どういう人をソクラテスのような人というのか。私自身はソクラテスがどんな人であったか全く知らないのに。
これは私が大学院博士課程の後期学生のとき、特に2年から3年の終わりまで指導を受けた方である。イニシャルで Y さんと言っておこう。毎日だったかどうだったかは忘れたが、大学の学生研究室でなにか作業とか仕事かをしているときに回ってきて私の研究のできなさ加減を聞いては意見をくれるのであった。
博士課程1年の頃まで私は S さんの指導を受けていた。そして S さんの示唆でH君とある簡単な仕事をして、生まれてはじめてショート・ノートとかレターといわれる短い研究ノートの研究をした。もっともそれを論文したのはすでに後期博士課程の2年になっていただろう。
これは修士課程で S さんの出してくれたある課題が迷路の入ってなかなか思うように解けないので、その副産物biproductとしてできた研究であった。もっともこれは私の創意も部分的には含まれていた。残り半分はもちろん S さんのアイディアであった。
それの研究の見込みがほぼ立ったころ S さんは他大学に転出されることになった。それはほぼ同じ年齢の S さんと Y さんとが同じ大学の助教授にはなれる余地がなかったからである。もっとも S さんは私のいた大学よりも格上の大学への移籍であり、栄転でもあった。これは S さんのそれまでの業績を見ればその資格はもちろんその当時十分にあった。
Sさんの物理観ははっきりとは知らないが、簡単(simple)であることを一つの物理観にしているようにも思えた。これは私だけではなくて、ほとんど年は違わないが、先輩のMさんなんかもSさんの物理観はそういうものらしいといわれていたことがある。
Yさんの物理観には簡単さという気持ちがないかというとないとは言えないと思う。しかし、Sさんに私が感じたような簡単さで徹底して押していくというような感じはあまりしなかった。どういうのかわからないのだが、ある種の叡智が含まれているような感じがした。
いや、十分に説明することができない。以前にもこのブログで書いたことがあるのだが、ある種の懐の深さとしか言えない感じを与える人だった。前にも書いたが、これは頭のよしあしとか業績の優劣を言っているのではない。
SさんもYさんも優れた物理学者であったろう。これは門下生の私などとは全く違う。
しかし、ドンな私が一見変なことを言ってもそれを即座に否定したりしないで、自分の思考の中に取り込んでから私の考えている方向で、あるいは違ったコンテクストでアドバイスをくれるという感じだった。こういう方にあまり私はその後の人生の中でも接したことがない。ソクラテスのような人という由縁である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます