goo blog サービス終了のお知らせ 

神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下高田左岸2

2018-08-09 06:01:29 | 落合・目白崖線

 目白崖線下の道(新井薬師道)を東に向かっています。千登世橋中学前を通り過ぎ、学習院下交差点で明治通りを越えます。明治通りは昭和2年(1927年)に、東京で最初の環状道路(環状5号線)として計画され、昭和7、8年までには、神田川流域、千登世橋区間は開通していました。→ 「段彩陰影図」からも見て取れる、崖線をえぐる谷筋を利用、目白通り下は切通しました。なお、現在通りの東側を並行している都電荒川線ですが、当時は王子電車といい、昭和3年に鬼子母神、面影橋間が開通しています。

 

Takadas2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0428b 0428a

    1. 引き続き学習院下の新井薬師道を東に向かっています。 

0428c

    2. 左手前方は千登世橋中学です。キャンパスの北側に後退する→ 崖線下には、昭和30年代まで池がありました。 

0428e 0428d

    3. 明治通りを越えます。右写真は池袋方向で、千登世橋の奥にはサンシャイン60が見えます。 

0428f

0428h 0428g

    5. 高南小を過ぎると、左手前方に目白不動のある金乗院が見えてきました。 

下高田左岸

2018-08-08 06:53:13 | 落合・目白崖線

  → 「下高田村絵図」に描かれた溜池からの流路は二つで、そのまま下落合村との境を流れて南下するもの、そして、左折して崖線下の道(新井薬師道)に沿うものがあり、薬師道から神田川にかけて広がる田圃を灌漑していました。どちらも、明治以降の地図には描かれておらず、その詳細は不明ですが、大正に入るまで田圃は存続していたので、田用水も機能していたものと思われます。ここでは江戸時代から変わらぬ新井薬師道沿いに、下高田村の田圃の北縁を東に向かいます。

 

Takadas1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0427b 0427a

    1. 学習院下に戻り、新井薬師道をあらためて東に向かいます。段丘の際らしく蛇行しています。 

0427c

    2. 「村絵図」では右手に水路が沿っていますが、明治以降の地図で確認できないため、青点線は書き込んでいません。 

0427e 0427d

    3. テニスクラブ前を過ぎると、左手のフェンスの奥には学習院の馬場などがあり、さらにその奥が崖面になっています。 

0427g 0427f

    4. 「村絵図」の流路はこの先で右折、クネッた道沿いを南下しており、向かうのは今の源水橋付近です。 

 <字階子田>  新井薬師道と神田川の間は田圃が広がっていましたが、明治に入り高田村大字高田当時の字からもそのことが読み取れます。上流から列挙すると、八反目、階子(はしご)田、後(うしろ)田、下田で、うち、今回の前半の右手が八反目、後半が階子田でした。「新編武蔵風土記稿」の小名には収録されていませんが、階子田に関しては、「下高田村絵図」の中に「是より橋子迄百九拾間」、「橋子田百五間」といった書き込みがあります。なお、「風土記稿」に収録された田つながりの小名は、五段田、宮田、後田で、あと「村絵図」に砂利取の書き込みのある一帯は砂利場でした。

 


金久保沢

2018-08-07 06:00:33 | 落合・目白崖線

 下高田村の溜池の水源は、金久保沢の湧水でした。金久保沢は下落合、下高田両村の境(現在は新宿区と豊島区の境)を画する谷筋で、「新編武蔵風土記稿」にも下高田村の小名として、金窪沢の表記で収録され、明治に入り高田村大字高田の字に引き継がれました。→ 「段彩陰影図」の左端にあって、JR山手線の通り道になっているのがそれで、結局この区間の山手線は、高田馬場駅は清水川、目白駅は金久保沢の、二つの谷筋を利用しているのが分かります。谷筋に「金(かね)」がつくケースは多々あり、鉄分が多く赤色を呈している場合、この字を当てることが多いようです。

 

