goo blog サービス終了のお知らせ 

神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

関根、丸山の水路

2017-02-07 07:38:52 | 善福寺川1

 前回UPの丸山橋からの→ 写真の左手に、数年前までプールが併設されていた関根文化公園がありますが、その周辺は「まま下」と通称されていました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は、丸山下の略か、あるいは「ママ」(ハケ、バッケと同様、崖線の意)のことかと書いています。いずれにしても湧水、雨水の溜まる低湿地だったのでしょう。区画整理後の路線図を見ると、吐け水路と思われる短い水路が三本設けられています。

 

Sekine1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

1125b1125a

    1. 山下橋の左岸です。右手が広くなっていて、水路跡を含んでいたと推測できます。

1125c

    2. 100mほどで上りに差し掛かる手前で終了です。関根の大堰で分岐した左岸流は、このあたりを流れていたのでしょう。

1125e1125d

    3. 次の丸山橋の左岸もやはり右手が幅広になっています。

1125f

    4. やはり100mほどで、右手の幅広が狭くなって終了です。

1125g

    5. 関根文化公園の対岸です。本流との合流地点の痕跡は失われていますが、それでも40mほどの路地が残されています。

1125i 1125h

    6. 段丘に突き当たった左右にも細長いスペースがあり、一帯の湧水、雨水を集めていたのでしょう。

丸山

2017-02-06 06:39:55 | 善福寺川1

 丸山もまた上荻窪村の小名でした。「新編武蔵風土記稿」には収録されていませんが、前回UPの→ 「上荻窪絵図」には、関根の対岸に書き込まれ、井荻村大字上荻窪の小字として引き継がれました。→ 「段彩陰影図」の右下で、善福寺川を北側に迂回させている台地を指しており、その形状からのネーミングと推測されます。ただ、「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)は「小名丸山の地名の由来は不詳ですが、この地の台地を城山と呼んでいますから、城の本丸から丸山と呼ばれたのではないかと推測しています」と書いています。

 

1124a

    ・ 善福寺川  奥に見えるのが関根橋の次の山下橋です。善福寺川は右岸の台地を迂回するため、左カーブ、右カーブのクランクで北にシフトします。 

1124b

    ・ 善福寺川  丸山橋から下流方向で、城山橋手前までの350mほどの直線コースです。→ 「東京近傍図」ではこれほどまでの直線ではなく、区画整理事業による改修の結果なのでしょう。 

1124c

    ・ 城山橋  善福寺川は右岸台地の北東角で右カーブし、その東側に回り込んで南下します。なお、山下、丸山、城山の三橋は区画整理時の架橋です。 

 <丸山と城山>  城山橋の名前の由来となった城山ですが、荻窪八幡神社の由緒書が、源頼義が奥州遠征の折(11世紀中ごろの「前9年の役」)、荻窪八幡に戦勝を祈願し、この地に館を設けたことから、いつしか城山と呼ばれるようになった、との伝承を残しています。なお、「杉並風土記」は丸山と城山を同じ右岸台地ととらえ、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)も城山の場所を西荻北2-34~37一帯と、右岸台地全体に広げて考えているようです。一方、西荻図書館前にある区教育委員会の解説プレートは、西荻北1-19・33一帯と、図書館のある台地の東側に狭める書き方になっています。いずれにしても城山は伝承の域を出ておらず、考古学的裏付けがあるわけではありません。    

 


上荻窪村用水

2017-02-04 07:06:52 | 善福寺川1

 「水元は遅野井村善福寺池より出、村の中程を東へ流るゝこと、凡そ十七八町許にして下荻窪村へ至る、川の幅は三間或は五六間、此川に堰二ヶ所を設け用水に引用ゆ、堰の在所一ヶ所は遅野井村界ひにあり、一ヶ所は村の中程にあり、又此水を引分て水車を設けり、村民郡蔵が持なり」(「新編武蔵風土記稿」) 堰2ヶ所とありますが、下掲「上荻窪村絵図」には、合計5ヶ所の堰が書き込まれており、一方、「星野家文書」(昭和58年 杉並区教育委員会)に収録された、明治初年の東京府知事宛て堰設置願いでは「草堰四ヶ所」です。ちなみに、同願いによると、善福寺川にかかわる上井草村の堰は「板堰壱ヶ所、草堰二ヶ所」となっています。(草堰 草や竹、土嚢などで出来た仮設のもので、氾濫を避けるため増水時は流れ、また灌漑期以外は撤去される。)

 

Kamiogiezu1

    ・ 「上荻窪村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「上荻窪村絵図」を元に、特に堰と田用水を強調するイラストとなっています。

