって、弱さも罪も認めて悲しませてください。痛みの多い私たちの歩みの中に、あなたが働いて、私たちには出来ないことをしてください。何より私たちが手も心も開いて、あなたの恵みの業のために捧げさせてください。」

脚注

[1] 参考説教として、吉田隆牧師の「針の穴を通るラクダ」をオススメします。https://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=516

[2] 23節。

[3] 25節。

[4] 今の人生が死で終わっても、その先がある、死を超えた場所があることも大事ですが、それ以上に今ここで既に、神の国の民、永遠に朽ちない尊さに生かされる。それが永遠のいのちです。

[5] 十戒の後半の四つの戒めと、真ん中の第五の戒めに戻り、それから十戒にはないけれど、律法の要約と言える「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。

[6] 使徒パウロも、「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ書3章6節)と現在形で語るほどです。

[7] 他の人とも、競争したり踏みつけたりせず、ともに生きることが出来ます。持っている財産を貧しい人に与えるというのも、イエスが願ったのは善行と言うより、貧しい人との出会いです。イエスはその最初の説教の切り出しを「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5章3節)と語られたのです。何も持てない人が、神の国の民とされる幸いを戴いている。それが、イエスの語る神の国です。

[8] 子どものようになる、と言われた。子どもは、自分の好きなことのためなら、全部投げ出す。針の穴を通るような狭いところにも、行きたければ入って行く。努力して、ではなく、すべてを捨てて。

[9] 当時の考えでは、金持ちは、その正しさの故に、神が財産を祝福して下さった人だと思われていました。

[10] マルコやルカではイエスが去って行く青年を見ています。マルコの福音書10章21節(イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」)、ルカの福音書18章24節(イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。) しかしマタイは、青年よりもむしろ弟子たちを見つめ、語るイエスを描きます。「それではだれが救われるだろう」とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスです。

[11] この青年も悲しみながら去ったのは残念なことでしょうか。イエスの言葉は、神がこの青年に働いてくださったという希望を響かせます。そもそも、これまで「良い行いをしなければ」と胸を張らなければと思っていた彼が、イエスの言葉を聞いて、悲しめた事、自分の心の痛みに触れられた事、心を注ぐことが出来たのは、むしろ主が私たちの心をも開いて、悲しませてくださる出来事とも重ならないでしょうか。

[12] 惜しみ無さこそ、神の完全さ。何にも執着せず、誇らず、手放して、自分を相手に与えてしまう。それこそ、神の聖なる完全さ。そこに私たちも似ていく。招かれていく。神がそうしてくださる。得るよりも手放す。惜しむよりも受け取る。それが、神の国の生き方であり、将来の話ではなく、今ここで始まっていることなのだ。

[13] 今ここで、すべてを捨てること、すべてを主に委ねて、自分さえ明け渡しながら生き始めるのでなければ、神の国に向かうことさえ出来ない。

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