Kanekubo1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

0426b 0426a

    1. 新井薬師道から北上します。途中左手に入る道が新宿、豊島の区境になっています。   

0426c

    2. 北上し目白駅が近くなるにつれ、築堤上の山手線との高低差が徐々に小さくなっていきます。

0426e 0426d

    3. 左手は目白駅のプラットホームです。このあたりの高低差はありません。  

0426g 0426f

    4. 目白通り手前です。右写真は右岸の豊坂稲荷前から目白駅舎方向で、間の建物は一段低くなっています。 

0426h

    5. 左折した谷頭付近です。明治末の「郵便地図」はこの右手に池を描いています。 

下高田村用水

2018-08-06 06:20:29 | 落合・目白崖線

 下高田村の水利に関し、「新編武蔵風土記稿」は特に触れず、「神田上水堀 村の南を流る川幅七八間」と書くのみです。ただ、神田上水に堰を設け、田用水としていたことは間違いなく、「上水記」(寛政3年 1791年)がリストアップする用水利用の町村の中にも、小日向町、関口町、戸塚村と共に高田村の名前があります。これら町村が使用料を納めていない理由を調査したもので、戸塚、高田村については「上水ニ不相成候以前より用水ニ引取候ニ付き」、上水となってからも使用料を納めていない旨上申しています。

 

Takadaezu1

    ・ 「下高田村絵図」  東京都公文書館に収蔵されている正徳6年(1716年)の「高田村絵図」をもとに、イラスト化したもので、例によって田用水を強調しています。

 下高田村の灌漑用水としてもう一つ、村自前の溜池がありました。上掲「村絵図」や→ 「東京近傍図」が、下落合村との境に描き、現在は溜池の機能こそ失われましたが、学習院大学構内に保存されています。「若葉の梢」(寛政10年 金子直徳)も「溜坂と云は、当村の用水の水溜の池あれば云。雑司谷より堀の内へ行、村中小道の坂也」と言及しており、「新編若葉の梢」(昭和33年 海老沢了之介)はこれを敷衍して、「砂利場一帯の水田に、灌漑水を送る溜池」について詳細しています。

 

0425a

    ・ 溜池(血洗いの池) 学習院下交差点から北に百数十メートルの、学習院大キャンパスの南西角の茂みの中に水をたたえています。(十年ほど前の撮影です。)

 「新編若葉の梢」は続けます。「その池の水門の鍵を預って、水を調整する世話役があって、これを鍵番と呼んだ。池の南の低いところに土手を築き水門が造られてあった。鍵番は新倉氏と定められ、一年間の手当金七円(明治三十年頃)であった。現在も学習院内の西に、きれいな水を漫々とたたえている。豊島区内の池らしい面影を残している唯一のものかもしれない。」 その大きさは明治11年(1878年)の「東京府村誌」の数字で、東北51間南北49間、周囲3町4間、およそ2段6畝(≒2600㎡)でした。なお、溜池は「血洗いの池」と通称されていて、堀部安兵衛が高田馬場で助太刀した帰り、この池で刀を洗ったとの伝説がありますが、学習院のHP内、院史小事典によると、明治末に学習院の構内になってから流布したもののようです。 


下高田村

2018-08-04 06:19:14 | 落合・目白崖線

 「下高田村は日本橋より行程一里半、按に高田は当郡及多摩郡にも跨し地にて、古は上下の別なく通して高田とのみ称せり、『小田原役帳』に赤沢千寿十五貫文江戸高田内、・・・・高田内葛谷岸分等みえて殊に大村なり、其後上下二村となり及葛谷分村せし年月は詳にせざれど、正保改の国図等には既に今の如く分ちて上村を多摩郡に属し、下村を当郡に属したり、四境東は関口村及武家屋敷、南は下戸塚村源兵衛村、西は下落合村北は雑司ヶ谷村、東西十町南北五町余、家数百十軒」(「新編武蔵風土記稿」) なお、村名は下高田村が本来ですが、高田村との記述も随所に見られ、また明治に入り雑司ヶ谷村等と高田村を形成したため、ここでは下高田村、高田村の記述が併存します。 

 

Takadam13

    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、同細線は高田村当時の大字境です。

 「新編武蔵風土記稿」はさらに、「村の北寄に目白辺より練馬村辺への往還掛れり、又南北へ貫ける一條の道は古の奥州道と云」と続けています。前者は清戸道とも呼ばれた現目白通りで、後者はこれまでも度々登場、→ 「長禄年間江戸図」にも描かれた、高田馬場から面影橋を渡り、雑司ヶ谷の鬼子母神へと向かう古道です。下高田村の中央を南北に縦断していて、村の鎮守の氷川神社や南蔵院、金乗院などの古刹は皆、この古道に面しています。

 

0424a

    ・ 氷川神社  「氷川社 村の鎮守なり、南蔵院持在原業平を祀ると云」(「新編武蔵風土記稿」) 一方「江戸名所図会」は、「土俗あやまって在原業平および二條后の霊を祀るといふ、甚非なり」としています。 

