神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下高田村用水

2018-08-06 06:20:29 | 落合・目白崖線

 下高田村の水利に関し、「新編武蔵風土記稿」は特に触れず、「神田上水堀 村の南を流る川幅七八間」と書くのみです。ただ、神田上水に堰を設け、田用水としていたことは間違いなく、「上水記」(寛政3年 1791年)がリストアップする用水利用の町村の中にも、小日向町、関口町、戸塚村と共に高田村の名前があります。これら町村が使用料を納めていない理由を調査したもので、戸塚、高田村については「上水ニ不相成候以前より用水ニ引取候ニ付き」、上水となってからも使用料を納めていない旨上申しています。

 

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    ・ 「下高田村絵図」  東京都公文書館に収蔵されている正徳6年(1716年)の「高田村絵図」をもとに、イラスト化したもので、例によって田用水を強調しています。

 下高田村の灌漑用水としてもう一つ、村自前の溜池がありました。上掲「村絵図」や→ 「東京近傍図」が、下落合村との境に描き、現在は溜池の機能こそ失われましたが、学習院大学構内に保存されています。「若葉の梢」(寛政10年 金子直徳)も「溜坂と云は、当村の用水の水溜の池あれば云。雑司谷より堀の内へ行、村中小道の坂也」と言及しており、「新編若葉の梢」(昭和33年 海老沢了之介)はこれを敷衍して、「砂利場一帯の水田に、灌漑水を送る溜池」について詳細しています。

 

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    ・ 溜池(血洗いの池) 学習院下交差点から北に百数十メートルの、学習院大キャンパスの南西角の茂みの中に水をたたえています。(十年ほど前の撮影です。)

 「新編若葉の梢」は続けます。「その池の水門の鍵を預って、水を調整する世話役があって、これを鍵番と呼んだ。池の南の低いところに土手を築き水門が造られてあった。鍵番は新倉氏と定められ、一年間の手当金七円(明治三十年頃)であった。現在も学習院内の西に、きれいな水を漫々とたたえている。豊島区内の池らしい面影を残している唯一のものかもしれない。」 その大きさは明治11年(1878年)の「東京府村誌」の数字で、東北51間南北49間、周囲3町4間、およそ2段6畝(≒2600㎡)でした。なお、溜池は「血洗いの池」と通称されていて、堀部安兵衛が高田馬場で助太刀した帰り、この池で刀を洗ったとの伝説がありますが、学習院のHP内、院史小事典によると、明治末に学習院の構内になってから流布したもののようです。