 「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)の巻末に、「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」(昭和15年 梅田芳明)という一文が収録されています。その中で江戸末期以降の善福寺川の変遷に触れた項には、「當時堰が字関根に一ヶ所、又同じく字関根内であるが、少し下流の所謂團子山と稱した所に一ヶ所、字中田に一ヶ所、字本村に一ヶ所、合計四ヶ所に堰があって夫々から上堀がひかれ、流域の水田に水を供給しており」と書かれています。続いて橋にも話が及びます。「當時の此の川には橋に乏しく僅かに車の通れる物は字関根に一つ、東原より本村に通ずる所に一つ、合計二つのみで他は丸木橋が三ヶ所かけてあった丈であった。」

 

1123a

    ・ 善福寺川  関根橋から下流方向で、左カーブでやや北にシフトします。上掲絵図にはありませんが、天保8年(1937年)の絵図には同じ位置に橋が描かれ、すぐ下流で左岸に田用水を分岐しています。 

 ところで、上掲絵図の「字団子山」の場所と、「変遷誌」の「少し下流の」という表現の齟齬が気になりますが、それはともかく、字関根に幾つかの堰があったことは間違いありません。これは別の郷土史関係の文献ですが、関根大堰との表現も散見され、おそらく絵図で上流に3ヶ所設けられたうちの二番目が、上荻窪村の中心である中田、本村の水田を灌漑していたこと、また灌漑面積の広さからいっても、メインの大堰で、「風土記稿」に「堰の在所一ヶ所は遅野井村界ひにあり」とされるものだったのでしょう。

 


上荻窪村

2017-02-03 06:54:57 | 善福寺川1

 「上荻窪村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を失ふ、村名の起こりを詳にせず、正保の頃のものには上下の分ちなし、『元禄郷帳』には上下二村を出せり、されば此間に分れしことしらる、・・・・当所は御入国の頃伊賀の者給地に賜り、又もとより御料の所もあり、・・・・古は民家も漸く十二軒なりしが、寛文の頃二十八軒となり、今は三十四軒に至れり、村の広さ東西十三町、南北十町余、東は下荻窪村にて、西より北は遅野井村に接し、南は松庵、中高井戸、大宮前新田に及ぶ、地形平にして田は村の中程にあり、・・・・村の北堺ひに青梅村への街道あり、村内にかかること八町許、北は遅野井村より西の方井草村に達す、江戸日本橋まで行程四里にあまれり」(「新編武蔵風土記稿」)

 

Kamiom13

    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 布田驛」などを合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、オレンジ細線は井荻村当時の大字境で中央が上荻窪です。

1121a

    ・ 荻窪八幡  「新編武蔵風土記稿」に「八幡社 除地、二町三段三畝七歩、西の方遅野井村界ひにあり、村の鎮守なり」とあるように、その境内が上井草村と上荻窪村の北西境を画していました。

1121b

    ・ 光明院  「青梅街道の内にあり、慈雲山と号す」(「新編武蔵風土記稿」) こちらは村の東に位置し、下荻窪村との境にありました。

 <光明院>  慈雲山光明院、通称荻寺の創建伝承は、荻窪の地名由来ともかかわります。仏像を背負った遊行僧が当地に立ち寄ったところ、突然背中の仏像が重くなり、前へ進むことが出来なくなります。そこで、付近に自生していた荻を刈り、荻の草堂(荻堂)を編んで仏像を安置した、というものです。本尊の千手観音は南北朝期のもので、荻窪の観音様として近隣の信仰を集めました。寺の傍らを通り青梅街道に出る道筋が、観音押出し(おんだし)と呼ばれるようになったのは、この観音様とかかわっています。

 


上荻窪村境

2017-02-02 06:34:41 | 善福寺川1

 数回前にUPの→ 「上井草村絵図」で見るように、善福寺川は原寺分橋の下流で上井草村から上荻窪村に入っていました。これを前回UPの→ 「東京近傍図」でより詳細に見ると、原寺分橋下流のUターンの先で、善福寺川が上井草、上荻窪の境になっていたのが分かります。そして、Uターンを抜け上荻窪に入って最初に架かっていたのが、橋名は不明ですが現在関根橋と呼ばれているものです。なお、現行の住居表示は西荻、上荻といった地名を創設し、かっての村境を反映しないものになっています。

 

1122a

    ・ 善福寺川  原橋の次に架かるのが井荻橋ですが、その下流にUターンの頂点があります。なお、井荻橋の架橋は区画整理時と思われます。 

1122b

    ・ 善福寺川  駅通橋から下流方向で、この右カーブの前後が村境でした。駅通橋は西荻駅前に出る通りにあり、井荻橋に先行して架けられています。 

1122c

    ・ 関根橋  青梅街道と西荻駅を結ぶこの界隈のメインストリートに架かる橋です。ただ、「近傍図」当時の道は青梅街道まで一本道ではありませんでした。 

 <関根>  関根は「新編武蔵風土記稿」に「西の方にあり」と書かれている上荻窪村の小名で、明治に入り井荻村大字上荻窪の小字として、また、昭和7年(1932年)以降は杉並区関根町として引き継がれてきました。新住居表示実施に伴い、橋や公園の名前に残るだけですが、現在の上荻3、4丁目や西荻北5丁目の各一部に当たります。なお、地名由来については、次々回テーマの大堰との関連が推測できますが、「杉並の地名」(昭和53年 杉並区教育委員会)は、「地名の由来については、はっきりしないが小名として古くからあった地名である。善福寺川の流れに関係のある地名か、青梅街道に関係があるのか、或は付近の出山という古い土地(小名)に関係がある地名かも知れない」としています。

