聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

2022-01-01 12:01:30 | マタイの福音書講解
2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

 「ナルニア国ものがたり」の作者C・S・ルイスが書いた、「被告席に立つ神」という説教があります[1]。神を被告席に立たせて、神のやり方を責め、神に疑問をぶつけているのが現代の私たちの態度だ。しかし問題は、そもそも神を被告席に立たせていることだ、というのです。



 今日の箇所はまさに、神の子イエスを被告席に立たせている裁判の図です。ルイスに言わせれば、私たちがしているのはこれです。良いことが起きる限りでは神を誉め、感謝するけれど、受け入れがたい事が起きれば、神を非難して背を向ける。神は被告で私たちが裁判官。そのボタンの掛け違えを戻して、神に被告席から降りて、正しくも裁判官の場に立って戴く。そして自分が裁判官の場から降りて、正しくも被告席に立ち、神の裁きの前に立つ。神の真摯な問いかけに答える。そこから人として生きる事が始まることを、一年の初めに確認したいのです。

 59節に「最高法院」(欄外「サンヘドリン」)とあります。大祭司、律法学者、長老たち、七〇人によって構成される、当時の最高議会でした。彼らはイエスが自分たちの権威を脅かす存在と思い、殺そうと企んで、イエスを捕らえて、夜中にこの裁判をしたのです。そのために「多くの偽証人[2]」まで捏(でっ)ち上げてイエスに不利な判決に持ち込もうとしました。この他の理由からも、この裁判自体が当時の制度からしても不法だったのかもしれません[3]。けれど、議会が不正だったからイエスが処刑になってしまった、もし手続きが正当だったら無罪放免になったはずだ、というものではありません。裁判の横暴さを非難するよりも、どんな不正な裁判でもここでイエスが堂々としておられることにこそ、目を引きます。偽証がされても、憤慨したり反論したりなさいません。過去の発言を引き合いに出されて、大祭司が立ち上がり、

62「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか」

と詰問しても

「イエスは黙っておられた」[4]。

 しかし万策尽きた大祭司がやけっぱち気味に[5]

「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」

と言われた時には、イエスはハッキリと答えます。

64…あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。

 こう言われるのです。これは旧約聖書のダニエル書7章13節や詩篇110篇1節を元にした言い方です[6]。神の右の座に着き、やがておいでになるメシアを語っています。大祭司が「おまえはキリストか」と問うた時、念頭にあったのは、キリストを自称して、民を巻き込んで反乱を扇動しようとする政治犯の罪状です。イエスはそうした政治的な運動以上の自称をなさったのです。
 同時にこの言葉は、この大議会の被告席に立たされているようなイエスこそ、実は神の右の座に着く主権者、この裁判の議長・裁判官であることを示しています。

 イエスは私たちの罪の赦しのため十字架に命を捧げられました。裁判が不当だったせいで処刑されてしまったわけではないし、偽証や強引さや嫉妬を非難もしませんし、逆に、他者の罪を庇いもせず、「自分は身代わりに死ぬのだから私を信じなさい」なんて発言もしていません。ただご自身が、あなたがたが思う以上のキリスト、神の御子であることを証しされました。

 この時のイエスはどんな格好だったか、想像してください。粗末な衣はひれ伏して祈った後で泥だらけ、激しい祈りの徹夜明けで憔悴し、乱暴に連れて来られて、殴られていたでしょう。とても「力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来る」とは思えません。この後、

67それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、68「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

 こんな惨めな扱いです。威厳も何もない格好と似ても似つかぬ告白は、お笑い種(ぐさ)でしょう。

65すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。[7]

 しかしこの言葉は奇しくも真実です。イエスの言葉はそれ以上証人を必要としない、十分な言葉でした。たとえどんな出で立ちで、「この男が神の子だなどと荒唐無稽だ」としか思えなくても、イエスは神の子であり、私たちの救い主です。その死は罪人であった私たちを救うとは、荒唐無稽としか思えません。でも、この方の言葉以上に、証人や証明は要りません。

 神は、人が被告席に立たせたつもりでも被告ではなく神であり、すべてを差配されます。その神の御子イエスが、私たちの全ての罪を背負って、命を捨てられました。イエスは、私たちが被告席に立たされる時、裁判にかけられるような思いをする時、私たちの十分な証人となってくださるのです。私たちの実際の罪や言動については、正直に告白し、責任を果たすよう促されます。でもイエスは、私たちが罪の故に貶められる者ではなく、既に罪の値を支払われ、神と和解し、神の子どもとされた事を証言してくださる。私たちの見かけや過去が今どんなに似つかわしくなくても、イエスが仰った言葉だけで十分。それ以上の証人は要らないのです。どんなに意地悪な証言が並べ立てられようと、傍聴人たちが何と言おうと、すべての裁き主なる神と、私たちの証人であるイエスが、被告席に立つ私たちの側に立ってくださるのです。

