聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記3章14~24節「失楽園で終わらず 聖書の物語の全体像08」

2019-02-03 17:19:34 | 聖書の物語の全体像

2019/2/3 創世記3章14~24節「失楽園で終わらず 聖書の物語の全体像08」

 創世記三章は、アダムとエバが禁断の木の実を食べて追放される、大きな曲がり角の章です。人が犯した直接の行為は、禁じられていた木の実を食べたことです。しかし人は上辺を見ますが主は心を見ます[1]。その木の実を食べたといううわべ以上に、心において神への信頼を捨てた-神が良いお方である、という信頼を捨てて、蛇が唆したように

 「神はケチだ。神はあなたがたに近づいてほしくないのだ」

という不信を選んだ-そこに罪があるのです。

 であれば「エバが神に逆らったのはどの時点なのか」は厄介な問題なのですが、ともかく、約束を破った時、神との関係は深く傷ついたことは事実です。「謝罪と償いが必要だ」という以上に、神との関係が大きく損なわれたのです。蛇が「神はあなたがたに隠し事をしている、神はあなた方を自分のようにはしたくない、神を信頼しても馬鹿を見る」と吹き込んだ嘘が、今に至るまで人の心に染みついています。神を信頼するキリスト者でも、心の底にはとても貧しい「神様イメージ」があることは少なくありません。世界の造り主が私を造り、私を支え、生かし、愛してくださっている。それは、私たちが安心して歩んでいける土台です。しかし「神様イメージ」を狭くて、神との関係が揺らぎやすいと思い込んでいると、足元がぐらついて、必死に何かにしがみつきながら暮らすことになります。不安や恐れからあれこれをしたり、良いことをしていても、いつも孤独や「ダメだな」という思いがあったりします。

 神との関係が損なわれた結果、エデンの園で人は早速自分を隠そうとしています。夫婦の関係も壊れて、醜い言葉で責任を擦り合っています。ここには、人間の抱えている問題、罪、悲惨について沢山の洞察があります[2]。人間関係の悩み、仕事の悩み、死の悩み。今も変わらない大きな人生の悩みが、ここから始まったことが端的に言及されているのでしょう。しかし、ここに込められているのは、人の違反に対する怒りや罰ではなく、人が神を信じなくなったことへの神の悲しみであることも見落としたくないのです。もし神が激怒したのであれば、ただちに殺したり、世界を滅ぼしたりも出来ました。しかし神はご自分に背いた人間をなお生かし、人生を歩ませられます。また人に対する言葉に先立って15節で言われていたのは、蛇に対する敵意です。神との約束を破るように唆した蛇には厳しい言葉が告げられます。でもその言葉にあるのは

「女の子孫」

が蛇の頭を打つ、という「女の子孫」の役割です。これはやがてイエス・キリストが来て、十字架に死んでよみがえることで、成就することになります。その約束がすでにここで、曖昧ながらもハッキリと仄めかされているのです。その言葉を聞いた上で、16節以下の言葉をアダムとエバは聞いたのです。二人は、その言葉に神妙にならざるを得ないとしても、蛇に対する言葉とは違う、神の優しさ、寛容さを聞いたのです。

 この後、二人はエデンの園から追い出されますが、この言葉はどう成就したでしょうか。女性の産みの苦しみがどれほど酷(ひど)くなるかと思えば、殆(ほとん)どそれは言及されず、むしろ産みの喜びが圧倒的ですね。一人ラケルが難産の末に亡くなる以外、産みの苦しみ以上の、産みの喜びが多いのです。干ばつや飢饉も創世記に何度も出て来ますが、その度に逃れて生き延びます。終盤のヨセフ物語は、ヨセフが全世界を襲う七年の大(だい)干(かん)魃(ばつ)を前に、自分の家族だけでなく、エジプト人や世界の多くの人を救うためにリーダーシップを取る話です。この三章だけを読んで、神が与えたのは、難産や飢饉や死で人生を呪う罰かと思ったら、創世記全体をよく読んでください。そこには、人間社会が抱えていく問題が、ここだけでは分からないぐらい深刻に、複雑に展開していく様子も見えます。バベルの塔や、民族の対立、戦争など大規模な紛争も次々に起きますし、家族関係、それから神への信仰の姿勢を通してさえ、人の闇、神との関係が不安定になった結果の色々な問題が深くなります。

