2016/08/28 Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌 心を見る神」
教会の「祈りのカレンダー」では毎日に聖書日課が付いています。五年で、聖書を一通り読むサイクルで「聖書同盟」が作っている通読表を借用させてもらっています。今は、第二歴代誌を読むサイクルになっていますので、今日は歴代誌についての紹介をしたいと思います。
1.歴代誌の特徴
英語では「クロニクルズ」と格好いいタイトルですが、私は若い頃、この歴代誌があまり好きではありませんでした。まず、長い。第一巻が二七章、第二巻が三六章、合計六三章もあります。そして、始まりに延々と九章も系図や名前の羅列が続きます。これは、聖書を続けて読む上での難関ですね。せっかくレビ記や申命記の難所を越えて、面白くなってきたと思ったのに、歴代誌でやる気が削がれそうになるのです。そして、その内容に新鮮味がないと思えます。その殆どは、歴代誌の前の「サムエル記」と「列王記」で、既に読んだことなのですね[1]。イスラエルの最初の王サウルの最期から、ダビデ王のこと、神殿建設のこと、ソロモン王のこと、その後のイスラエル王国の分裂と、ダビデ王朝の歴史が繰り返されます[2]。小さな変更はあるのですけど、また同じ話かと思ってしまうのです。「歴代誌は詰まらない」と思っていました。
しかし私が、歴代誌の背景を知るうちに、見る目が変わりました。歴代誌が書かれたのは、イスラエルの民にとって大変厳しい時代、励ましや希望を必要とする時代でした。歴代誌後半に書かれるように、イスラエル王国は南北に分かれ、堕落と裁きと悔い改めを複雑に繰り返しながら、最後にはバビロン軍によって陥落してしまうのですね。そして、七〇年後に、ペルシヤ王が、エルサレムの再建のために帰還のお触れを告げる言葉で歴代誌は終わるのです。
Ⅱ歴代誌三六23「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」
そのままの言葉が、歴代誌の次の「エズラ記」の冒頭なのです。でも帰還しても、神殿再建、城壁再建、民の信仰や道徳の問題、様々な問題が山積みでした。民の心がバラバラになっていた中、エズラが律法を教え、この「歴代誌」をも編纂したのだそうです。それは、自分たちが神の民であり、神を礼拝して生きることを確認するためでした[3]。過去の事実の研究ではなく、廃墟の中から民が立ち上がるため語りかけられた本なのです。そう思った時から歴代誌は面白くなり、今では私にとって特別な本の一つです。
2.神殿建設、しかし、肝心なのは人の心の再建
歴代誌は、捕囚から帰って来た民が「自分たちは神を礼拝する民」というアイデンティティを取り戻すため、また先祖たちの失敗や堕落の同じ轍を踏まないため書かれました。歴代誌の展開で大きな役割を果たすのはエルサレムの「神殿建設」なのですね。第一歴代誌は神殿建設を、ダビデが息子ソロモンと民の指導者たちに託す姿で終わりますし、第二歴代誌の最初、歴代誌の真ん中の部分は、神殿建設やその描写、また、その奉献の祈りなどが詳しく描かれます。
けれども、その神殿建設は大きな中心になるのですけれども、神殿が中心ではないのです。神殿を建てることを巡っての、ダビデの信仰やソロモンの祈りは大事なのですが、神殿そのものを神聖視したり絶対化したりはしないのです。むしろその神殿は、後々の民の歩みで、どれほど乱用され、悪用されていくか。そこに偶像を持ち込んだり、異教の祭壇のレプリカを作ったり、勘違いした礼拝をしてしまう。最後に主はそのエルサレム神殿を惜しまず破壊させておしまいになるのですね。神を礼拝することは大事です。でも、礼拝する場所や礼拝の行為、また自分が礼拝に来ていること自体を誇り、安んじて、違う者を礼拝していることが人間はどれほど多いことでしょう。読んで戴いたダビデの祈りは、神を偉大なる方として誉め称えつつ、
Ⅰ歴代二九19私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛される…
と心を強調しています[4]。口先だけ、日曜だけ、教会だけの礼拝でなく、心にいつも神への礼拝があり、それが全生活に滲(にじ)み出る。それこそが神殿の建設なのです[5]。18節19節で言われる通り、神は私たちに、そういう礼拝の全き心を与えてくださのです[6]。そのために、私たちが失敗を通り、心の問題が暴露されるかもしれません。神ご自身も忍耐し、時にはご自身の壮大な神殿さえ、躊躇せずに破壊なさるかもしれない。でもそうやって神は人を導かれるのです。
歴代誌には悪い王がたくさん出て来ます。彼らの悪い模範からも学ぶことは十分あります。しかし良い王たちも綻(ほころ)びを見せます。彼らは神だけを礼拝し、神殿礼拝の制度を大胆に改革したのです。しかし、いつのまにか、「自分は正しい」「自分は特別だ、人とは違う」と思い上がってしまいます。ウジヤ王は本当に素晴らしい王様でしたのに、祭司しか出来ない礼拝の務めを踏み込んでしまいます[7]。ヨシヤ王も律法に従った改革をしたのに、最後は無茶な戦争をエジプトの王に挑んで、愚かな死に方をします[8]。ダビデ王も、あのバテ・シェバとの不倫が描かれない代わりに、人口調査で主を怒らせたことが強調されています[9]。抑もソロモン王が神殿を建て、栄華の極みを果たした時も、民を重労働や重税で苦しめていました[10]。
3.回復を宣言される神
最悪の王のひとりはマナセ王です。散々酷い政治をした末に、バビロンへ捕縛されてしまいますが、そこでマナセが謙り、神に祈った時、神は彼の願いを聞いて彼をエルサレムに戻してくださるのです。そして、マナセはこの憐れみを体験したときに、主こそ神であることを知った、とあるのです[11]。そして彼が帰国してから心を入れ替えて精一杯真実な政治をした。この事は、歴代誌だけが伝えるエピソードです。神は、憐れみの神であり、私たちを生かす唯一のお方です。そして、歴代誌の最後は、滅ぼされたイスラエルの民に、神がペルシヤの王を通して、再出発を宣言なさったことです。主がそこにも回復を与えてくださったことです。
