聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記1章1~19節「大いなる造り主」 03

2018-11-18 16:03:01 | 聖書の物語の全体像

2018/11/18 創世記1章1~19節「大いなる造り主」

 聖書の初めの言葉は、

「はじめに神が天と地を創造された。」

です。聖書は、最初に神が天と地を作られた様子を私たちに語ります。私たちは聖書の光を通して、神について、世界について、そしてそこに生かされている私たち自身について、新しく知らされるのです。

1.天地創造の特徴

 この天地創造の記事にはたくさんのことが言われています。まず、神が天地を作られたという事実があります。世界は偶然に出来たのではなく、また、神が作っているうちに予想外のハプニングがあって世界が出来てしまったという神話でもなく、神が完全な制作者として世界を造り、順番に完成に近づけ、区切りごとに

「それを良しと見られた」

と確認されて、喜ばれていることが分かります。

「光、あれ」

と言えば光があり、

「大空よ」

と言われれば大空があり、

「水は集まれ」

と言われれば地が現れて海が出来る。

「地は植物を芽生えさせよ」

と言われればそのようになる。神の言葉の力強さにも驚かされます。神の創造の経緯は実に大胆です。

 同時に、神がこの世界に寄せている関心の深さもうかがえます。天と地を大雑把に作っただけでなく、神は関わり続けて、豊かにかつ細やかに、生き生きと整えられます。聖書には植物の名前が百種類ほど出て来ますし、現在は20万から30万種ぐらいと言われるそうです[1]。それだけの植物を生えさせるほど、神はこの世界に豊かな関心をお持ちです。世界の創造を楽しんでおられ、それを見て良しとされます。この「良し」は「すばらしい、喜ばしい、美しい、健康」といったニュアンスがあります。神はこの世界を美しく素晴らしく造られました。この世界を愛され、言わば世界をご自分の庭として、この世界に深く手を掛けられるのです。

 物作りやゲームやイベント、何かを造る仕事を「クリエーター」と呼ぶことが日本の業種として定着していますが、神は文字通り創造者(クリエーター)であり芸術家(アーティスト)です。世界は神の作品で、様々な趣向を凝らした、美しく、いのちの漲(みなぎ)る芸術です。そうは言い切れない問題も沢山あります。その事も創世記3章以降で取り上げていきます。それでも、問題を根拠に世界は虚しく無意味・無価値で、神はいないか世界を見捨てたのだ、とは考えないのです。世界はそもそも神が創造されたのであって、神はこの世界の創造主として世界に深い関心を寄せておられて、私たち人間の中にも働いておられる。引いては、それ故、今の私たちの問題だらけの人生や歴史にも、大いなる神は働いて下さって、そこから思いもかけない良いもの、美しい回復、素晴らしい物語を始めて下さる。そういう信仰を創世記から始まる聖書は随所で宣言しているのです。

Ⅱコリント四6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

2.「光る物」

 神が創造者だ、という信仰は、もう一方で、神ならぬものを神とする考えを一蹴します。世界は神によって造られた素晴らしい世界ですが、その素晴らしさを勘違いして神のように崇めて、本当の神に栄光を帰さない。それが偶像崇拝です。ここで特筆されるのは、14節以下。

「光る物」

とあるのは太陽と月のことですね。昼を治める太陽と、夜を治める月。しかしここでは「太陽」「月」と言わず

「光る物」

と素っ気なく呼び捨てます。太陽や月は多くの文化では神々として礼拝されています。神話でも大事な役を果たします[2]。だからこそ聖書は、太陽や月を「光る二つの物」と呼び捨てて、あれは神ではなく、あれを造られた大いなる神こそがあなたの神だ、と言っているのです。神が与えてくださった生き方の指針「十戒」は、

出エジプト記二〇3あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…

と太陽や月をも偶像にしてはならないことを強調しています。確かに太陽は天で光って、生活に必要なものです。その熱や光は

「地を治める」

と言われるぐらいの大事な働きをしています。でも神ではありません。太陽には物凄いエネルギーはありますが、世界を造ったり育てたりする力も心もありません。私たちが礼拝する神は、太陽もこの世界も造られた大いなるお方で、私たちを生かして、地に豊かでバラエティに富んだものを造られる芸術家、愛の神です。

