どんないい本でも索引のない本の利用価値は半減する。
これは心にとめておかなくてはならない。とは言いながら、自分の書いたはじめての著書『数学散歩』(国土社)には索引をつけていなかった。だから、これは自戒の念を込めての繰り言である。
偉い著者の先生の本に「索引をつけて」と言えない編集者も多いのかとは思うが、それなら編集者が索引をつけるくらいの見識がほしいと思う。
宇沢弘文先生の数学の本がある。『好きになる数学入門』(岩波書店)全6冊だが、これにも索引がない。とてもいい本だとは思うのだが。私の持っている版は新装版だが、これに索引をつけてくれていたら、本の有効性はさらにアップしただろうに。この本の場合は高校生の学習者にしか頭がいっていない例であろうか。
目次のない本はないが、それだけではやはり有用ではないと思う。もう一冊あげると『ピタゴラスからオイラーまで』(海鳴社)も有用な本だと思うのだが、惜しいことに索引がない。これは本を読まないで索引でいろいろ検索することの多い私の注文である。
ちなみに、『ピタゴラスからオイラーまで』ははじめから終わりまできちんと読んでいる。もっとも読んだ順序は始めから順に読んだわけではないが。私は数学の本でも関心のあるところから、読むようにしている。もちろん読めればの話ではあるが。
遠山啓『数学入門』(岩波新書)の上巻を1989年に読み返したときに、最終章の「複素数」から順に逆戻りに1章づつ読んだ記憶がある。初版は1959年でこのとき私は大学生の2度目の一年生だった。そして、下巻も1989年に始めて読んだと思う。
『好きになる数学入門』に話をもどせば、この本で数学を学ぶ高校生の学習者はそれほど多いとは思えない。
だとすれば、この本は高校生の学習者向けを装った、一般人向けの数学の書ということになろうか。それなら、私のような要望が出てくるのを理解していただけるであろう。