聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/9/5 マタイ伝24章23~31節「稲妻のようにハッキリと」

2021-09-04 11:53:34 | マタイの福音書講解
2021/9/5 マタイ伝24章23~31節「稲妻のようにハッキリと」

 毎週礼拝で唱和する使徒信条は、キリスト教会の最も古い信仰告白文です[1]。その中で、イエス・キリストが
「父なる神の右に座…より来たりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」
と信ず、というように、キリストはもう一度この世界に来られて、世界を正しく裁かれます。それが、いつか、もうすぐだ、と煽る出来事には、一切耳を貸す必要はありません。
23そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。24偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。

 「大きな苦難」があると「もう世の終わりじゃないか、どうやらキリストが来られたらしいぞ、その証拠にこんな不思議が起こっている。これは世の終わり、キリストが来られたしるしとしか思えない…」。そんな言葉がまことしやかに飛び交っても、信じてはいけないと仰って、
25いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
と、念を押されるのです。

 この後、紀元70年のエルサレム陥落でも中世でも、千年の節目や宗教改革の急進派でも「再臨のメシア」を名乗り大勢の人が付き従う運動が起きました。日本でも自称「再臨のイエス」を中心にする団体はいくつも思い浮かびます[2]。だからイエスは念を押して言われるのです。「キリストがもうおいでになった」と言われたら、それ自体が、「ああ、イエスが仰っていたのはこれだ。これこそ偽者の証拠だ」と思ってよいのです。

27人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。

 私は雷ウォッチャーなので、稲妻が東から西まで届くなんて、見たことも無いほどスゴい稲妻なのか、いや、東で光った稲妻で西の空も明るくなることなのか、なんて点が気になります。大抵の方が雷は嫌いでしょうが、雷は光と電気と音のこと、稲光は光だけのことです。ここではキリストの再臨は雷みたいに怖い、ではなく、稲妻が空をハッキリ照らすようにキリストが来たら明らかに分かる、というのです[3]。誰から教えられるまでもなく、わざわざ会いに行かなければ取り残されることもない。稲妻が空を照らするように、イエスが来られたらハッキリ分かる。だから「ここにキリストがいる。あそこにいる」と言われても信じなくて良いのです。
28死体のあるところには、禿鷹が集まります。
 「ここにキリストが」とか、大きなしるしや不思議に大勢の人が惑わされて雪崩打っても、「知らない人が集まっているだけ、死体には禿鷹が群がるものだ」と思えばいいのですね[4]。

29そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり[5]、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。[6]
 キリストがおいでになるのが稲妻のようにハッキリ分かる、ということが言い換えられます。
30そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ[7]、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
 「しるし」は「旗・軍旗」という使われ方がされた言葉だそうです。人の子の「旗印」が掲げられる。ここには「人の子[8]」を初め、旧約聖書に出てくる言い回しが沢山あります。特に「旗印」と「ラッパ(角笛)[9]」は「神の民がすべて集められる」という約束とセットでした[10]。そう、太陽も月も星も暗くなる中、キリストの旗印が現れて、その民を集めてくださるのです。
31人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
 稲妻が天を東から西まで照らすのは、全地の人々を竦(すく)み上がらせるためではありません。東西南北の果て、天の四方、世界の隅々までご自分の民を集めるためです[11]。世界の片隅の人も見落とされないし、「知らなかったから取り残される人」などおらず、集めてくださるのです。それが
「人の子のしるしが天に現れる」
ということです。
 だから今ここでどんな天変地異や世界がひっくり返るような出来事が起きても、「どうしてこんな事が。何か神の警告なんじゃ」と慌てて、ますます不安にならなくてよいのです。大きなしるしや不思議を見せられても、説明できなくても良いのです[12]。「もしこれが本当だったら、これを信じなかったら救われないんじゃないだろうか」などという不安とは、主イエスというお方は正反対です。

25いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
 本当にこの言葉を心に留めましょう。この時から二千年、何度も何度も、争いや病気や災害や人災が起き、そのたびに絶望に襲われ、聖書の言葉さえ用いて、不安に拍車を掛けることが起きて来ました。主はそうした私たちの悲しみをご存じです。その不安につけ込んで自分の方に引きずり込もうとする宗教とは違い、ともに悲しみ、ご自身の悲しみとされるお方です[13]。いや、たとえ私たちが言葉巧みな詐欺に引っかかって大きく道を外れてしまっても、イエスは世界の果てから私たちを集めてくださるお方です。そこまで信頼することが出来るのです。

 イエスは本当に憐れみ深く、信頼するに足るお方。私たちはその方が来られ、私たちを集めてくださることを待ち望んでいます。そして「主が来られる」と信じるからこそ、どんな不思議や恐れの中でも、世の終わりだとかさばきだという言葉で悩まなくてよいのです。どんな時も、急ごしらえで主に会う備えに力を使うよりも、祈りつつ、礼拝しつつ、その心が騒ぐ現実に対応すれば良い。「なぜこんな事が起きたか」より「今何をすることが主にならう事か」を考えればいい。これは本当に深い幸いです。主の助けと憐れみを祈りつつ、力と愛と知恵を戴きながら、今そこで出来ることをさせていただく。そういうキリスト者の姿勢によって、主はこの世界を照らされます。まやかしに走りかける人たちを守り、助けさせてくださるのです[14]。