 ところで、下高田村の地名由来ですが、「新編武蔵風土記稿」にもあるように、かっての高田は多摩郡上高田村(現中野区上高田)をも含む広域地名で、名前の由来は高い台地上にある田という、地形由来が有力です。これに対して、「御府内備考」は「往古越後家高田御前様馬場下辺に御用屋敷有之当時馬場は地所御遊覧所に相成候に付此辺高田村と相唱候由申伝御座候」と、高田馬場の地名由来でも紹介した説を収録しています。なお、高田御前は家康の六男、越後高田藩松平忠輝の生母茶阿局のことです。

 


落合・目白崖線2

2018-08-03 06:17:55 | 落合・目白崖線

 JR山手線を越えると、旧(下)高田村に入ります。それに伴い落合・目白崖線も後半の目白部分で、「段彩陰影図」の右端で音羽通りの谷筋に分断されるまでです。最初は引き続き新井薬師道沿いに東に向かいます。左岸段丘の際にあって、左手は尾根筋を目白通りが縦断する台地、右手は神田川にかけて、高田村大字高田当時、八反目、階子田、後田と名付けられた水田地帯でした。なお、当地は二十三区内有数の急坂が集中しており、のぞき坂、宿坂、富士見坂などが有名です。

 

Gaisen2

    ・ 「段彩陰影図 / 落合・目白崖線2」(1/18000)  オレンジ線は区境で、右上隅から時計回りに文京、新宿、豊島の各区です。 

 後半も後半になると、下高田村から関口村になります。現行の住居表示では豊島区から文京区です。この区間の左岸段丘は神田川とほぼ接し、最も崖線らしい様相を呈します。江戸時代には肥後熊本藩細川家など大名旗本の屋敷や、目白不動で有名な新長谷寺などの寺院が集中し、明治になると、山県有朋をはじめとする元勲が居を構えました。その名残で宅地造成を免れたところも多く、公園などになっていて斜面上の雑木林、斜面下の湧水も一部健在です。

 

0803a

    ・ 関口台  目白通り椿山荘前の陸橋から見た関口台、あるいは目白台と呼ばれる左岸台上です。手前から椿山荘、野間記念館、蕉雨園、永青文庫などの茂みが広がっています   

 <目白>  目白の地名由来としては、目白不動との関連で語られることが多く、三代将軍家光が目黒に対して目白と呼ぶよう命じた、参拝客がめじろ押しであったから、四ないし五色不動のうち、目の白い不動だからなどがあります。一方目白不動とは無関係に、馬の集散地であり白馬を多く出したので、馬白から転じたとの説もあり、これには、正八幡神社前にあった関口駒井町や、駒留(駒塚)橋などの付近の地名が援用され、また、幸神社にも黄金の駒の伝承があります。いずれにしても、旧関口村に属する落合・目白崖線の東端、現文京区関口付近が本来の目白で、JRの目白駅や学習院周辺の豊島区目白は、歴史的には何の関係もないところです。

 


下落合左岸4

2018-08-02 06:31:54 | 落合・目白崖線

 新井薬師道に戻り、おとめ山公園先の田用水を追って東に向かいます。明治時代の字(丸山と東耕地)が示すように、左手は段丘、右手は田圃だったところですが、ほどなく山手線をガード(新井薬師道ガード)で越えます。すぐに学習院下交差点の新宿、豊島の区境です。江戸時代の下落合、下高田村の村境を引き継いでいて、また御府内を画す朱引もここに引かれていました。というわけで、落合・目白崖線のうち前半の落合崖線にあたるのはここまでです。

 

Simoochis4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

0422b 0422a

    1. 新井薬師道に戻ります。左手はおとめ山公園の東南角にある入口です。   

0422c

    2. 左カーブでやや北寄りに向きを変えます。こうした蛇行は段丘の際に設けられた古道のパターンです。

0422d

    3. ここは右カーブです。その先に山手線のガードが見えてきました。  

0422e

    4. 新井薬師道ガードです。山手線(当時は日本鉄道品川線)は明治18年(1885年)の開業当初から、神田川の谷筋を築堤で越えていました。 

0422g 0422f

    5. ガードの先は学習院下交差点ですが、ここが(下)高田村との境で、現在は新宿、豊島の区境です。 

丸山谷2

2018-08-01 06:10:48 | 落合・目白崖線

 おとめ山公園の弁天池(下の池)に、北側から注いでいた流れをさかのぼります。といっても、途中は宅地造成の結果、水路はもとより谷筋も失われました。一方、谷頭は細長い窪地となっていて、不動谷の先端に匹敵する特異な造形を残しています。相馬家が日本庭園風に整備し、時折一般にも公開していたところで、「林泉園」と呼ばれていました。若山牧水の「東京の郊外を想ふ」という小文のなかでは「落合遊園」となっています。「それこそ誰も知らない遊園地で、窪地の四方をば柔かな雜木林がとり囲み、中には小さな池があり、池の中の築山には東屋なども出來てゐた。」

