2019/4/21 ヨハネ伝20章19~29節「傷のある復活」イースター夕拝
今日は世界のキリスト者が、イエスがよみがえらされたことをお祝いする「復活日」、イースターです。イエス・キリストが十字架に殺された三日目、日曜日の朝に、天の父なる神は、イエスを墓の中からよみがえらせました。本当にイエスは、死者の中からよみがえらされて、弟子たちの前に現れました。イエスは十字架に殺されましたが、神はそのイエスを復活させて、イエスが本当に神の子であり、私たちの救い主、主であり王であることを証ししてくださいました。死は終わりではなく、やがて私たちは皆よみがえって、新しい体をいただき、この世界も新しくされて、栄光の御国で永遠を迎える日が来る。その最初として、イエスは復活なさったのです。神がひとり子イエスを、私たちのためにこの世界に人として遣わしてくださった。十字架の死に至る最も低い人生を歩ませて、その死の三日目に復活させられた。イエスの十字架と復活は、神が世界と私たちを、神のものとして回復される証拠ですあり、キリスト教のエッセンスです。
今日のヨハネ20章が伝える通り、弟子たちはイエスの復活を信じておらず、墓が空だと知らされても「復活だ、早く主に会いたい」とは考えもしなかった。むしろ、イエスを殺したユダヤ人がここにも来ないかと恐れて閉じ籠もっていた。そこに
「19イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
イエスの復活とは、イエスの死後も弟子たちが自分たちの心にイエスが生きていると信じたことだと言う人や、弟子たちがでっち上げたと考える人もいますが、そんな勇気や希望は弟子たちにありませんでした。弟子たちが復活という教理を生み出したのではありません。弟子たちは臆病だったのに、イエスは事実、墓からよみがえり、弟子たちに現れて、語りかけたのです。私たちがイエスの復活を信じようと信じまいと、神はイエスを復活させました。信仰深い弟子たちの所にイエスが来て下さったのではありません。私たちが愛するから、信じるから、神を喜ばせる信仰者だから、キリストが祝福してくださる、のではありません。恐れて、信仰を失っている弟子たちの真ん中に、復活のイエスが立ってくださった。これこそが、キリスト者の原点です。
20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスが見せた「手と脇腹」は、十字架で太い釘を打たれた手と、兵士が本当に死んだ事を確認するために槍で刺した脇腹でした。ですから、25節でもトマスが「私は、その手に釘の痕を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った通りです。手には指が入る程の釘の跡が、脇腹には手が入る程の槍の刺された傷跡があったのです。イエスご自身、その手と脇腹を彼らに示すことによって、ご自分である事を弟子たちにハッキリと示しました。それがなければ、他人の空似かと思ったかも知れませんが、確かに見間違いようのない大きな傷があったのです。勿論、血は止まっていたのでしょうが、傷跡はあったのです。
ただ、イエスが十字架につけられた時、鞭を打たれ、何時間も磔にされていました。十字架に架けられた人は、たとえ息絶える前に磔から降ろされたとしても、その体はひどく曲がって、一生真っ直ぐ歩くことも立つことも出来なくなったのだそうです。イエスがもしも本当に死んだのではなく、仮死状態で息を吹き返したのだ、としたら、起き上がることもままならない、痛々しい体であったことでしょう。ただの蘇生だったという説明は、これを考えてもナンセンスです。イエスは本当に死んで、そして、本当に神はイエスをよみがえらせたのです。だから、真っ直ぐに立ち、弟子たちと歩いたのです。
しかし、それならば、手と脇腹の傷もすっかり癒やして、跡形もなくして弟子たちに現れることも出来たでしょう。傷のない、キレイな体のほうがいい気がします。それなのにイエスの手と脇腹には、傷跡がありました。それも大きな傷が。イエスもトマスに、
27…「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
と言われました。しかしトマスに信じさせるためではなく、最初に弟子たちに現れた時、イエスの方から手と脇腹を示されたのです。その傷はイエスである印でした。その傷は醜く見えても、今や弟子たちに喜びをもたらし、トマスに
「私の主、私の神」
という告白を言わしめる傷となりました。イエスの傷こそ、イエスが本当に十字架に死んだ事、何をなさった方かの徴でした。あれが幻や夢ではないし、忘れてしまった方がいい悪夢でもなく、イエスが何をなさったかを示す、かけがえのない生涯の証しだったのです。
ある方は「復活によっても癒やされない傷がある」と言いました。どこかで私たちは、神様の元では傷や痛みがすべて忘れられて、跡形もなくなることを期待しているかもしれません。天国では、すべての傷がすっかり治り、障害もなく、皆美人で、若々しく、劣等感を持たなくてよい体になっている、というイメージがないでしょうか。そしてそれはそのまま、今でも神様が、私を傷つかないよう、失敗や問題や痛みがないよう守って下さればいいのに、という期待と失望と繋がっているのでしょう。復活のイエスの体には大きな傷がありました。ツルツルピカピカの栄光の体ではなく、生涯の傷が残っていました。それこそは、イエスの生涯の証しでした。もう血は流れておらず、痛々しく醜い傷ではなく、癒やされた傷跡でした。でも、その癒やされた傷痕は、消す必要がなかったのです。イエスが私たちを愛し、罪を負って傷を受けられました。それは愛の傷、イエスの生涯の証しです。人の罪を裁くより、罪ある人に赦しを与え、大きな平安を与えたいと願って、十字架にかかることも厭わなかった証し、尊い傷なのです。
「祈りの手」という絵があります。絵描きになりたい二人が、まずは一人が働いてもう一人を絵の勉強に専念させようとした。でも長年、肉体労働をするうちに、もうすっかり絵が描けない節くれだらけの手になっていた。その手を描いた絵です。
なんと美しい物語がここにあるでしょう。この生涯で体に刻みついた傷や皺、頑張りや愛の跡が、やがてどう残り、どう癒やされるのかは分かりません。でも全部が治ってしまったら、お互いどうやって見分けがつくのかも、同じぐらい分かりません。復活は生涯の傷を綺麗さっぱり無くすのではないのでしょう。イエスの復活が傷を残していたことは、今の私たちの痛みも、恥や呪いではなく、大事な人生の刻印だからです。イエスは人としての痛みを誰よりも味わわれました。その復活の体には、癒やされた傷がありました。
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