「主よ、あなたが偉大な力と栄光とともに来られる日に、今日も1日を積み重ねています。不安に疲れ、暗くなる心に、あなたの光が今も閃きますように。あなたの良き御力と、確かで計り知れない約束を覚えさせてください。疑いや不安を駆り立てる惑わしからお救いください。私たち自身の思いや言葉も整えて、あなたへの信頼と感謝に根ざすものとなりますように。また、あなたの深い悲しみ、あわれみが、今私たちの心となり、生き方となりますように」

[1] 「使徒信条」はローマの教会で2世紀に使用されていたもので、西方教会では最も古いものです。その後、4世紀に、東方教会と西方教会との総会議において「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」がまとめられました。これが全キリスト教会全体に共有されている信仰告白文ですが、それより短い使徒信条を用いている教会も、プロテスタント教会には少なくないようです。

[2] 「イエスの方舟」や、オウム真理教、「幸福の科学」など。

[3] 「黒い雲が広がった真っ暗な空を見ていると、一瞬空が明るくなり、その後に「ゴロゴロ」と大きな音を立てて雷が光るのを確認できます。まさに、その「ゴロゴロ」と雷鳴を轟かせながら放電する自然現象のことを「雷」と呼びます。一方、雷が地面に向かって落ちる際の光の筋が「稲妻」です。稲妻はあくまでも「光」自体を指し、音を伴わないのが特徴です。」雷と稲妻の違い

[4] 勿論、そういう偽キリストが現れた事自体が「終末のしるし」でもありません。

[5] 29節「太陽は暗くなり」イザヤ13:10(天の星、天のオリオン座はその光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。)、24:23(月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。)、エゼキエル32:7(あなたが吹き消されるとき、わたしは空をおおい、星を暗くする。太陽を雲でおおい、月が光を放たないようにする。8わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地を闇でおおう。──神である主のことば──)、ヨエル2:10(地はその前で震え、天も揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。)、2:31(主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。)、3:15(太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。)、アモス5:20(主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。)、8:9(その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。)、ゼパニヤ1:15(その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、16角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。)

[6] 「星は天から落ち」 イザヤ34:4(天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。)

[7] 「胸をたたいて悲しみ」コプトー 11:17(『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』)、21:8(すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。)とここ。マタイでは三回。黙示録1:7、18:9。また、この語は、預言書を背景にしています。ゼカリヤ12:10-14「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。11その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。12この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く14残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」「地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ」キリスト者は嘆きを免れるのでしょうか? いや、私たちも神を人の子を見て、その悲しみに、胸を引き裂かれる思いをするのではないでしょうか。心を麻痺させて閉じて、悲しみや痛みを避けてきたことを、深く取り扱われて、嘆く心を取り戻すのでも無いでしょうか。その方が来られる時、地のすべての部族は「胸を叩いて悲しむ」のです。恐怖とか後悔とかでなく、深く悲しむ心を呼び覚まされる。イエスがどんなにこの世界の痛みを嘆いておられたか、世界の隅々の破れをご自身に担ってくださっていたかを知る時、まず私たちキリスト者こそ、胸を叩いて悲しみたいと思うのです。

[8] ダニエル書7章13節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」

[9] 「人の子は大きなラッパの響きとともに」エレミヤ32:37(「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。)、イザヤ27:13(その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われていた者や、エジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。)、エゼキエル36:24(主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。)。27節 ゼカリヤ9:14「主は彼らの上に現れ、その矢は稲妻のように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。」

[10] 「しるし」は、イエスが来る前のしるしというより、イエスが来られて、ラッパ(角笛)の音とともにすべてのご自身の民を集める、というしるし。D. A. Carson, Matthew (The Expositor’s Bible Commentary), p910/1072。そこで引用されている聖書箇所は、以下の通りです。イザヤ11章12節(主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。)、18章3節(世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗が揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。)、27章13節(その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリアの地にいる失われていた者や、エジプトの地に追いやられた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で主を礼拝する。)、49章22節(「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。)、エレミヤ書4章21節(いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。)、6章1節(ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。)、51章27節(この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。)

[11] 「天の果てから果てまで四方から」 四つの風から、天の一方の端から他方まで。東から西と似ている。主イエスが稲妻のように現れる、という以上に、選んだ民を東から西まで、集めてくださる。エゼキエル書37章9節(そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」)、ダニエル書8章8節(この雄やぎは非常に高ぶったが、強くなったときにその大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、際立った四本の角が生え出て来た。)、11章4節(しかし彼が起こったとき、その国は崩壊し、天の四方に向けて分割される。その国は彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなくなる。彼の国は根こそぎにされ、その子孫以外の者のものとなる。)

[12] ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器 なぜ人は動かされるのか』でも第7章「希少性 わずかなものについての法則」で述べられるように、人間は「こっそり教える」に弱いのです。

[13] イザヤ書53章3節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

[14] 私たちが「選ばれた者」であるのは、他の人が「捨てられた」という結論に一足飛びにはいきません。聖書の契約によれば、神の「選び」は、その人々を通して世界が祝福されるためです。

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