聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ28章「主はよみがえられた」 イースター説教

2019-04-21 14:28:12 | 聖書の物語の全体像

2019/4/21 マタイ28章「主はよみがえられた」

 主イエスが、十字架の死から三日目に、墓からよみがえられた。本当に神は、イエスを復活させてくださった。今日のマタイの福音書も、イエスの生涯を辿り、イエスの教えや奇跡を辿りつつ、その結びに十字架の死からよみがえらされたという驚きの事実を伝えています。イエスは本当によみがえった。キリスト教会は、この信じがたい出来事を信じてきました。特に今日の箇所、大きな地震や主の使いの描写などを読むと、ますます信じにくいかもしれません。

 確かにここには、復活が奇跡や非日常的な出来事を伴って起きています。「こんな話、実際にこの目で見なければ信じられるか」と思うかもしれません。しかし、この場にいて御使いたちを見て震え上がった番兵たちはどうでしょうか。御使いを見て震え上がり、死人のようになったと4節にありました。その彼らが11節で、墓地から都に駆け戻って祭司長たちに報告するのですが、祭司長たちから多額の金を与えられると丸め込まれてしまうのです。すぐ前に、地震や輝く御使いを見て、震え上がったのに、大金を握らされたら「自分たちが眠っている間に、弟子たちがイエスを盗んでいったのだ、イエスの復活など捏ち上げだ」と言いふらした。少し考えたら、そんな話のほうがありそうもないのに、そんな話しを広め始めるのです。

 この兵士たち、そして祭司長たちの姿は、この復活記事の中で不思議な程、詳しく記されています。イエスを復活させた神は、地震や輝く御使いを遣わしたのですから、祭司長や兵士たちの姑息な対応など叱咤して、封じることも出来たはずです。その協議の議場に、輝く御使いを派遣したり、イエスご自身が現れて圧倒したりだって出来たでしょう。しかし、そうした人間の考えがちなやり口とは反対に、場面はガリラヤに飛ぶのです。彼らの思惑を尻目に、イエスは弟子たちの故郷である辺境のガリラヤで、

「あらゆる国の人々を弟子としなさい」

という大きな使命を与えられ、

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

という、尊い約束を与えられます。まるで祭司長たちの企みなど、全く意に介さないようです。

 私たちはこういう周りの状況を気にかけてしまいやすいものです。イエスは、復活を否定されても嘘が言いふらされても憤慨しないのに、私たちは憤慨し、何とかしたくなります。「神に力があるなら、その力で社会に影響力を持ちたい、反対する人を説得して納得させたい、自分を無視する奴に分からせてやり、謝らせたい」と思いやすい。でもイエスはそんな発想から、全く自由でした。抑(そもそ)もこの時、イエスの復活を告げられたのは女性たちでした。当時の男性社会で、女性は教育や証言の対象とは見なされていませんでした。証人としての信憑性が確かな、社会の名士や知識人、議員に御使いが現れたらもっと影響力があったでしょうに、ここで御使いは女性たちに語りかけました。そしてイエスも彼女たちに現れて、男性たちへの伝言を託されるのです。それも、今いるエルサレムから離れて、ガリラヤに行け、そこで会おう、と言われます。都エルサレムで語る方が、また祭司長や議会を圧倒して、イエスの復活を信じさせ、イエスの正しさ、神の子としての権威を認めさせた方が、世界への影響力は絶大でしょうに、イエスはガリラヤで会うと仰います。そこで、16節で十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登ってイエスに会います。その時さえ

「疑う者たちも」

いました。弟子たちの中にさえ疑いがあった。そう伝えた上で、最後の言葉が語られます。

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 復活は、死に対してもイエスは権威を持っていることを証しした最たる出来事です。でも、私たちが思うような「権威」とは違います[1]。人を圧倒したり脅したりして服従させ、命令し、操作しようとする権威ではありません。反対に、祭司長やユダヤの議員たちは自分たちの権威を守ろうとして、お金や嘘を使うことも厭いませんでした。そしてそれはひとまず成功しました。でもイエスは天でも地でもすべての権威を与えられているからこそ、そんな小賢しい権威は気にも留めません。イエスの復活は、死に対する勝利です。しかしイエスがそれでなさろうとしたのは、人の上に権威を振るうこととは逆に、女性たちに出会い、辺境のガリラヤで希望を語り、まだ疑っている弟子たちを通して、あらゆる国に福音を告げさせることでした。

