聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

2018-12-09 20:23:26 | 聖書の物語の全体像

2018/12/9 イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

 イザヤ書は旧約でも「第五福音書」と呼ばれるほどキリストについて語っている書です。いくつものキリスト預言が出て来ますが、その有名な一つがこの9章6~7節です[1]。紀元前8世紀のイザヤが主に語られた言葉として、やがて一人の男の子が与えられる、と言われています。そしてそれはまさしくイエス・キリストがどのようなお方であるかを言い表しています[2]

 イザヤの時代、紀元前八世紀から七世紀は、イスラエルの国が南北に分裂していがみ合っていた「分裂王国」の最後の時代です。イザヤがいた南のユダ王国は、敬虔なウジヤ王が死んで、狡猾なアハズ王が王になり、イザヤと厳しく対立します。特に、国際情勢が大きく動いて、アッシリヤ帝国が台頭します。やがて北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされて捕囚となり、南ユダもその勢力に呑み込まれそうになります。アハズ王は日和見的に、アッシリヤと手を組もうとしますが、イザヤはアハズに、動揺せずに主を信頼するよう勧めます。アハズ王はイザヤに耳を貸さずにアッシリヤとの同盟を結び、結局はアッシリヤに散々苦しめられることになりました。神を信頼するよりも、外国の勢力を頼み、結局自分の首を絞めてしまう。いや、そう言われていたのに、その言葉に聴かないアハズ王、そして国民全体の傾向があったのです。

 つまり、キリストの預言の言葉は、当時の国際情勢や政治を視野に入れて語られたものです。経済や生活の危機が迫っている中で、その情勢も神のもっと大きな御支配の中にある、と諭す意味を持っていました。ただの将来への希望ではなく、現実が大きく動く中での言葉でした。そして、そのようなイザヤの言葉を信頼せず、神ではないものに縋ろう、人間の権力とか戦争、計算だけで生きようとする王に対して、神の支配はどんなものかを語るものでもありました。神の支配を嫌がって、自分の力だけで何とかしよう、不正や自己保身を変えまいと思うアハズ王に対して、イザヤは主が王である事を語り続けたのです。少し前の八章の結びを読みます。

八20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。

 主の言葉に従わないで、身の破滅になるような日和見や、強者に靡(なび)く落ち着かない生き方で、

「夜明けはない」

闇を迎えてしまう。迫害や飢えや放浪をする羽目になる。その上それで反省するのでなく、怒りに身を任せて、顔を上げて王や神を呪う。この時代の在り方を言い当てています。自分で拙速な判断をしておきながら、人や神に腹を立てている。そういう状況です。

22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。九1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地と      ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 神に従わない結果、見渡しても苦難と暗闇、苦悩の闇。しかし、その所に、神は光を輝かせてくださいます。大きな光、栄誉をもたらすと言われます。繁栄、喜び、平和が与えられる。しかし、この地名はイザヤのいたエルサレムからは遠い辺境の地、

「異邦の民のガリラヤ」

と言われるような僻(へき)地(ち)でした。アハズにとってはアッシリヤに滅ぼされてしまえ、と思うような敵地でした。アハズに大事だったのは、自分の国、いや自分の立場や保身だけでした。しかしイザヤが語るのは、主が人にとって意外な所から光を輝かせる、という予告です。中央からの回復よりも、地方からの回復です。自分の真上から光が照るのでなく、あんな所には行きたくないと思っていた所に光が照り始めるのです。闇の中に歩むのが自分だけであるかのように、他者や王を呪う者が、世界は真っ暗だと思っていると、神は、他の人も闇の中にいる事に目を留めておられ、そこに光を輝かせてくださる。そのこと自体が、アハズ王は勿論、人間に対しするチャレンジではないでしょうか。神は

「わたしはあなたが考えている神とは全く違う」

と仰るのです。神の言葉を侮って、自分のプライドや成功のために、権力とか暴力とかに縋り、弱者や外国人を虐げたり切り捨てたりして、争ったり結託したりする人間社会や、国家や国際情勢があります。神の言葉は、やがて来る王は、そんな方向とは全く違う王で、闇に光を照らし、苦しみを慰めるお方。一人の嬰児(みどりご)として現れる、不思議で柔和な王だと宣言するのです。

 生まれる子どもの「名」の最初は

「不思議な助言者」

ですが八18にも不思議がありました。

八17私は主を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。18見よ。私と、主が私に下さった子たちは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている。[3]