 

Maruyama2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Maruyas22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0421a0421b

    1. 相馬邸正門前を通る道路の先です。谷頭からの流れは暗渠でこの道路を越え、小川となって弁天池に向かっていました。

0421c

0421d 0421e

    3. 大正から昭和にかけて運動場(テニスコート)があったようで、「空中写真」の更地もその名残かもしれません。 

0421f

    4. 谷筋の先端部分です。なお、「豊多摩郡誌」が「字丸山の北端より清水湧出し」と書いていますが、この通りが字丸山の北の境を画していました。 

丸山谷

2018-07-31 06:12:11 | 落合・目白崖線

 おとめ山を流れ下る小川に関し、「豊多摩郡誌」は次のように述べています。「丸山谷流  大字下落合字丸山の北端より清水湧出し、流水屈曲して田用水となり、東耕地に至りて神田川に入る。」 → 「段彩陰影図」の山手線よりにある谷筋で、大きくカーブして南下するところを「流水屈曲して」」と表現したのでしょう。谷頭は二つあり、一つは藤稲荷の北側にある短いもので、西側のおとめ山公園内に保存、公開されており、「東京の名湧水57選」の一つとなっています。もう一つは右カーブしているほうで、途中宅地造成によって谷筋は分断されています。二つの谷頭からの流れはどちらも、弁天池(下の池)にいったん注ぎ、藤稲荷前で左岸流に合流していました。

 

Maruyama1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

0420b 0420a

    1. 薬師道からおとめ山方向です。流れは右手に、→ 「図会」の鳥居や垢離場は左手にありました。

0420d 0420c

    2. 弁天池(下の池)です。ここに北側と西側からの合流がありました。まず西側からのものをさかのぼります。 

0420e

    3. 西側の区画にある細長い池です。2.と3.の間には蛍の→ 飼育室もあります。

0420g 0420f

    4. 西側の谷頭です。ここの湧水は小川となって3.の細長い池に流れ込んでいます。

0420h

    5. 弁天池の北側の区画で、官舎だったところです。谷筋に沿ってはけ水路が設けられ、雨水は弁天池に注ぐ設計になっています。

おとめ山

2018-07-30 06:06:18 | 落合・目白崖線

 藤稲荷の祀られている左岸台上はおとめ山と通称されています。漢字に当てると御留め山で、江戸時代将軍の狩猟場だったことから、一般の立ち入りが禁止されていたのがその由来です。→ 「下落合村絵図」当時は、旗本酒井家の屋敷地であり、明治に入り近衛公爵家が所有、大正の初めには南西の一角を相馬子爵家が入手します。相馬家は日本人最初の公園デザイナー、長岡安平に依頼して、回遊式庭園を築造、おとめ山公園の池や流れの配置は、この時のものが元になっているようです。

 

Otomet5

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 早稲田」  おとめ山公園を薄緑で、公園内の池をブルーで重ねています。公園の色に濃淡がありますが、薄緑で塗りつぶしたのが既存のおとめ山公園で、その外側の枠は平成26年までに整備され公開されました。

 上掲「地形図」は近衛、相馬両家が二分していた時代です。戦後曲折を経て、相馬家の所有地の大半は国有となり、当時の大蔵省は官舎とする予定でしたが、住民運動の結果その一部が公園となり、昭和44年(1969年)に開園します。そして今回、残りの官舎だったところも整備されました。一方、東半分の近衛家の所有だったところは、大正から昭和にかけて分譲され、近衛町という高級住宅街へと変貌しました。

 

0419a

    ・ おとめ山公園  東南角にある新井薬師道に面した区画です。公園内の小川はこの上にある下の池(弁天池)にいったん集められ、この区画を流れ下るように設計されています。  

0419b

    ・ おとめ山公園  二つある谷頭のうち西側のものです。 ここは「東京の名湧水57選」の一つで、下流に細長い池を形成、落合蛍の復活を目指す飼育室を経て下の池に流れ込みます。 

