聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/21 マタイ伝7章21~29節「岩の上に家を建てたよう」

2020-06-20 14:58:40 | マタイの福音書講解
2020/6/21 マタイ伝7章21~29節「岩の上に家を建てたよう」

 「山上の説教」が終わり、群衆の反応は
「その教えに驚いた」
 腰を抜かすほどの強い驚きでした。それは、イエスが権威ある者として教えられたからです。律法学者も権威はあって、律法を教えていました。非常に真面目に、神の言葉への恐れをもって語っていた人も少なくなかったはずです。しかし、それとは全く違う権威がイエスにはありました。私たちも、山上の説教を読むとき、そのイエスの権威への驚きを今日も新たにしたいのです。
 この結びの所でも驚かされるのは、
「天の御国に入る者」
とは、
「主よ、主よ」
と熱心に言い、
「私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか」
と誇れる人ではない、という言葉です。勿論、そういう業がダメだ、というのでなく、熱心さや働きの多さは、天の父の御心の本質ではない。天の父の御心は、私たちが何かをしたから子どもにしてやろう、熱心だから必要を満たして上げよう、真面目に生きたから御国に入れて上げよう、ということではなく、ただ神の一方的な憐れみのゆえに、私たちの天の父となってくださること、そして、その恵みを受けた者として、私たちも応答し、感謝に溢れて、互いに心から愛し合うこと。それが、ここまでの「山上の説教」で様々な角度から繰り返されてきた、神の国の道でした。ですから、
24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。…26わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。」
とあるのも、「聞くだけで実行しなければダメだ」というよりも、肝心のその「御言葉」を聞いているかどうかです。22節の大勢も、実行は十分にあったのですが、していたのは、イエスの言葉とは違う働きでした。大事なのは神の恵みです。イエスが語られていたのは、父なる神の大きな恵みへの信頼です。その言葉に耳を傾けるなら、驚かずにはおれず、更にイエスが仰った応答を、静かに深くしながら変えられて行かないはずがありません。他者との関係も、自慢や比較から解放されて、恵みの光の中で見るよう新しくされるのです。そのような主の愛を求めて生きる生き方が、ここで
「岩の上に自分の家を建てた賢い人」
に譬えられています。
「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」
こと。イエスが語る天の父への信頼、隠し事もなく、自慢や頑張りを手放して、人も自分も裁かない生き方…、それは確かに
「狭い門から」
入り
「細い道」
を通る歩みですが、何よりイエスがともにいてくださる道で、共に歩む兄弟姉妹もいます。主に聞き従い、恵みを受け取り、分かち合う歩み。それは
「岩の上に家を建てた人のようだ」
と言われる、確かさがあるのです[1]。主に耳を傾け、主の言葉に地道に従って、主の恵みに生きるなら、意外なことに嵐でも倒されない礎を持つ。それは、イエスの言葉が、権威あるイエスご自身の約束だからです。イエスが私たちを神の子どもとして結びつけてくださる。そこに御言葉は、私たちの生き方を結びつけてくれるのです。この御言葉に静かに耳を傾け、信頼をすることはそれほど命がある。そんな大胆な宣言を仰ったのです。[2]

