聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問30「口先よりも行いで」ヘブル12章1-2節

2016-08-28 21:33:11 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/28 ハイデルベルグ信仰問答30「口先よりも行いで」ヘブル12章1-2節

 

 ナルニア国物語が大好きな子どもがいました。その子どもが余りにもアスランが大好きなので、自分はイエス・キリストよりもアスランの方を愛しているのではないか、これはよくないのじゃないかと気にするようになりました。心配しているわが子を見かねたお母さんが、作者のC・S・ルイスに手紙を書いたのだそうです。その手紙を読んだC・S・ルイスはすぐに返事を書いて、お母さんは十日後に手紙を受け取ってビックリしました。そして、そこにはルイスが丁寧にこんな返事を書いていました。

 …ロレンスがアスランを愛しているのは、アスランがすること、いうことが好きだからだと思いますが、それはじつはイエスがじっさいになさったこと、おっしゃったことなのです。ですからロレンスは自分ではアスランを愛していると思っていますが、ほんとうはイエスを愛しているのです。たぶん、これまでイエスを愛したことがないほどふかく、またつよく。」[1]

 ルイスは、ナルニアの国でのキリストを、ライオンのアスランとして書いたのだから、心配しなくてよいですよという手紙をくれたのですね。ステキな答だなぁと思います。

 前回はこの夕拝で、イエスという名前は「救済者」「主は救い」という意味だとお話をしました。それは、イエスが私たちを私たちの罪から救ってくださる、ただひとりのお方だからでした。それに続く、今日の問答はこれです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答 いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者または救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れて、自分の救いに必要なことのすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。

 ここでは、ナルニアのアスランではなくて、「聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々」とあります。この「聖人」というのは、ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀のことを考えた方が分かるでしょう。それまで教会には、沢山の「聖人」と呼ばれる人たちが崇められていました。もう随分前になくなった、立派なキリスト者を「聖人」と呼んで、その像を造ったり絵を描いたりして、そちらにささげ物をしてお願いをすることが平気で行われていたのです。そういう考え方に対して、ハイデルベルグ信仰問答や宗教改革をした人たちは、それはおかしい、イエスだけが救い主であって、聖人を拝んだり聖人にお願いしたりする必要はない、と宣言を強くしたのです。

 イエスだけが救い主で、私たちの事を愛して、完全に救ってくださるお方です。でも、人間はおかしなもので、イエスは素晴らしい、凄いお方だと言えば言うほど、近寄りがたく、恐れ多い方になってしまう所があるようです。だから、イエスに直接お祈りするのではなく、母マリヤ様にお祈りして、イエス様にお願いを届けてもらおう、使徒ペテロ様に、その後継者の教皇様に、聖人の何とか様にお願いして、取り次いでもらった方が聞いてもらえるんじゃないか。そう思ったようで、「聖人信仰」というものが広まっていったのですね。けれどもそれは、結局、イエスだけが救い主で、私たちを完全に愛し、全ての罪から救い出してくださる、という信仰を否定することですね。イエスだけよりも聖人にお願いした方が効果がある、という考え方ですから。

 けれども、ここで、イエスだけが救い主だから、他の何かにも幸福や救いを求めることは間違っている、ということだけではなく、もう一つのことを覚えて欲しいのです。それは、さっきのアスランを好きだった子どもが間違っていたわけではなかった事です。

 私たちは、なんとなく、イエスよりもアスランのほうが魅力があるように思います。マリヤ様や聖人のほうが身近で、生き生きとしているように思いやすいのです。けれども、実は、イエスこそ、誰よりも魅力があり、面白く、親しく、素晴らしいお方なのです。そして、私たちの祈りを喜んで聞いて下さり、私たちと一緒にいることを喜んで、永遠に私たちと一緒にいたいと思って下さったのです。神とは、そういうお方です。

ヘブル十二1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 ここには「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」とあります。聖書に出て来る人物も、聖人と呼ばれるような先輩たちもいます。また、教会の牧師や長老さん、おじさん、おばさん、親やお友達。沢山の人たちが、私たちを取り巻いてくれています。そういう人のことを知るのは、とても励ましになります。でも、その証人たちを拝んだり、祈ったり、見つめたりするのではなくて、その人たちに励まされて、

 2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 多くの証人を通して、イエスに目を向けるのです。アスランが好きになったことが、イエスへの信仰を深めることだったように、もっともっと、イエスご自身の素晴らしさと愛を見つめるのです。イエスの愛と忍耐、苦しみと喜びを知りなさい。そうして、自分の今置かれた場所での歩みを、走り続けましょう、なのです。

 プロテスタント教会では「聖人」と呼んで崇める人はいません。代わりに「牧師に祈ってもらった方が聞いてもらえる」とか「あの先生は信仰が立派だから祝福される」とか、誰かを聖人扱いすることは、結構よくあります。そうではないと覚えて下さい。誰も、イエスよりもあなたを愛することはありません。全ての人の魅力や面白さを合わせたよりも、イエスは遥かに温かく、あなたを受け入れ、あなたの祈りも、祈りにならない思いも受け止め、最善に応えて下さいます。素晴らしい人に出会う時は、その人からイエスの素晴らしさを知って、ますますイエスを愛しましょう。助けを戴き、私たちもイエスに似た者に変えられて、多くの証人の一人にしていただきましょう。


[1] C・S・ルイス『子どもたちへの手紙』八九頁。

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