 今でも、社会の問題や心の闇は噴出し続けていますが、それは簡単に解決や分析など出来ない本当に複雑な痛みです。安心して信頼できる神を見失った結果、沢山の悲しい出来事が起きています。痛みや暴力があります。しかし創世記も聖書も、そうした次々に問題を引き起こす人の歩みに、神がともにいてくださる歴史です。問題を通して、神を呼び求めるようになる、アダムの子孫達の姿が物語られていきます。

 神は、人をエデンから追い出しますが、創世記は神がアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと

「ともにいてくださる」

という表現を繰り返します[3]。つまり神は人をエデンの園から追い出されたのですが、神もエデンを飛び出して人とともにいようとなさるのです。エデン追放は、神の人に対する拒絶や絶縁ではありません。神は人を追いかけて、人との関わりを新しく造り出されます。人との関係を取り戻そうとなさって止みません。上辺に噴出する様々な問題があろうと、また心には神への不信があろうと、神は人を追いかけて、人との関係回復のために、救いの契約を始めてくださった。最初から、神は一方的な恵みによって、人に関わり続けてくださいます。それは神ご自身が、神に背いた人に対しても良いご計画を持っておられたからです。やがてキリストを送り、蛇の頭を打って、神に背いた出来事の決着をつける、確かな計画がこの時点で宣言される通りです[4]。神ご自分もエデンの園を飛び出して、人とともにいようとなさいました。失楽園は終わりではなかったのです。神は人に裏切られてそれまでの楽園での時間を失っても、それでも人も世界をも諦めず、

「失われた人を救う」

物語を始めたのです[5]

 神は、人に永遠のいのちを得させたいからこそ、エデンの園から追放されました[6]。楽園の生活が終わって、つらい人生が始まります。人間関係や仕事で悩みながら、「苦しい時の神頼み」で神を呼び求めたりします。「苦しい時の神頼み」は褒め言葉ではありませんが、上手くいっていたら人は神を呼び求めないし、自分の弱さや人との関係の大切さにも気づけません。神は、壊れてしまった世界の壊れっぷりを安易に癒やそうとはなさいません。表面的な解決でお茶を濁そうとはしません。神は人とともに、この世界の痛みや悲しみやいとおしさを、人とともに十分味わおうとなさいます。その中で神頼みしたり、感謝したりする私たちを受け止めて、神は善いお方、神を信頼して、神の愛を受け取っていこう。この神が造られた世界で、ともに生きていこう。そういう思いを持つよう導いてくださいます。神は人の心にじっくりと、深く働きかけて方向転換をさせてくださる。そういう契約を実現していかれるのです。

 神は、エデンの園から出た後も、人に食べ物を十分に配慮してくださいました。飢饉から救い、マナを降らせてくださり、五つのパンと二匹の魚で人々を養われました。何よりも、主イエスが十字架にかかってくださいました。神は私たちに、約束が破られた「善悪の知識の木」を見せつけて後悔を強いるよりも、主イエスが架かられた十字架の木を示してくださっています。罪を罰したり過去を責めるよりも、十字架に示された神の愛、私たちに対する愛、そこまでしても私を神の子どもとしたいという神の深い恵みが示されています。そして、主はその事を覚えさせるために、聖餐式を設けてくださいました。パンに託して、イエスが