 イエスは16章で、ペテロが
「あなたこそ生ける神の子キリストです」
と告白した時に、
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」[3]
と仰いました。イエスが生ける神の子キリストである事実こそ「揺るがない岩」です[4]。イエスを神の子キリスト、私たちの主と告白して、その約束に聴き、生き方も変えて頂く時、揺るがない土台を持ったのです[5]。
 とはいえ、こう告白したペテロはとても気位が高い弟子でした。
「私たちはすべてを捨ててあなたに従って来ました。」
と胸を張り[6]、今日の22節の「大勢」と同じく、自分のしたことや信仰を誇っていたのです。その末に、イエスが逮捕された時に、ペテロの信仰はひどい倒れ方をしました。では、そのペテロをイエスは叱ったのでしょうか。お前は知らない、わたしから離れていけ、と切り捨てたでしょうか。いいえ
「知らない」
と言われたのは、イエスでした。十字架は、権威ある方イエスが、借り物の権威しかない律法学者達に偽メシアとして殺された事です。父なる神にも見捨てられた最期です。そしてペテロから、三度知らないと言われたのです。その事もイエスは先に見通しておいででした。自分を知らないと言われることもイエスは引き受けて、そのペテロのために、命を捨てて十字架にかかってくださったのです。そして三日目に復活したイエスは、ひどい倒れ方をした弟子たちに近づき、もう一度立ち上がらせて、世界へと派遣された。今も同じです。私たちの勘違いとか、嵐に耐えられずに倒れ、主を知らないと呪おうとも、主イエスは私たちを立たせてくださるのです[7]。
 この主の言葉に聴き、育てられ、自分を育てましょう。今ここで、主の恵みの言葉に聴いて、自分の誇りに頼らず、誇る自分を笑いながら歩めるのです。禍に襲われて、人の目には倒れたと見えても、必ず主イエスは私を支えて、立ち上がらせてくださいます。そう約束されたのです。今も、主は常識を引っ繰り返すような恵みで、私たちを深く守り、支えてくださるのです。

「主イエス様。あなたの恵みの言葉によって、終わりの日にも揺るがない確かさを贈って下さり感謝します。あなたの言葉で、私たちの隠れた思い上がりや卑しさを押し流してください。岩を掘るのではなくとも、自分の心の奥深くに、あなたとともに下りて行き、心の奥を恵みに潤される幸いを与えてください[8]。私たちの生活に、あなたの驚くべき御業を現してください」

イエスは岩 ・・・ Jesus is Rock!

脚注:

[1] 決して「死に物狂いでやっと通れる困難な旅」ではありません。貧しい者は天の御国が与えられる、と言われる、身一つであれば通れる道です。多くを手放しながら歩む、細い道なのです。
[2] 以前、教会の中に聖書紙芝居で、この「愚かな人と賢い人」の話を絵にしていたものがありました。とてもよく覚えている、可愛らしいイラストのお話しでした。しかし、ある時気づいたが、この話とその紙芝居は大きく違う、ということです。その話では、大変な肉体労働で家の土台を据えるのです。それも、岩の上にではなく、岩に鶴嘴(つるはし)で穴を掘るという、途方もなく大変な作業を必死にしているのです。そして、そういう生き方をすれば、洪水が押し寄せても大丈夫、というお話しで、皆さんも頑張って御言葉に従っていきましょうと閉じるのです。イエスの譬えはそれとは違います。興味のある方は、こちらから朗読したものがご覧になれます。https://i.ytimg.com/vi/JBLb83bsfpc/hqdefault.jpg 
[3] 16:15~19「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
[4] Ⅰコリント3:10~15「 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。11だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。12だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、13それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。14だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。15だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」
[5] そんなことをイエスは言われたから人々は驚いたのです。さりげなくハッキリと、イエスはご自分の御言葉の権威を宣言されました。律法学者が、聖書の権威を高々と掲げて語ったのだとすれば、イエスはその権威を肩に担いで、人の中に降りて来られ、自由自在にお語りになりました。イエスへの私たちの貧しい信頼が、岩の上に家を建てるような堅固さだと宣言されました。イエスのために何かをするのではなく、イエスが恵みによって作ってくださる生き生きとした交わりの中に生きる道を示して招いてくださったのです。そして「山上の説教」の後も、イエスは更に御言葉を語り続け、群衆を癒やし、驚くことを続けます。
[6] マタイ19:27「そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
[7] ローマ14:4「しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」
[8] 地面に深く穴を掘る。努力が求められている、というのではなく、御心を行うことを指している。しかしそれは、一面、自分の心の奥深くに下りて行く作業だとも言える。何か周りを堅牢に高くすることで、安心しようとするのではなく、自分の心の奥深いところに、主の恵みを置く。見えない所に、神を迎え続ける。心の一番奥に、主イエスを迎え入れ続ける。隠している自分、誇っている自分、焦って、絶望して、諦めて、信じ切れないでいる自分を、神は父となりわが子として抱きしめて下さっているのだと、自分の中で確かめ続ける。静まり、手を開く。
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