よく言われることに「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」というのがある。
誰がいつ言い出したのかは知らないが、なるほどと思わせる。
誰でも自分の過去を美化したいものだけれども、たとえば、自分が過去に大学受験に失敗したとかは一生ついて回る。もっともそれが不利なるとは思われなくて、逆に人生に有利に働いたりするから、人生の失敗も捨てたものではない。
しかし、この言い回し(-e Redewendungen:ドイツ語)では自分と未来に重点があると思う。過去はいくら悔やんでももう変えられないが、未来は、また自分は自分の努力次第でどうにでも変えられる。
そういうまったくポジティブな生き方を示す一語であろう。問題はそう意気込んだところですぐにでも人間は変われそうだが、なかなか自分が変われそうにないことである。
ではどうしたらよいか。
それは小さなことでもいいから少しづつ少しづつ自分を理想とする方向に自分に変えて行く努力をすることであろう。これもなかなか難しい。だが、人間やれないこともなかろう。小さな積み重ねで私はドイツ語の片言を話せるようになった。
それは一日一日のラジオを聞く15分にかかっていた。それを今では30年以上続けている。ひょっとしたら、40年を越えたかもしれない。いや計算したことはないが、40年近くになるであろう。
「それでも片言しかしゃべれないのか。だめだね」という声がする。それでも私は胸を張っていう。片言をしゃべれることがどれほど難しいのか。君は、あなたは知っているか。
いやこれは一例にしか過ぎない。別に外国語を話すことでなくてもいい。何でもいいのだ。主婦が家庭をまもって40年一日のごとく家事をしてきた。それでもいいのだ。
別に大志をもつことがいけないというのではない。大志は持つべきものだが、いつでも大志が実現できるという幻想に振り回されてはいけない。
あくまで着実に一歩、一歩なのである。確かに一歩、一歩の歩みはのろい。なにもできていないとあせるかもしれない。また仮になにもできていなかったにせよ、その努力をしたことは自分に満足感を与えてくれる。
これは亡くなった数学者の I 先生がよく私に言って下さったことである。私は狭い意味の I 先生の門下生ではなかったが、薫陶を受けたと思っている。
誰がいつ言い出したのかは知らないが、なるほどと思わせる。
誰でも自分の過去を美化したいものだけれども、たとえば、自分が過去に大学受験に失敗したとかは一生ついて回る。もっともそれが不利なるとは思われなくて、逆に人生に有利に働いたりするから、人生の失敗も捨てたものではない。
しかし、この言い回し(-e Redewendungen:ドイツ語)では自分と未来に重点があると思う。過去はいくら悔やんでももう変えられないが、未来は、また自分は自分の努力次第でどうにでも変えられる。
そういうまったくポジティブな生き方を示す一語であろう。問題はそう意気込んだところですぐにでも人間は変われそうだが、なかなか自分が変われそうにないことである。
ではどうしたらよいか。
それは小さなことでもいいから少しづつ少しづつ自分を理想とする方向に自分に変えて行く努力をすることであろう。これもなかなか難しい。だが、人間やれないこともなかろう。小さな積み重ねで私はドイツ語の片言を話せるようになった。
それは一日一日のラジオを聞く15分にかかっていた。それを今では30年以上続けている。ひょっとしたら、40年を越えたかもしれない。いや計算したことはないが、40年近くになるであろう。
「それでも片言しかしゃべれないのか。だめだね」という声がする。それでも私は胸を張っていう。片言をしゃべれることがどれほど難しいのか。君は、あなたは知っているか。
いやこれは一例にしか過ぎない。別に外国語を話すことでなくてもいい。何でもいいのだ。主婦が家庭をまもって40年一日のごとく家事をしてきた。それでもいいのだ。
別に大志をもつことがいけないというのではない。大志は持つべきものだが、いつでも大志が実現できるという幻想に振り回されてはいけない。
あくまで着実に一歩、一歩なのである。確かに一歩、一歩の歩みはのろい。なにもできていないとあせるかもしれない。また仮になにもできていなかったにせよ、その努力をしたことは自分に満足感を与えてくれる。
これは亡くなった数学者の I 先生がよく私に言って下さったことである。私は狭い意味の I 先生の門下生ではなかったが、薫陶を受けたと思っている。
コップの水がもう半分しかないという人より、まだ半分あるという人のほうが10年長生きするそうです。長生きしましょうぜ。
飯尾先生
コメント有難うございます。人生観が楽観的またはポジティブなだけでそんなに違いがありますか。
病は気からとか言いますが、あながちウソではないですね。