2017/12/17 ハ信仰問答104「敬意への自由」エペソ3章14-21節
十誡を一つずつ見ていますが、前半の四つが神を神とする生き方を教えていたのに対して、今日から見ていきます後半六つは、人との関係について教えています。
「父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…」
です。そこで、今日はまず第五の戒め、
「あなたの父と母を敬え」
を見ていきましょう。■
問104 第五戒では神は何を望んでおられますか。
答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々にあらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを納めようとなさるからです。
ここには、私たちが自分の父と母だけでなく、すべての
「上に立てられた人々」
に対する尊敬と服従と忍耐が命じられているのだ、と言われています。学校の先生、教会の牧師、国家の政府に至るまで、すべての目上の人。とはいえ、基本は父と母です。それが
「殺してはならない。姦淫してはならない」
よりも先に命じられているのです。
この言葉は、小さい子どもたちを教え諭す言葉として使われがちですが、ここではそういう限定をしてはいません。既に大人になった子どもたちに、もうお祖父ちゃんお祖母ちゃんになった両親を敬え、と言っています。勿論、小さな子どもたちも親を敬うことは必要です。しかし、それを教える親たちが自分の親を敬っていないとしたら、どうして子どもたちが親を敬うでしょう。親は子どもたちに「嫌な親は敬わなくても良い」という手本を真似て、いつかは自分たちがぞんざいに扱われることになるのです。
しかし聖書にはそのような、親を悲しませ、親に背く子どもたちの話が満ちています。アダム、ノア、ダビデ、ソロモン、ヨブ。みんな家族のことで苦しみました。聖書は親を理想化して、
「あなたの父と母を敬え」
と言ってはいません。誰でも当然の麗しい家族関係が念頭にあると思ったら大間違いです。また、父と母の問題には目を瞑って、尊敬しなさい、感謝しなさい、服従しなさい、と言っているのでもありません。ここにわざわざ
「ふさわしい従順をもって服従し」
とあるのは、何が何でも言うことを聞きなさい、ではなくて、従うべきでない時もあることを言っているのです。人間に罪があることを聖書は言います。親だって例外ではありません。その親の問題に目を瞑れ、というのではないのです。形ばかり従いなさいと命じられていれば、ますます親を嫌い、遠ざけようとするでしょう。十誡が言うのはその逆です。親の問題は問題として認めつつ、それでも親を敬う道、親との関係の癒やしを告げているのです。
誰もが生まれて最初に持つのは親との関係です。何かの事情で親に育てられない場合も含めて、親との関係は私たちの中に大きな影響を持ちます。でも先にも言ったように親も罪人です。子育てや家庭においてこそ、その罪は最も現れます。そして、子どもは親との関係で安心して育ち、一人前に成長していけば良いのですが、親の罪や我が儘、恐れや不安のあおりを受けます。十分に愛を注いでもらえたと思えず、自信や信頼をもらえないことが多いのです。親との関係で十分安心できないと、自分が好きになれません。だから人を好きになるのも難しいのは当然です。親への憎しみが、他人にぶつけられて、殺人になるかもしれません。親の愛情をもらえなかったのを、他人にもらおうと、結婚や恋愛関係、それどころか不倫に求めることもよくあります。ですから、
「殺してはならない、姦淫してはならない」
というヨコの人間関係を扱う以前に、
「父と母を敬え」
という、最初の基本的な関係、居場所の問題を整理するように言うのです。本当は、尊敬する親を持ちたい、尊敬できる親を持ちたい、というのがだれもが持っている願いです。それが出来ない人の思いを汲み取るようにして、神は、親への素直な尊敬を表すよう、仰っているのだとも言えます。その深い願いを、主が満たしてくださるとき、他の人との関係にもわだかまりなく向かわせてもらえるのです。
主なる神は神の民に
「あなたの父と母とを敬え」
と仰いました。父にも母にも罪があることも、主はご承知です。神の民の中にさえ、親子関係でどれほどの傷や痛みやこじれた問題が積み重ねられてきたかも、百も承知です。けれども、いいえ、だからこそ、主はその問題に引きずられたまま、他の人間関係まで歪めたり八つ当たりにしたりしないために、あなたの父と母を敬え、と仰ったのです。なぜなら、父と母を嫌い続ける時、私たちはいつまでも自分をも好きになれません。親を憎むなら、自分をも愛せません。そして、自分が親になる時にも、子どもを育てる自信が持てなかったり、親と同じ事をすまいと力みすぎて、結局、自分の親子関係にも親との傷を持ち込んでしまうのです。だから、親の問題を認めつつ、親を好きになれなくてもいい、何でも従え、というのでもない。ただ、親を敬え、恨みやわだかまりよりも、自分の親への尊敬を持ちなさい。そうすれば、その尊敬すべき親の子どもである自分も、憎まなくて良くなっていき、他の人との関係にも尊敬し合うことが始まっていくからです。
主なる神は、
「父と母を敬え」
と仰っただけではありません。十誡の序言は
「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」
です。主はもう私の神となり、私を神の民としてくださいました。また神の子イエスは私たちと一つとなって下さって、私たちを神の子どもとしてくださいました。神は私たちの
「天の父」
です。この天の父が私たちを生み、永遠に愛し、認め、安心も自信も下さいます。その神が私たちの天の父であることを知ると、地上での私たちの両親も、そのままに認めて敬えるようになるのです。自分の事も愛されていると知るようになります。また自分が親になることも、失敗や欠けがあっても天の父が助け、大切な子どもを任せてくださるのだから、安心して、助け、愛していこう、と思えるようになります。
エペソ人への手紙三14こういうわけで、私は膝をかがめて、
15天と地にあるすべての家族の、「家族」という名の元である御父の前に祈ります。
16どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
だから親に何でも従うのではなくても、親への尊敬を表してみましょう。親を大切に思っていることを伝えてみましょう。私たちは人からの尊敬を必要としているものです。親からの愛と、子どもからの尊敬を必要としているのです。まず親への敬意を持つ時、親が戸惑いつつもどれほど慰められ、満たされるでしょうか。親子の問題を踏まえつつも、私たちはその関係の修復を必要としています。その一歩を自分から始めるのです。それを始めさせて下さるのが主です。それは実に生き生きとした神のお働きなのです。
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