「これはわたしだ。わたしを食べなさい」

と仰ってくださいます。

 食べるなと禁じられた木の実を食べた人間に、命の木からも取らせなかったというよりも、主はご自身を差し出して、「このパンはわたしです。取って食べなさい」と言われます。この一欠片のパンに、主が世界を造られて、私たちに日毎の糧を下さっていることも、私たちへの赦しと回復も込められています。神が裁きの座に座っている遠い方ではなく、そこを飛び出して私たちとともにいてくださる方、私たちの思い込んでいる神イメージを一変してしまうメッセージがあります。そして、将来の祝宴も、すべてが詰まっています。そして、そのパンを分かち合う共同体が教会なのです。主の絆の印である聖餐を、今から頂きます。主はエデンで破られた約束を繕うため、今このパンに託して、私たちの心の底に届くことから始めようとなさっている恵みを、ご一緒に噛みしめましょう。

「契約の主なる神よ。エデンの嘘以来、神はお高くとまり、ケチで人を愛してなどいない、という偽りが染みついています。あなたを遠く冷たく、小さく考える愚かさから救い出して、恵みに心を満たしてください。世界の問題は複雑で底知れない苦しみがあります。どうぞ私たちを憐れみ、主の聖餐に私たちを養い、あなたの道具として、御業を果たさせてください」



[1] Ⅰサムエル記16章7節「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」

[2] 特に、16節で女性に言われた、「また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」は、二章で造られた夫婦の関係が大きく拗けた、悲しい告知です。「恋い慕う」は健気(けなげ)な純愛っぽく響きますが、4章7節で「罪はあなたを恋い慕う」ともありますから、情で絡め取ろう、私の願い通りになってほしい、というニュアンスです。男が女を支配するのとは違う形で、やはり女性も男性をコントロールしよう、思うままに操ろう。悪意からではなく寂しさや善意からでも、男も女も互いの関係をこじらせ、主導権(パワー)争い(ゲーム)で行き詰まらせる。引いては、親離れ子離れもしにくく、あらゆる人間関係が縺(もつ)れてしまいます。そして、17節「苦しんで食を得る、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る」。仕事の厳しさ、死に至る悲しみが言われています。こうした「のろい」は神の言葉の一部ですが、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」は、神がそのようになさらなかったら、拗けることもなかった人間関係ののろいとは思えません。既に、12、13節が、ゆがんだ会話なのです。神はここで、人の関係を壊したと言うよりも、壊れてしまった人間関係を嘆いて、「告知」されているという読み方も併せて可能です。

[3] 創世記五22、24、六9、二一20、22、二六3、24、28、二八15、20、三一3、5、三五3、三九2、3、21、23、四六4、四八21。

[4] それは、ただ人間の魂の救いという以上の、天地を創造された方の、そして、あえて人間に自由意思を与えて、破ることもあり得る約束を与えられた方の、「覚悟」があったからです。

[5] ルカ19章9節。

[6] では、3章22節で神である主がこう仰ったのは、どういう事でしょうか。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」まず、人が善悪の木の実を食べても、本当に神のようになったわけでも、善悪の知識を得たわけでもありません。人が知ったのは「自分たちは裸だ」ということ、神から隠れて、嘘や胡麻菓子をするようになったのです。善悪の木から食べたら神のようになる、というのは蛇が囁いた誤解でした。その誤解のまま、まだエデンの園にいて、いのちの木から取って食べて、死を免れようとする誤解を見越したのかもしれません。あるいは、人の心が歪んだり人間関係が支配やもつれたりしたまま、永遠に生きるなら、それこそ呪いに他なりません。何よりも、やがて「永遠のいのち」を神はイエスによって私たちに得させてくださるのです。イエスとの出会いが、私たちの永遠のいのちなのです。神との交わりを抜きに、命の木とか命の水とか、あるいは現代科学で不老不死の技術を開発してもいのちが得られるのではない。たとえ、科学や魔術や神話で永遠を得たとしても、それは恐ろしい事です。

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