神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

柏木村

2018-03-17 06:59:27 | 神田川5

 「柏木村は、村内円照寺境内桜は長元年中(1028~37年)柏木右衛門佐頼季と云者植し由方々この村名を負へりなと土人の伝へり、円照寺桜樹の條見るへし、『小田原役帳』に本住坊寺領十二貫文、柏木、角筈共と載せ、村民杢衛門か蔵せる北條氏より出せし文書にも柏木角筈と記たり・・・・昔は二村を合て一村の如く処せしと見ゆ、東は百人組同心組屋敷、西北は神田上水堀を隔て多摩郡中野村、南は当郡角筈村にて、東西四町、南北十町余、用水は神田上水を引沃く、村の南に青梅道かゝれり、幅五間、・・・・又村内町並となりし地段別六町六段五畝、延享二年、町奉行支配に属し、成子町淀橋町と唱ふ」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は淀橋町当時の町、大字境です。

 明治22年(1889年)、柏木村は角筈村とともに南豊島郡(のち豊多摩郡)淀橋町を形成、その大字となりました。昭和7年(1932年)には東京市の拡大に伴い、淀橋、大久保、戸塚、落合の四町が合併、淀橋区となった際には柏木1~5丁目となり、同22年の新宿区の発足以降もそのままでしたが、新住居表示によって西新宿7、8丁目、北新宿1~4丁目となり、行政区画から柏木の名前は失われてしまいました。なお、明治39年(1906年)開業のJR東中野駅は、当時は柏木駅と名乗っていました。それが、隣接しているとはいえ中野町にあったため、大正6年(1917年)に東中野駅に改称、現在に至っています。

 

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    ・ 鎧神社  「鎧明神社 村の鎮守なり、平将門滅亡の後其鎧を祭りしと云、或は秀郷着領の鎧を祭りしとも云伝ふ、円照寺持」(「新編武蔵風土記稿」)

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    ・ 円照寺  「新義真言宗、田端村与楽寺末、医光山瑠璃光院と号す、・・・・開山開基等すへて古きことを伝へす、春日局施主となりて再建すと云ふ」(「新編武蔵風土記稿」)