聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

2022-03-19 13:08:30 | マタイの福音書講解
2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

 マタイの福音書を二年半かけて、読んできて最後の部分を読みました。この結びは途中でも何度も触れて、このゴールを見据えながらマタイの福音書が書かれていることを意識して来た結びです。この山の上で、復活のイエスが語られた言葉は、マタイ伝の「総括」とも言えます。

1. 天においても地においても、すべての権威が

 18節のイエスの言葉は「権威」の宣言から始まります。「権威」という言葉は悪い印象があります。「権威主義」「権威を笠に着る」など非常に不快なことです[1]。それはまさに当時の権威筋、神殿や議会を司る祭司長や長老たちの姿です。それが11~15節に描かれています。
 自分たちの権威を守るためにイエスを十字架につけた彼らは、そのイエスが復活したことを番兵たちから報告されても「多額の金を与えて」偽証をさせます。ローマの総督の耳に入っても上手く説得すれば何とかする、と政治的な駆け引きで収めて済ますつもりです。(でも実際、番兵たちがマズいことになっても、どこまで責任を持ってくれるかは分かりません。)事実よりも自分の立場を守る権威。お金の力、嘘や口封じ、取引。そうした策略で安泰を守る権力。

 主の復活記事に、わざわざ番兵や祭司長たちの記事が置かれます。この世の権威がどれほど虚仮威しにすぎないか。しかしそれが功を奏して、広まってもいる。そういう現実を見させた上で、イエスに目を移させます[2]。イエスの権威は、事実をねじ曲げる命令をしたり、金や何かで吊ったり、無理やり保たなければならないような人間の「権威」とは全然違うのです。

二〇25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。…28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。[3]

2. 王であるイエス

 16節以下、都やユダヤ人の間に、大祭司たちの思惑が広まっている時、北の辺境のガリラヤでは、弟子たちがイエスに再会している、山の上での光景が描かれます。議会が狭い会議室でコソコソ協議しているのとは対照的な、のびやかな景色です。そして、その十一弟子の中にさえ疑う者がいました。復活のイエスは栄光に輝いて圧倒する威厳あるお姿ではなかった。しかし、そのイエスが、疑う者もいる弟子たちに近づかれて言われるのです。

18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 イエスの権威は人々に仕え、その罪を赦し、悪霊の苦しみから解放する権威です[4]。マタイの福音書は最初から「王であるキリスト」を語っています。イエスが王として治める「天の御国」を例え話で語り、御業で見せてくださる。イエスがどんな王であるのかをよく現すのが、この「仕える権威」です。それが何よりも現されたのは、ご自分を引き渡された十字架の死でした。苦しみや屈辱、卑しい十字架は、権威とは真逆ですが、イエスは本当に権威あるお方だからこそ、人を罪から救うため、十字架の屈辱さえ厭わずに、ご自分を与えきってくださった。そして裏切った弟子、まだ疑っている弟子たちにさえ近づかれる。その謙った、柔和なあり方こそ、イエスの権威であり、イエスが教え、招かれたあり方でした[5]。ですからここでも、

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

 「弟子」とはイエスを師匠としてその教えや生き方に倣う人ですね。キリスト者は何よりもイエスの弟子なのです。勿論、完璧に師匠の通りに出来る弟子なんていません。この十一弟子も不肖の弟子たちで、この時も疑っています。そういう彼らにイエスは

「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」

と言われます。他国の人間を異邦人と呼んで蔑むのが当然だった時に、国境を越えて出て行って、言葉や肌の色の違う人々を、自分たちと同じ、イエスの弟子とする。自分たちと同じバプテスマ(洗礼)を授ける。そして自分たちがイエスに命じられたことを、その人たちにも伝える。イエスが以前、同じようにガリラヤの山の上で語られた「山上の説教」やマタイにこれまで教えられた神の国の生き方、神を愛し、隣人を自分のように愛すること、神の国の民として生きることを、あらゆる国の人に伝える。しかも自分たちがイエスにしてもらったように、仕えるしもべとなって教えなさい、です。支配するため、自分たちに仕えさせるためではなく、イエスを師と仰ぐ弟子となるよう、自分たちが仕えていく。そう弟子たちに言われて、この仕え合う弟子が世界に広がっていくことを願うのが主イエスなのです。

3. 毎日、あなたがたとともにいます

 ですから、弟子たちへの命令・使命でこの福音書は終わりません。イエスの最後の言葉は、

…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 「いつも」は「すべての日々に」が直訳で、私たちの毎日、一日と欠かさず、無条件にともにいます、との約束です。マタイの福音書の最初でイエス誕生に先立ち、言われていました。

一23…その名はインマヌエルと呼ばれる。…訳すと「神が私たちとともにおられる」…

 それがこの最後でハッキリとイエスが

「いつもあなたがたとともにいます」

と伝えられて、この言葉が結びとなるのです。イエスがいてくださる。裏切った弟子たちも、まだ疑ってしまう弟子たちも、イエスが「わたしは毎日あなたがたとともにいます」という言葉を下さいます。「自分は弟子になんか慣れない」と思ったり、仕えるなんてまどろっこしくて少々手荒なやり方や無理やり脅したりすかしたりして、却って信頼や神の国を現すどころではなくなってしまう、そんな私たちでも、イエスは「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言っておられます。
 そして、この方にこそすべての権威があります。私たちの無力さや足りなさ、諦めや思い込みを超えて、すべての権威を持つ主が働いておられる。十字架に死んで、三日目に復活されたイエスが、この世界に働いておられる。そして、私たちとともにいると言われている。そこに立って、私たちはこの方の言葉に聞き、主の命じた事に従い、人にもそれを守るよう教える、私たちも「ともにいる」ことを大事にしていくのです。

 この最後の言葉、復活の主の弟子たちへの言葉、マタイの福音書結びの言葉から三つを教えられましょう。
 1つ、イエスは天と地、世界のすべての権威の主です。それは人間が思い浮かべる、偉そうで支配したがる権威とは全く違う、仕える権威、謙る権威です。この福音書はそういうイエスを語ってきたのです。
 2つ、イエスの権威は、イエスを王とする「天の御国」のあり方です。この仕える権威、憐れみの支配を信じて、キリストの弟子となり、この方の教えに習っていくのがキリスト者です。イエスが守るよう教えておられた事は、是非、何度もマタイの福音書、聖書全体を読み返しながら、思い起こし、気づかされてください。
 3つ、マタイは「インマヌエル神われらとともにいます」で始まり、「いつもあなたがたとともにいます」で終わります。イエスがともにおられ、私たちを教え、治めてくださっています。人間の権威や企みを恐れることはありません。本当の権威者であるイエスが、私たちのうちに神の国を始め、これを完成させる世の終わりまで、毎日ともにおられるのです。教会はここに立つのです。

「主イエス様。すべての権威はあなたのもの、国も力も慰めも命も、あなたのものです。謙り、私たちに仕えられた、あなたのものです。今日まで、マタイの福音書をともに読む恵みを私たちに下さり、感謝します。あなたが私たちとともにおられ、神の子ども、御国の民としてくださった幸いを、どうぞますます豊かに現してください。私たちもあなたの弟子です。疑いや欠けがある私たちをも、あなたの器として遣わし、あなたの不思議な権威を運ばせてください。」
[1] 『広辞苑』では、権威を「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義しています。どちらも、聖書にいう神の権威とは異なるものです。
[2] 11節の番兵たちの行動を語る文章の最初には、原文では「見よイドゥ」という言葉があります。20節の「見よ」と同じ、注目をうながす一文です。
[3] マタイ20章25~28節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」」
[4] 「権威エクスーシア」 マタイで9回使用。7:29(イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。)、8:9(と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」)、9:6(しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。)、10:1(イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。)、21:23(それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。)、21:27(そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。)
[5] それは、この祭司長や議会のように偉ぶる権威、自分たちを守る権威、そのために必要とあらば手段を選ばず、人々を丸め込む権威とは全く違います。
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