これは「ドイツ語圏とその文化」というメール配布の自作の雑誌に掲載されたものの一部である。数式を入れた説明であったのだが、数式や写真はうまくコピーができなかった。それで近いうちに、数式とか写真付きの元の原稿どこか別のところに掲載したいと思っている。
3.1 はじめに
相対性理論は特殊相対性理論(以後特殊相対論と略称)も一般相対性理論もアインシュタインが提唱したということはよく知られている.
平面上での平行移動や回転運動で図形の形が変わらない幾何学がユークリッド幾何学であるが,それと同じような観点を特殊相対論に持ち込んだのがミンコフスキーであった.このことによって特殊相対論はとてもわかりやすくなった.
3.1 はじめに
相対性理論は特殊相対性理論(以後特殊相対論と略称)も一般相対性理論もアインシュタインが提唱したということはよく知られている.
平面上での平行移動や回転運動で図形の形が変わらない幾何学がユークリッド幾何学であるが,それと同じような観点を特殊相対論に持ち込んだのがミンコフスキーであった.このことによって特殊相対論はとてもわかりやすくなった.
アインシュタインの考えたローレンツ変換を幾何学的に解釈し直したミンコフスキーのアイディアを学んで,ものわかりのわるい私などもようやく特殊相対論がわかるようになった.
3.4 ミンコフスキー
ヘルマン・ミンコフスキー(1864-1909) は優れた数学者として認められていたが,若くして亡くなった.そのためかあまり一般の人々の話題に上らない.
3.4.1 ミンコフスキーの生涯
Wikipedia [3] から彼の生涯を抜粋して引用する.
図3.2: Herman Minkowski(1864-1909) [ミンコフスキーの肖像はうまく取り込めなかった。]
ミンコフスキーは1864 年6 月22 日,ロシアのアレクソタス(現リトアニア領カウナス近郊)に生まれた.
両親はドイツ系で,8 歳のときに家族でケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)へ移住した.ケーニヒスベルク大学ではヒルベルトとともにフルヴィッツの元で学び,この二人とは終生の友人となった.
ミンコフスキーは若い頃から数学的才能を示し,18 歳のときに整数を5 個の平方数に分解することの研究によってスミスとともにフランス科学アカデミーから科学アカデミー数学大賞を受賞した.
ケーニヒスベルク大学卒業後すぐにボン大学で,続いてヒルベルトの後をうけてケーニヒスベルク大学で数学の教鞭をとった.続けてチューリヒのスイス連邦工科大学(ETH) の教授に就任した.ここでの教え子に,若き日のアインシュタインがいた.
1902 年,ヒルベルトの努力でゲッティンゲン大学にミンコフスキーのために数学の講座がつくられ,その教授となった.1907 年までに,時間と空間を統一的に扱うミンコフスキー空間の概念を作った.1909 年1 月12 日,ミンコフスキーは盲腸炎によって44 歳の若さで急死した.
3.4.2 業績の概観
Wikipedia [3] によるとミンコフスキー空間と呼ばれる四次元の空間により,アインシュタインの相対性理論に数学的基礎を与えた.また,時空を表すための方法として光円錐を考えたという.
特にミンコフスキー空間に関して,ミンコフスキーは,空間と時間を別々の量としてではなく,四次元の多様体として統合して記述することを考えついた.
アインシュタインは一般相対性理論ではリーマン幾何学を用いたが,この理論では重力は時空の曲率によって表される.重力が光速で伝播することを最初に述べたのはミンコフスキーだという.
3.4.3 エピソード
矢野健太郎の『アインシュタイン伝』[4] によれば,アインシュタインが1897 年にETH に入学したとき,まだミンコフスキーは33 歳の若さだが,数学の教授であった.しかし,ミンコフスキーはあまり講義が上手ではなかったらしい.ミンコフスキーのせいかどうかはわからないが,アインシュタインはこのごろ数学に興味を失い,物理学への道を進んだという.
アインシュタインは学校の講義にはあまり出席をせず主として友人のノートを借りて勉強をして,試験をクリアしたらしい.1905 年にアインシュタインが特殊相対性理論の論文を発表したとき,ミンコフスキーが「あのさぼりのアインシュタインが· · · 」と言ったとかものの本にはあるが,これは話を面白くしようとした後世の人の作り話かもしれない.だが,講義にアインシュタインが出席しなかったことはあながちうそではない.
ところがその3 年後の1908 年に当時ゲッチンゲン大学にいたミンコフスキーが特殊相対性理論の見事な数学的解釈を与え,以後数学者にも物理学者にも近づきやすいものとしたのは歴史の皮肉であるかもしれない.
特殊相対性理論を空間と時間の4 次元幾何学として展開した一端はすでに上に述べた通りである.そして残念なことにこの論文の発表のつぎの年の1909 年にはミンコフスキーは亡くなってしまった.
リードの著作『ヒルベルト』[5](岩波書店)にはケーニヒスベルク大学在学中からヒルベルトの学友であった,ミンコフスキーのことが少なからず出てくる.
3.5 おわりに
物理学や数学ではミンコフスキーはミンコフスキー空間という名で残っており,忘れられてはいないが,それでも相対性理論の提唱者として知られている,アインシュタインほどには一般に知られていない.いつかミンコフスキーを一般の方々に紹介したいと思っていたが,その機会を得ることができて幸いである.
今年は2013 年で1909 年にミンコフスキーが亡くなってから100 年以上が経ってしまった.この特殊相対論を幾何学的に考えるというアイディアはアインシュタインが一般相対性理論を幾何学的に考えるという端緒を与えることにもなった.その意味でも意義深いアイディアであった.