歴代誌の王や民の信仰からも失敗からも、私たちは多くを教えられます。しかし、そういう失敗にさえ神が憐れみを下さり、回復をさせ、心から神を礼拝するようになる物語が繰り返されるのです。これを見逃すと、歴代誌や旧約の歩みは「失敗例」としか読めません。「私たちも同じような過ちをしないよう頑張りましょう」という道徳的な読み方になります。「ちゃんと礼拝しないと同じように滅ぼされるぞ」という殺伐としたお説教かと思いきや、歴代誌が語るのは、その反対です。反逆の民にさえ、繰り返して赦しと回復を惜しまない神の物語なのです。神は、憐れみと力に満ちた神です。この神を私たちは礼拝しているのです。この神を礼拝する民とされているのです。申命記でも繰り返して確認しながらお話ししてきましたが、この歴代誌でもそういう恵みの神が語られていて、そういう神への礼拝だと確認するのです。
ヘブル語の旧約聖書では最後に来るのは歴代誌なのです[12]。ヘブル語聖書の結びは、
「あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。」
なのです。神は、ご自身を心から礼拝するよう、私たちを招かれる神です。立派な神殿を建てても、忠実な教会生活を送っても、本当に私たちが求めているのは、神ではなく、違うものになってしまっていることがいかに多いことでしょう。私たちが犠牲を惜しまず仕えているのは何に対してなのでしょうか。そしてそれは、本当に私たちを救うことが出来るのでしょうか。イエス・キリストだけが、私たちを本当に回復してくださる神です。神を礼拝する民として私たちを再建し、本当の礼拝の旅へと踏み出させてくださるのです。
「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。憐れみも回復も慰めも、あなたのものです。あなたと比べられるものは何一つありません。その事をあなたは今も私たちの人生において、この世界の歴史において、現されます。どうぞそのあなた様を心から信じて従う相応しい歩みを、与えてください。私共の歩みも、この礼拝の民の歴代誌に加えてください」
[1] 列王記では、北イスラエルと南ユダ王国の歩みが平行して記録されていきますが、歴代誌において北イスラエルはほぼ無視されています。
[2] アウトライン:Ⅰ歴代1-9章 系図、10-29章 ダビデ王、Ⅱ歴代1-9章 ソロモンと神殿建設、10-36章 王たちと陥落、そして帰還。
[3] 結びだけではありません。その本文の始まりも、サウルの破滅という荒廃からでしたし(一〇章)、途中は、破綻と再生の小さなエピソードが繰り返されるのです。
[4] Ⅰ歴代二八9わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。10今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。
[5] 人類の歴史を、礼拝と、実生活の信仰的な諸決断から描いているのが歴代誌です。戦争も、礼拝行為として描かれている。戦いにおいての決断は、窮地におけるその人の本質の暴露だからです。
[6] 「18…主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。19わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めとを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」心を導かれるのは主です。私たちが自分で良い心、聖い心と生き方を作り出す事は出来ません。そう期待されたり命じたりされているわけではなく、心を見て、心を試し、心を成長させてくださる神に望みを置くことが何よりなのです。
[7] Ⅱ歴代誌二六章。
[8] Ⅱ歴代誌三四-三五章。
[9] Ⅰ歴代誌二〇章は、Ⅱサムエル一一章でダビデがウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯した時期と重なりますが、歴代誌はこの事件について沈黙しています。しかし、その直後の二一章で、人口調査をすることによって、「神の御心を損なった」(7節)ことが却って、クローズアップされるのです。歴代誌は、ダビデの働きを「英雄視」と言われる程、肯定的に描いていますが、それは、サムエル記や列王記の描くダビデの負の部分を「歴史修正主義」的に改ざんしようとしたのではありません。歴代誌は、列王記を読者が読んでいることを前提としています(Ⅱ十15など)。その上で、違う角度から、この歴史を見させようとしています。ダビデを美化するよりも、ダビデとソロモンが陥った、権力・豊かさの落とし穴により集中しているように思います。
[10] Ⅱ歴代誌十4「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」ソロモンの業績の三つの側面:豊かさ、抑圧的な社会政策、変化のない宗教。W.ブルッゲマン『預言者の想像力』(日本キリスト教団出版局)、七四頁以下。新しいものを生み出すことのない宗教は、神を引き寄せるだけで、神の自由を黙殺する。今を豊かで楽しみに満たすことに集中し、神に今をも自分をも捧げることなどなくなる。
[11] Ⅱ歴代誌三三章。
[12] ヘブル語聖書の順番は次の通りです。①「律法(トーラー)」創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、②「預言者(ネビイーム)」ヨシュア記、士師記、サムエル記(上下)、列王紀(上下)(以上、「前預言者」)、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書(以上、「後預言者」)、③「諸書(ケスビーム)」、詩篇、箴言、ヨブ記(以上、「詩歌」)、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記(以上、「メギローテ(巻物)」)ダニエル書、「エズラ・ネヘミヤ書」、歴代誌(上下)(以上、「歴史書」)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます