聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

2022-03-12 13:02:36 | マタイの福音書講解
2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

1.キリストの復活、私たちの復活

 マタイの福音書の最後、28章に辿り着きました。主イエスのよみがえりが告げられます。十字架に架けられたイエス・キリストが三日目に甦った。マタイだけでなく新約聖書の福音書四巻が揃って、最後に伝えるのはキリストの十字架の死と復活です。本当にキリストが肉体を取って復活された驚きが福音です。ここでも女たちは、出会ったイエスの足を抱いて触っています。ルカの福音書でもヨハネでも「魚を食べた」と、二度も書かれています[1]。本当にイエスは、死んで三日目、週の初めの日に甦られた。そこで日曜を主の日と呼んで、礼拝のために集まり始めました。その結果、今ではこの日本でも日曜日がお休みの日となっているのです。

 ただし教会の告白は、イエスが本当に甦られたという以上のとんでもない告白です。イエスの復活は、私たちの復活の初穂です。イエスの復活は、私たちも死で終わりではなく、後の日に目覚めてからだを与えられることの始まりなのだと信じることです[2]。それは人間の理解や想像を超えたことですが、私たちは将来の自分たちの復活を信じる。だからこそ、今この体での私たちの営み、この世界のすべてが神の前に意味あるもの、無駄ではないことを信じて、大切に生きることが出来る。それこそ、キリストがこの世界に来られて、人となり、その死後ももう一度、からだをもってよみがえられたことが保証している奇蹟です。イエスの復活だけを信じるかどうか、ではないのです。神が私たちをも復活させると言われることを信じるのです。

2. ガリラヤに行く

 この朝、二人のマリアが墓を見に行きました。復活を期待してではありませんでしたが、大きな地震が起きます。主の使いが天から降りて来て、墓に封をしていた石を転がしたのです。その姿は輝いて、番兵たちは震え上がりました。そうして御使いが女たちに語りかけるのです。

5…「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。6ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。7そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」

 イエスは、ご自分の復活を前から言っておられましたが、そこにはこの「ガリラヤに行く」の予告もありました。弟子たちの故郷、最初にイエスと会った場所、エルサレムから見ると辺境、ド田舎の蔑まれた地でもありますが、そこに先に行くとも予告されていました。

二六32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 ここでその言葉を御使いは繰り返して、ガリラヤであなたがたと会うため待っているイエスを伝えるのです。イエスの復活は、神秘的で私たちには手の届かないことではなく、反対に、イエスはよみがえって弟子たちの先に待ち構えて、会ってくださる主です。その知らせに、

8彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

 ところが、ガリラヤで会うのを待ちきれないかのように、女たちの前にイエスが現れます。御使いの言葉にはなかった行動を、イエスがなさるのです。

9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。

 ここには「見る、会う、近寄る」と出会いの言葉が様々に出て来ますが、この「現れる」は「迎える」という、少し堅苦しい言葉です。イエスは女たちを待ち迎えてくださった。ここにも復活のイエスが、私たちにとって遠い存在ではなく、私たちと会いたい、私たちとの出会いを喜ばれ、そして私たちにもよみがえりを必ず与えて下さる方であることが豊かに現されています。ここでもイエスは御使いが伝えた伝言を繰り返されます。ガリラヤに行って、そこでわたしに会えます、と。イエスは「会いに来る神」です。そして「喜び」を下さるお方です。

3. 「喜びがあるように」

 9節の「おはよう」は欄外に「別訳「喜びがあるように」」とあります。彼女たちの目に焼き付いていたのは、十字架に架けられて無残に死に、亜麻布に包(くる)まれたイエスだったでしょう。再び出会ったイエスは、あの痛々しさなどはなく「喜び」を仰るのです。「おはよう、こんばんは、万歳」などとも訳せる挨拶の言葉ですが[3]、社交辞令や皮肉ではなく、イエスは本心から「喜びなさい」と仰ったでしょうし、イエスご自身、喜びに溢れていたからの言葉だったはずです。弟子たちの先にガリラヤで会おうと約束され、女たちに会うのが待ちきれずに現れて、そうして、弟子たちの無理解や頑なさを責めるより、喜びや再会を告げられるのです。