 聖書が、神はどんなお方か、を創造から書き始めているのは、人間が神を見失っていることも大きな理由の一つです。人は神を見失って、神ではないものを崇めているのです。これは偶像崇拝ですし、神に背を向けている罪です。罪とは道徳的に悪いということ以上に、神の律法に逆らうことです。神の御心に背いているのが罪です。神を神としないこと、神ではないものを神のように崇めて、恐れて、恋い慕っている生き方。「悪い生き方」ではなく、神が造られた良い物が神の代わりになって、本末転倒になっているのが罪の生き方なのです。

ローマ一25彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

3.偶像崇拝からの救い

 太陽や月も本来は良い物、大事なもの、なくてはならぬものです。でもそれは神ではないし、それに仕えるなら人生の方向は大きく変わります。家族や健康、仕事や趣味、お金、名声、国家や思想、キリスト教の伝道活動や教会堂や組織だって「偶像」になり得ます。どんな大事なものも神ではないし、神にすべきではないし、なってもくれません。それなのに、神から離れた人間は、太陽や鰯の頭をも縋り付いて失うまいと必死になります。その一方で、本当の神がどんなお方かも誤解しています。神の偉大さと関わり、あるいはその両方が見えません[3]

 今日読みましたイザヤ書も神の創造を引き合いに語っていましたし、聖書は神が天地を創造されたことから語り出すメッセージです。神の大いなる天地創造から語って、私たちを造り主なる本当の神に引き戻してくれるのです。聖書の物語の全体が、神から離れた人間を回復させるために、神ご自身が立ち上がってくださった。そういう物語が何章もかけて綴られる本とも言えます。世界を造られた大いなる神、太陽よりも偉大で、小さな植物の一種類をも愛おしまれる神が、私たちの神であられる。そして、私たちが神ならぬものを崇めている生き方から引き返して、神との親しい交わりの中に生きるよう、あらゆる手を尽くして下さる。聖書の歴史を通して、神がどれほど人のために心を砕かれ、あの手この手を使って、人間に働きかけてくださったかが明らかにされます。実に豊かで、意外な方法で、神は人間に働きかけます。最後には、神の御子イエスご自身が人間となって、人として歩まれ、私たちの身代わりに十字架の死を遂げてくださり、三日目に復活なさる、という誰も予期しないことをなさるのです。

 神の方から人間のために犠牲を払ってくださいました。イエス・キリストはご自分の痛みも恥も惜しまない、想像を絶する方法で、私たちを取り戻してくださいます。そして、その回復の出来事そのものが、一人一人違います。また単純に「信じたらお終い」でない、生涯掛けて、深く取り扱われる回復です。生涯掛けて神の恵みや偉大さを知り、人の心や自分のうちにある思いと向き合っていく、それぞれに特別な回復の道程があるのです。本当に神は、この世界を造られたお方、そしてこの世界に現されているように、偉大で、細やかで、限りない想像力と豊かで多様なことをなさる方です。ただ神に立ち帰るだけでなく、神がどれほど豊かで大いなるお方か、どれほど私たちを愛され、世界が神の限りない憐れみと喜びの中に生かされているかを知っていく。それもこの世界に用意されている歩みなのです。だから希望が持てるのです。

「天地万物の造り主であり、私たちの細胞や心の襞さえ支えておられる主よ。あなたが一人一人に違う個性、違う人生、神の子とされる特別な歩みを下さっています。測り知れないあなたの偉大さと愛を誉め称えます。私たちの小さな理解を超えた奇しい導きを見せて、御名を崇めさせてください。そうして、私たちにあなたにある希望、信頼、喜びを証しさせてください」



[1] 植物学のHPではこのように記載されています。「新種の記載は日々行なわれていますし,研究者によって種の認識は異なりますので,正確な種数というのを示す事はできません.そこで,下記の文献に記述されている種数,という形でお返事いたします.…「植物」の範囲がどこまでかは分かりませんが,維管束植物で記載されている種数については下記のとおりです.世界の維管束植物の種数:約235,500種(Judd et al. (2002) Plant Systematics: A Phylogenetic Approach, Scond Ed. Synauer, Massachusetts U.S.A.より)(科ごとに種数が記されています.大学図書館などにあればご自分でも調べてみて下さい) 日本の維管束植物の種数:約4630種(変種や亜種等も含めると約7500の分類群が記されています).「日本の野生植物」シダ,草本I, II, III,木本I, II.平凡社,東京.」 Q&A「植物種」「日本植物学会」

[2] 日本語でも「お天道様」とか「お月様」と人格化された呼び方がありますが、古来「太陽」「月」は神々として崇めていました。

[3] 交読した今日のイザヤ書40章も「28あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」と天地創造を言い、その方は現在の私たちに対して「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」方でないはずがない!と展開しました。

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