広東省の新聞「南方週末」が記事を宣伝省に書き換えられたということが新聞の話題になった。それを釈明するような声明を多くの中国の新聞社が半ば強制的に出さされたとか新聞で読んだが、北京の新聞「新京報」だけがこの釈明を出すことに抵抗をしているとこれも新聞報道になった。
そして、これに従わないと廃刊だとか新聞社の閉鎖だとか当局に脅しをかけられているという。それに反抗して編集長が辞職をするとかしないとか。
もちろん、これは立派な行為ではある。が、日和見かもしれないが、ある程度は突っ張ることは必要だが、限度を越えて突っ張らないことが必要ではないかと思っている。
これは記者とか編集長が辞職して記事がまったく書けないどころか、生活にも困るという事態は避けた方がいいという判断からである。
確かに時代を作っていく人たちの献身的な尽力で社会がよくなっていくことは間違いがないが、それでもあまりに大きな犠牲は決して得策ではないのではないと思っているからである。
そうかといって自分の地位を守るだけに汲々とすればいいと思っているわけではない。ある毅然とした態度は必要であるが、小林多喜二に見られたような、官憲によって虐殺されるという事態は避けるべきだという判断である。もっとも詩人の高村光太郎に見られたような当局への迎合は見苦しい。最低、沈黙を守るというぐらいの抵抗はするべきであろう。
それはともかく、10年の時間を経ると10年前には考えられなかったようなことが実現するものである。そういう時代というか歴史を見通すことも大切な判断ではないかと思う。
今日の新聞によれば、新聞「南方週末」の宣伝省への抗議は受け入れられて、記事の事前検閲は宣伝省から取り下げられたらしい。それで、徐々に記者たちも元の職場に復帰をしているらしい。これは中国では過度に政治的な判断が入っているためらしい。
これからも中国に限らず、日本においても波穏やかということはないだろうが、こうやって少しづつ時代は社会は変わっていく。だが、果たして日本の社会は逆コースから戻れるのだろうか。心配なことである。