 新しい一年、起こり来る出来事は、私たちを一喜一憂させ、振り回そうとするでしょう。だから今日のこの箇所を、確かな原点として覚えましょう。
 人は神に替わって裁判官だと勘違いしがちですが、神は被告ではなく神です。
 イエスは、この裁判でも主導権を握り、ご自身を証しされました。
 そのイエスが、私たちの証人でもあります。人や敵、また自分自身の内なる声が何を言おうとも、いちいち抗弁しなくて良い[8]。イエスが私たちの証人となり、罪の赦し、神の家族の交わり、将来への希望、様々な恵みを下さった恵みに立って生きましょう。

 主のみことばを十分として歩ませていただく。これが、キリストに倣う、私たちの証しなのです。

「主よ。2022年最初の主日をともにし、ここから派遣され、毎週のリズムを繰り返します。この日、主が復活された確かな事実に立ち戻り続けます。人の言葉、時代の流れ、自分自身の内なる声、悪しき力の訴えに押し流されそうな私たちを、あなたの言葉に引き戻し、主の恵みに生かしてください。御言葉の十分な証言を素直に受け入れ、備えられた豊かな恵みを遠慮なく戴かせてください。やがて主が来られるまで、私たちをあなたの証しとしてください。」

脚注:

[1] C・S・ルイス『被告席に立つ神 C・S・ルイス宗教著作集別巻2』、本多峰子訳、新教出版社、1998年。また、被告席に立つ神 | 過去の礼拝説教 - 日本キリスト教団 茅ヶ崎恵泉教会 も参照。

[2] 60節。

[3] 特に、榊原、『マタイによる福音書 下』、261頁以下を参照。「…事実、欧米の聖書学者たちは、多くの点で、この審理の不正をあばいてきました。第一に、この裁判は、客観的な証拠によらず、被告の自白だけで判決されました。第二に、裁判長・議長たる大祭司が先に「彼は神を汚した」と結論してから「あなたがたの意見はどうか」と誘導しました。第三に、サンヘドリン議会は、神殿内の一定の部屋で開かれることが決まっていたのに、この時は大祭司邸宅で開かれました。第四に、こういう問題に関するユダヤ教議会は、午後から、ましてや真夜中には、開廷されてはならないのに、非合法な夜中に行われました。第五に、とくに死刑決議は、ユダヤでは慎重に行われ、二人の書記の一人が賛成票を、もう一人が反対票を数えるほどでしたし、証人は、特別に正義と真実とを求められ、また死刑決議の表決は、少なくとも翌日まで延期されねばならなかったのに、ここでは、その場で即決されてしまいました。 なるほど、今日の議事法からみれば、これらの点は不当な議事運営法かもしれません。けれども、このうちの第一点(自白にもとづく判決)と第二点(議長の誘導)とは、欧米の議会通念から下された勝手な批判であって、東洋人のセンスでは、それほど異例ではありません。…以下略」

[4] ここにはイザヤの預言した「苦難のしもべ」の姿があり、キリスト者にとっての模範もあるといえます。イザヤ書53章5~6節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」、同7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」、Ⅰペテロ書2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」 しかし、イエスは沈黙し通してはおらず、64節で発言をされています。ですから、単純な「預言の成就」とは言い切れない複雑さも加味しなければなりません。

[5] この質問を最初からすれば良かったのであれば、わざわざ偽証人を大勢立てる必要はありません。偽証人の存在は、大祭司たちの策が(不完全で穴だらけではあれ)あったからです。その準備がうまくいかなかったために、大祭司はこの質問を問うたのでしょう。

[6] ダニエル書7章13~14節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」また、同26~27節「しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、詩篇110篇1節「主は私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」」

[7] イエスの罪状を決定づけたのは、ご自分が「預言された「人の子」、やがて、栄光のうちに来る」と仰ったことです。第一に、イエスが人の罪を背負った、とはいえ、濡れ衣を着せられたり、身代わりとなることを申し出たり、誰かを庇って罪を背負うことで有罪判決を下されたのではありません。ですから、私たちがイエスに倣うとは、私たちが人を庇ったり、身に覚えのない罪をも認めたりするような事ではありません(けれど、そのような、「自分が罪を背負う」ことがキリスト者の証しだと誤解されていることも少なくないのです)。第二に、イエスがキリストであることは、証明できることではありません。大祭司も証明を求めませんでした。しかし、イエスがそう仰っただけで十分でした。私たちが、神の子どもとされた、という告白もそうではないでしょうか。また、私たちが他者からの言いがかり(偽証)や挑発にどう応えようかと悩む必要はありません。誤解を解こう、言葉尻を取られたことに抗弁しようとする必要もありません。相手を説得することがキリストの証しでもないし、無理矢理、誰かの罪を背負おうとして「証ししよう」とするのでもないのです。ただ、キリストのことばのゆえに、自分が神の子どもとされた事実。これを証すれば良いのです。

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