 このマタイの福音書の最初に、イエスが語った説教、「山上の説教」の最後でも

7:28イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。29イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

という言葉がありました。イエスの権威は、当時の律法学者たちの偉そうな態度とは全く違う、本当の権威を持っていて驚かれた、というのです。そしてその「教え」の権威は、天の父なる神の憐れみ、罪を赦す権威[2]、人を苦しみや狂気から解放する権威でした。嘘や圧力で自分の面子を守ろうとする権威ではなく、イエスは人を憐れみ、人を生かす権威をお持ちです。その復活は確かに死に対する勝利でしたが、その前にイエスは死の苦しみを背負うことをなさって、全く権威がないかのように嘲笑われることをも厭われませんでした。そして復活の事実を否定する当局の企みに悔しがったり抵抗したりせず、イエスは弟子たちを辺境の山で集め、ご自分の弟子として世界に派遣されます。あらゆる国の人々がイエスの弟子になるよう招かれている。

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…

 バプテスマを受けて、イエスの命じられたことを守る弟子となる。世界の支配者や権力者が、何をしようと、本当の権威者であるイエスが、この世界のあらゆる国の人々を招いています。しかもその出来事が、弟子たちを通して広められていくことをイエスは宣言されます。疑う者さえいる弟子たちを通して、イエスはあらゆる国の人々に働きかけ、その伝道や洗礼や教育という回りくどい方法でなそうとされる。何と地味で、欲のない方法でしょうか。でもそれが、復活したイエスの選ばれた方法でした。私たちが今ここで、イエスの弟子とされている。希望をもって歩んでいる。イエスの教えを学びながら、イエスの力に守られて、導かれていることを信じている。決して華々しくはない、それぞれの人生が、復活のイエスの始めた出来事、本当の権威に裏づけられた、尊い、永遠のいのちを秘めた出来事なのです。

20…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 これはずっと説教でお話ししている「聖書の物語の全体像」で中心となる契約の成就です。主は私たちとともにいる神です。「あなたが良い事をしたら」でもなく、「何かしくじらない限り」でもなく、何があろうとなかろうと、ともにいる。この世界のすべての権威を授けられたお方、この世界を治めておられる方が、私たちとともにいると約束されます。後の日も、今も私たちを生かしておられます。人がどんなに巧妙に「復活などなかった」と言おうと、どんなに大金を積まれようと、私たちの中に疑いが残っていようと、事実、イエスは復活し、私たちとともにいてくださいます。そして、嘘や力尽くで人を封じ込めようとする権威が紛い物に過ぎないと気づかせてくださいます。人の権威を恐れる生き方から救い出して、すべての人が招かれている主とともに生かされる歩み、主の教えに生かされる生涯に入れられているのです。ですから教会は、反対や無理解をも意に介する必要がありません。既に

「世の終わり」

までが約束されていますから、嘘や姑息な手段は必要としないのです。画策や隠蔽や口封じなどせず、堂々と間違いを認めます[3]。堂々とこのキリストの言葉を語り、淡々とイエスの恵みを教え続けます。神は死よりも強いお方、人の疑いや画策よりも強く、私たちとともにいてくださるお方。その権威を振りかざすより、罪を赦して和解を与え、女性や低い者、小さな者に目を注いでくださるお方。そのイエスが、今日も私たちを生かしておられると指し示し続けるのです。

「私たちのために死に復活された主よ。すべての権威はあなたにあります。生かされている恵みを忘れ、主の憐れみが踏みにじられる中、私たちは十字架と復活に捕らえられ、あなたに生かされてある事を知らされました。この不思議な恵みの力を毎日、小さなことにも見出し、王なるあなたを誉め称えさせてください。主を迎える終わりの日まで、ともに歩ませてください」



[1] 『広辞苑』では「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義されています。

[2] マタイ九6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」

[3] 体制の権威は、恐れ、隠蔽し、金で解決しようとする。現実に目を向けられず、都合の悪い真実は闇に葬ろうとする。キリストの教会はそんな小賢しいことをする必要はない。

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