 1章で御使いは

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」

と言いました。イエスの十字架は、罪の赦しのためにイエスの血が流されたささげ物でした。そのイエスが十字架の死から復活して、弟子たちに近づいてくださいます。罪からの救いのため、ご自身の血を流された方として、既に罪の赦しのための犠牲を払ったお方として、私たちを迎えてくださる。その時の主の言葉、また主ご自身の思いは「喜び」なのだとは本当に深い恵みです。罪からの救い主がこんな近づき方をしてくださる。だから私たちは自分の罪を素直に認めて、主に立ち帰ることが出来るのではないでしょうか。
 罪の意識から赦しを求める、というのは人間的な順番です。キリストは逆です。人の罪の赦しのため、どんな犠牲も惜しまず払われる。それほど私たちを愛し喜んでくださる。だからこそその愛を、軽く安っぽく考える事が愚かだったと気づく。その愚かさに関わらず神が私を愛し、私たちとの関係を命がけで回復してくださる。その気づきが、自分の罪責感とか正義感とは全然違う、罪の意識を始めます。
 そして、主の赦しを受け取って、赦し以上の喜びを受け取らせていただく。赦しが分かって初めて、罪も分かる。それが、罪の力に勝利してよみがえられたイエスに導かれる中での幸いな気づきです[4]。復活の主が、私たちに先立って、私たちに会われ、私たちの救い主としてともに歩まれるのです。

 マタイの28章、イエスの復活から三つのことを覚えましょう。
 1つ、イエスは日曜日の朝、よみがえられました。それはイエスが以前から仰っていた通り、私たちのためであり、私たちも死の後、よみがえりの体を戴く保証です。そんな大それたことを、復活は保証してくれています。
 2つ、イエスは弟子たちと、彼らの故郷のガリラヤで会うことを約束され、女たちを迎えに現れました。復活のイエスは、私たちに近づき、私たちと会ってくださる主です。私たちに会うため、神はどんな犠牲も厭わないし、私たちのガリラヤ、生活のただ中に先におられるのです。
 3つ、復活のイエスの最初の挨拶は「喜びがあるように」と言う歓迎でした。罪からの救い主、十字架に殺された方がこんな真っ直ぐな言葉で迎えてくれるなんて、誰が思いつくでしょう。この方は私たちを私たちの罪から救ってくださる方です。この方の差し出す赦しと喜びによって、私たちは初めて罪を知り、罪よりも大きく強い主を知って生きていくのです。

「復活の主よ、あなたの不思議な大きないのちに包まれて、今も将来も体を与えられて生かされています。罪赦された者として、喜びを戴いて生きていける恵みを今日新たな思いで告白します。希望が打ち砕かれたように思う時、死の力や武装した兵士が圧倒的に思える時も、主よ、あなたが私たちに先立って進まれて、喜びを与えてください。罪を赦し、罪のもたらした破綻を癒やしてやまないあなたが、今も私たちを生かし、復活の希望に与らせてください」
[1] ルカの福音書24章36~43節「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。37彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」40こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」、ヨハネの福音書21章「9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」
[2] Ⅰコリント15章12以下。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。13もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。14そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、神はキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。16もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがは今もなお自分の罪の中にいます。18そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
[3] カイレ 26:49ではユダが裏切りの口づけをしながら「こんばんは」と言い、27:29では兵士たちがイエスをからかって「王さま、万歳」と言ったときも、同じ「カイレ」です。
[4] 「確かに人は、間違いを他者から追求されたとき、罪を告白する必要があるでしょう。しかし私は、罪を裁くだけではじゅうぶんではないと思うのです。裁かれると、言い訳をして逃れてしまう、自分の罪を罪として、向き合うことから逃げる。それが、私たち人間の一面ではないでしょうか。/しかし、裁かれるだけではなく、そこに赦しの可能性が存在するとき、人は罪というものが、それのみの単独の概念ではなく、赦しとの相関概念であると知らされるのです。たとえば皆さんが、漠然と悪いことかもしれないとは感じる、しかし罪と呼ぶほどではないと思えるようなことをしたとします。その行為が、人によって赦されました。そのとき、はじめて、その行為が罪だったと気づく。そういう経験をしたことはありませんか。私は、罪の意識というものは、犯した行為の深刻さによるものではなく、赦しへの見込みによるものであると感じることがあります。/もちろん、すでに話しましたように、キリスト教の贖罪思想が乱用されたり悪用されたりする危険はあります。しかし、この世に万能の思想は存在しません。だからこそ、いかなる思想も、長所だけではなく、その危険性も意識することは大切です。キリスト教の赦しという概念は、加害者に自分の罪を自覚させ、その罪を罪として向き合わせる働きがあることも忘れないでください。」、魯 恩碩『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』、(CCCメディアハウス、2021年)143-144頁。
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