藤稲荷

2018-07-28 06:03:48 | 落合・目白崖線

 新井薬師道は藤稲荷下に差し掛かります。「藤稲荷と云山上に社あり、喬木生茂れり近き頃鳥居の傍に瀧を設て、垢離場とす、薬王院持」(「新編武蔵風土記稿」) 東山稲荷が正式の名称で、藤(富士)稲荷と通称されました。下掲「図会」はその藤稲荷下の新井薬師道を、今回の用水共々描いています。右隅の鳥居の脇には、「風土記稿」のいう垢離場が描かれ、小さな滝も設けられています。なお、「図会」からはよく分かりませんが、明治末の「郵便地図」などでは、坂の東側を流れ下る小川があり、左岸流に合流していました。

 

Hujizue1

    ・ 「江戸名所図会 / 藤森稲荷社 東山いなりともいふ」  「藤杜稲荷社 同所岡の根に傍てあり。又東山稲荷とも称せり。霊験あらたなりとて頗参詣の徒多し、落合村の薬王院奉祀す」

0418a

    ・ 東山稲荷境内  新井薬師道からのショットで、正面右手に赤い鳥居がチラッと見えています。数年前の写真で、現在はマンションに阻まれ薬師道からは見通せません。 

0418b

    ・ 東山稲荷社殿  第二次大戦末に焼失し、昭和28年(1853年)に現在地に再建されました。「図会」の場所より数十メートル北西寄りです。 

 <落合蛍>  「此地は蛍に名あり、形大にして光りも他に勝れたり、山城の宇治、近江の瀬田にも越て、玉の如く又星の如くに乱れ飛で光景最奇とす、夏月夕涼多し」 これは「江戸名所図会」本文の引用ですが、→ 「江戸名所図会 / 落合蛍」には、「氷川」「田島橋」「上水川」の書き込みがあり、うち「上水川」は神田川のことです。氷川社や田島橋との方角、距離感から見て、藤稲荷下から神田川にかけての風景と思われ、段丘下の道は新井薬師道です。(左上には「永正十三年正月後奈良院御撰何曽(ナソ)  秋の田乃露おもげなるけしきかな 蛍」とありますが、稲の穂の垂れる様子から「穂垂る」、「蛍」という謎かけです。)  

 


下落合左岸3

2018-07-27 05:53:06 | 落合・目白崖線

 以下は下落合村の鎮守、氷川神社に関する「江戸名所図会」本文の記述です。「氷川明神社 同申酉の方、田島橋より北、杉林の中にあり。祭神奇稲田姫命(くしいなひめのみこと)一座なり。是を女体の宮と称せり。同所薬王院の持なり。高田の氷川明神の祭神素盞鳴尊(すさのおのみこと)なり。よって当社を合せて夫婦の宮とす。土俗あやまって在原業平および二條后の霊を祀るといふ、甚非なり」 その氷川神社前で、田用水は新井薬師道に再び沿い、落合崖線下を東に向かいます。

 

Simoochis3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0417a

    1. 氷川神社の先で、左手からの薬師道に再び沿うところです。なお、右手に向かうと田島橋です。   

0417b

    2. 水路は通りの左手の段丘沿いにありました。奥の左手は落合第四小学校です。

0417d 0417c

    3. 相馬坂下です。明治末におとめ山一帯を所有した相馬邸に向け切り開かれた坂です。  

0417e

    4. 左カーブで段丘の際を回り込みます。このあたりから右手に、本流との連絡水路を描いている地図もあります。 

0417g 0417f


新井薬師道

2018-07-26 06:49:36 | 落合・目白崖線

 西ノ橋を通る古道(新井薬師道)と並行する左岸流に戻ります。といっても共に新目白通り下に埋没し、正確にたどることはできません。途中、直進する左岸流に対し、薬師道のほうは左折、右折のクランクで北にシフトし、薬王院前を通り、両者が再び出会うのは氷川神社前です。今回は痕跡のはっきりしない田用水といったん分かれ、新目白通りから北に入り、薬王院前から氷川神社にかけての新井薬師道を歩きます。

 