 ここでイザヤは、自分たち家族がイスラエルにとってのしるし、不思議となっている、と言います。現状、主の御顔は隠れているようで見えない。人が争い、差別をし、弱者を排除している殺伐とした社会で、主の顔は見えない。けれども、私は主を待ち望む。こうした時代に主を信頼している自分が、そして主が与えてくださった自分の子どもたちが、この世界にある不思議なしるしだ。そう、権力とか武器とか経済ではなく、主が私に与えてくださった子どもたち。御顔を隠しておられるように思えても、この子どもたちは主が下さった宝物。この前、七章八章と主はイザヤに子どもたちをしるしとして同伴するよう告げています。主は子どもの存在そのものを示されます。隠れているように見えても、主はいのちを与えてくださっています。その恵みを忘れて、権力や暴力に走り、神を信頼するより大国に頼もうとするなら、何と勿体ないことでしょう。「神が見えない、キリストが主であるというなら、どうして自分の人生は苦しいんだ」と、何かあれば怒りを溜め込んでしまう。そんな勘違いした人々の中で、それでも神を待ち望み、小さな子どもたちを神の授かり物とするイザヤ一家の存在が、そのまましるしでした。その延長に、やがて

「ひとりのみどりごが生まれる」

という約束がありました。

 キリストは私たちのためにお生まれになり、私たちに与えられました。それも権力や魔法で私たちを幸せにするよりも、ご自身が嬰児となって、無力で素直で無防備な姿で、私たちのもとに来てくださいました。この無防備で無条件に私たちの所に来てくださったことこそ、その小さな赤ん坊の両肩にある主権でしょう。イザヤの子どもたちを通して平和を語られた主は、ご自身が赤ん坊となる事によって、神の支配がどんなものかをお示しになったのです。キリストは人が願う力や奇蹟で人の夢を叶えるサンタクロースではありません。人に手なずけられる王ではなく、私たちを新しくしてくださる王です。私たちの天国ではなく、お互いや多くの人もともに平和に与る栄光の御国という、大きな新しい夢を持たせなさる王です。私たちの願いに役立つ助言ではない、予想もつかない不思議な助言を語られるお方です。何より私たちのために赤ん坊となって生まれ、大人になっても幼子のようで、最後は裸で十字架にかけられました。イエスの柔和さ、無防備さ、憐れみこそが世界の光であり、イエスの主権です[4]

 聖書はキリスト者の心に、御言葉を聞き流して、助けにならないものに縋る現実を受け止めています。気に入らない人には目もくれない狭い思い上がりもあります。何かあれば、怒って神をさえ呪いかねません。そんな闇にキリストが来てくださったのです。そして今も、隠れているように見えても、主は私たちを治めておられ、私たちの願いそのものを新しくし始めておられます。神の国がどんなものかを知らないまま、今への感謝や他者への憐れみのないまま、ではないようにしてくださっています。御言葉や子どもたちや、交わりや学び、自分の怒りや痛みや失敗を通して、変えてくださっています。私の願いが叶わなくて怒るよりも、もっと広く大きな神の国を知らされて慰められ、主の御国を心から待ち望むようにされています[5]

「主よ。なんと不思議な名前で迫ってくださるのでしょう。どうか、思いをあなたに向けさせてください。人の痛みも、あなたの約束も棚に上げて、自分の本当の必要さえ押し殺して、痛々しい道を選ぶ生き方から自由にしてください。私たちはあなたを待ち望みます。その待望に相応しく今ここで平和を作り、子どもたちを喜び、いのちを育む生き方を歩ませてください」



[1]ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

[2] それとともに、それが七百年も前の時代に語られたとはどういうことなのか、を思います。イザヤの時代の人々にとって、将来このような王が生まれるということが慰めになったのでしょうか。そして、実際にイエス・キリストがお生まれになって二千年経つ私たちにとっても、キリストが既にお生まれになって、その御業を果たされて、平和の君として治めておられる、という言葉がどれほどの意味を持っているのでしょうか。どこか虚しく、空々しい声にも聞こえてこないでしょうか。そんな疑問とも通じる文脈がここにあることを気づきたいのです。

[3] この二つの「不思議」は原文では違う言葉が使われています。ニュアンスは違っていますが、イザヤが七章以来、赤ん坊という見えるしるしを通して語っている延長上にある事として扱います。

[4] 世界の多くの権力者にとっては厄介極まりないことだとしてもです。

[5] マハトマ・ガンジーは「もしあなたが世界の変化を見たいのであれば、あなた自身がその変化にならなければならない」と言いました。キリストは、まず私たちをその「変化」としてくださいます。

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