聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問76「永遠の命以上の」ローマ書8章1-11節

2017-07-02 15:38:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/2 ハ信仰問答76「永遠の命以上の」ローマ書8章1-11節

 先週から「聖餐式」「主の聖晩餐」と呼ばれる、教会の大事な儀式についてお話しをしています。今は夕拝で聖餐をしませんけれども、しかし、教会の礼拝のイメージは聖餐です。主イエスが、私たちをテーブルに招いてもてなし、元気づけ、またここから出て行き、主が私たちに下さった務めを果たしてくる。そして、またこの場所に帰って来る。その歩みの真ん中にあるのが、主の食卓です。聖晩餐です。ここでは何も難しい事、特別な事は言われていません。聖餐には、キリストの十字架と復活のエッセンスがギュッと詰まっています。今日ももう一度、その原点を確認したいと思います。

問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。

答 それは、信仰の心をもってキリストのすべての苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ、それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊を通して、その祝福された御体といよいよ一つにされて行く、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。

 聖餐において、パンを食べ、葡萄の杯を頂きます。それは、パンや杯を頂く以上に、

十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲む

という意味がある、と問75で言いました。ではそれは、どういうことですか、と改めて問うのです。まず、

 …信仰の心をもってキリストのすべての苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ…

 基本的なキリスト教信仰です。キリストが本当に苦しみ、十字架に死んでくださったこと、そして、それを信じて受け入れる時に、私たちは罪の赦しと永遠の命を頂きます。主の体を食べ、流された血を飲む、グロテスクにも思える表現で言いたいのは、キリストが本当に私たちのために苦しみ、死んでくださったことを受け入れます。私たちは、そのキリストの苦難と死に与らせていただくのです。しかし、それだけではありません。

…それ以上にまた、キリストのうちにも私たちのうちにも住んでおられる聖霊を通して、その祝福された〔キリストの〕御体といよいよ一つにされていく…

 パンを食べ、杯から飲む時に、罪の赦しと永遠のいのちがいただけるというだけではないのです。私たちの今のこの体が、聖霊によって、キリストの御体と一つにされていくのです。「血となり肉となる」という言い方があります。何を食べるかが体を作るのです。野菜をよく食べると健康で、お肉や脂こいものばかり食べると体臭もキツくなる。カルシウムが足りないとイライラする、牛乳を飲むと背が高くなる、レバーを食べないと貧血になる。そう言われて、私も小魚やレバーや牛乳を良く摂ってこんな体です。

 それと同じように、キリストの体と血を食べると、私たちの体もキリストと一つとされていく、と言います。聖霊が、私たちのうちに住んでくださる、と言います。

ローマ八10もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 聖霊が私たちのうちに住み、私たちを生かしてくださると言っていますね。更に、

…それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。

とさえ言われます。この

「肉の肉、骨の骨」

という言い方は、聖書の最初に出て来ます。

創世記二23人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

 神が最初の人に、妻エバを作られて連れてこられた時、アダムは最愛の言葉を贈ったのです。この屈託のない喜びの言葉をそのままここに持ってきます。私たちが、キリストの

「肉の肉、骨の骨」

となる。それぐらい、キリストは私たちを愛し、愛おしみ、喜び、大切にしてくださるのです。聖霊が、私たちを結び合わせて、永遠に生かし、治めてくださるのです。勿論、私たちの体が病気もしない、年も取らない体になるわけではありません。イエス御自身の体も、傷つき、人としての弱さを持った体であったのと同じです。アダムがエバを

「肉の肉、骨の骨」

と呼んだのも、一心同体となったのではなく、アダムは自分とは違う人格のエバと歩むからこそ、愛の関係を育めたのです。私たちがキリストの花嫁になるとか、御霊が私たちを一つの教会として結び合わせてくださるのも、互いの個性がなくなって一体になるのではありません。お互いの個性が、最高に尊重され、生かされ合いつつ、キリストの

「肉の肉、骨の骨」

言わば、キリストの花嫁となるのです。キリストが天におられ、私たちは地にいる。その距離がなくなるのではありません。でも、その距離や限界やもどかしさはありつつも、キリストに愛されている者として生きていくのです。その事をも、聖餐は私たちに確証するのです。

 聖餐でパンと杯を頂く時、そこに約束されているのは、罪の赦しと永遠の命以上の、豊かな歩みです。主が私たちの体をも大切な、かけがえのないものとして見て、愛してくださっている。私たちのこの体での生活を通して、神様の愛を現して、良いことをしてくださる。そういう祝福も、聖書は約束しています。その約束が聖餐を通してハッキリと証しされるのです。私たちがそれを理解して、聖餐の意味を信じていれば、ではなく、事実ここから出て行く私たちの生活が、神の恵みの中にある。聖餐はそれを思い出させてくれます。その御業を信じましょう。この私たちのために、キリストが十字架で死なれ、罪ではなく、いのちの業に取り戻してくださった、その御業を期待しましょう。

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