Ochizue1

    ・ 「江戸名所図会 / 落合惣図」  書き込みは活字に置き換えています。なお、ほぼ同範囲にある「明治42年測図」は→ こちらでどうぞ。

1014a

    ・ 新井薬師道  下落合歩道橋下で新目白通りから離れ、薬王院へと向かいます。正面奥の茂みは薬王院境内で、新井薬師道に面したその山門は→ こちらでどうぞ。  

1014b

    ・ 新井薬師道  薬王院前で右折して東に向きを転じ、氷川神社境内の北側に沿います。右手奥の茂みは氷川神社、手前を左折すると→ 七曲坂です。 

 <七曲坂>  「左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数廻なればかく唱ふ」(「新編武蔵風土記稿」) 七曲はまた中井とともに、村を二分する小名でもありました。ところで、「若葉の梢」の作者、金子直徳には「富士見茶屋」という小文がありますが、以下はその中の七曲坂の由来についての記述です。「頼朝公和田戸山に御在陣の時、敵の軍勢をはかり給はんとて、七まがりに坂を開かせ給へりと也。上は鼠山、西は玉川と猪の頭の落合に行、柏木ゑもん桜へも近し」 もっとも、「若葉の梢」では「いかにも覚束なき説なり後人糺給へ」と、その信憑性に疑問を投げかけています。

 


聖母坂3

2018-07-25 06:27:55 | 落合・目白崖線

 「諏訪谷流 大字下落合本村旧諏訪神社社地付属山林より清水湧出し、流れて田用水となりまた農作場の洗場となり、流れて妙正寺川に入る。」(「豊多摩郡誌」) この「農作場の洗場」は前回UPの→ 「大正10年第二回修正」には描かれていませんが、東向きにカーブした谷頭付近にあったようです。その後、大正末から昭和の初めにかけて、宅地造成の過程でカーブ手前へと場所を変え、コンクリート製の洗い場兼プールとなりました。「十メートル四方ぐらいのコンクリート製の溜め池があった。近所の農家の野菜の洗い場であった。夏、子供達の水遊び場でもあり、湧き水なので水温が低く、唇を紫色にして、ふるえながら泳いだ。」(「おちあい見聞録」 平成元年 コミュニティ「おちあいあれこれ」)

 

Seibosaka3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

Seibos22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。画面中央に写っているのが洗い場兼プールです。

0415a

    1. 聖母坂の中腹から坂上にかけてのショットで、左手は聖母病院の建物です。諏訪谷の水路は通りの右手にありました。

0415b0415c

    2. 聖母坂通りの一つ東側の路地で、プールのあったのはこの左手です。右写真は右手崖上から見下ろしています。

0415d

    3. 谷頭はこの右手にあり、そのほぼ中央に最初の洗い場が設けられていました。 

 <聖母病院>  聖母坂、聖母坂通りの名前の由来となった聖母病院は、昭和4年(1929)年にマリア奉仕会(のち聖母会)によって建設着工され、同6年に開院しました。二つの谷頭に挟まれた小高い丘を造成、開院当時の診療科目は内科、小児科、外科など5科目で、病床数は72床でした。(現在は15科目154床に拡大しています。)二つの尖塔が特徴の→ 旧館は、開院当時からのもので、東京都選定歴史的建造物に指定されています。なお、目白通りまで坂が切り通されたのは、聖母病院の開院直後のことです。

 


聖母坂2

2018-07-24 06:19:55 | 落合・目白崖線

 聖母坂西側の谷頭は西ヶ谷と呼ばれていました。崖上の西坂と同様、本村の西端にあるのが名前の由来です。この西ヶ谷の湧水を水源とする小流れに関し、「豊多摩郡誌」は次のように述べています。「西ヶ谷流 大字下落合本村西端竹木の雑林中より清水湧出し、流れて田用水となり、諏訪谷の流れと相合して妙正寺川に入る。」 明治末の「郵便地図」にも水路が描かれていますが、昭和の初めの聖母坂の開通や宅地造成で、聖母坂に近い後半部分は失われてしまいました。わずかに谷頭の底にある道路付近に、かっての名残を求めることができるだけです。

 

Seibosaka2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Seibot10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0414a

    1. 西ヶ谷の谷頭の底にあるのは、聖母坂西側のこの通りですが、流路と一致するかは不確かなので、いつもの青点線は書き込んでいません。 

0414b 0414c

    2. 聖母病院の関連施設の前です。道路は左カーブ、次いで右カーブとくねりながら北上します。

0414d 0414e

    3. 道路は崖面に沿いますが、右写真のように崖面は右手にもあり、その上は聖母病院、聖母坂通りです。  

0414f 0414g

    4. 上り坂に差し掛かります。右写真は坂上から振り返っての撮影です。