 


宿橋、原橋

2017-02-01 06:24:38 | 善福寺川1

 原寺分橋の次は宿(やどり)橋、そして原橋です。宿橋は昭和に入ってからの架橋なので、区画整理時のものなのでしょう。一方、原橋は大正末の地図に初出しており、第一耕地整理事業時のものと思われます。橋名の由来は一度触れたように、豊多摩郡井荻村大字上井草の小字が元で、宿(寺分宿)は左岸の、原は右岸の一帯を指していました。なお、区画整理後の路線図を見ると、宿橋の左岸から100m弱の小水路が合流しています。田圃を宅地造成した際の排水路と思われます。

 

1120a

    ・ 水路を含んだ道路  宿橋から左岸方向のショットです。右側が広くなっていて、こちらに水路を含んでいたのだと推測できます。 

1120b

    ・ 水路を含んだ道路  段丘に差し掛かるところで、右手の幅が狭くなって終了です。この間90mほどがかっての水田の幅でした。 

1120c

    ・ 善福寺川  下流方向で正面が原橋です。善福寺川はこのあたりから徐々に左カーブ、向きを南から東寄りに転じ始めます。 

1120d

    ・ 坂の上のけやき公園  原橋から上る右岸段丘上にあり、平成22年に開園しました。樹齢200年といわれる欅がメインの公園です。 

原寺分橋2

2017-01-31 07:23:09 | 善福寺川1

 原寺分橋下からは今なお豊富な水量の水が湧き出しています。「杉並の川と橋」の数字を引用すると、湧水量は平成12年10月の豊水期で毎分3100リットル、平成13年2月の渇水期で毎分1140リットルとあります。これを一日当たりに換算するとおよそ1600~4500トン、別の文献には一日平均3500トンとの数字もあり、千川上水からの助水7000トンや、善福寺池に放水されている地下水2000トンと比べても、その水量の豊富さに驚かされます。

 

1119a

    ・ 善福寺川  原寺分橋から下流方向です。内務省復興局の大正14年測図(1/3000)には、200mほど下流の原橋にかけての右岸に湿地や細長い池が描かれており、段丘からの湧水が源なのでしょう。

1119b

    ・ 原寺分橋下の湧水  上掲写真の右下隅に写っているものです。崖面から水が滴っているのはよく見ますが、このように地面から湧き出しているのは稀で、神田川水系ではここだけかもしれません。 

1119c

    ・ 井荻公園  原寺分橋から原橋にかけての右岸段丘斜面の半ばは、井荻公園(昭和45年開園 面積およそ4000㎡)となっています。この公園の存在が、湧水を守るのに寄与しているのでしょう。 

 <善福寺川の湧水>  かっての善福寺川は多くの湧水によって、その清流を保っていました。現在は流域の宅地化によってその大部分は失われましたが、今なお確認できる湧水リストが「杉並の川と橋」に収録されています。善福寺川関係のものは善福寺池の遅野井、イの八ガマをはじめ、原寺分橋下のものを含め、30ほどに上ります。「東京都湧水台帳」(平成2年)をネタ元に新町橋下の湧水もリストアップされていますが、現在は確認できません。なお、原寺分橋下と並んで有力な、大宮八幡下の崖面からの湧水は→ こちらでどうぞ。

 


石橋供養塔

2017-01-30 07:23:12 | 善福寺川1

 渡戸橋の橋供養の石碑と同じものが、原寺分橋のたもとにもありました。区画整理時に他の石碑とともに地蔵堂に集められ、現在は観泉寺に移されています。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)に収録された聞き取りのなかに、この石橋供養塔にまつわるものもあり、願主として名前の刻まれている浄誉善入という福寿庵(現善福寺)の僧が、江戸市中の托鉢で得た浄財を元に、渡戸橋、原寺分橋など村内七ヶ所に石橋を架け、各々に供養塔を建てたとの伝承が紹介されています。

 

Kamiiguezu1

    ・ 「上井草村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)収録の、制作年代不詳の「上井草村絵図」を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化、橋の所在を強調したものになっています。

 「杉並風土記」の聞き取りにある七ヶ所の石橋は、渡戸橋、地蔵前、新町の切通し、赤鳥居前、元宿、保久屋押出し、そして地蔵下(原寺分橋)です。これを「上井草絵図」や明治初年の「迅速測図」などから推測すると、善福寺川に架かる渡戸橋、原寺分橋を除くと、七ヶ村分水、ないしその支分水である新町口にかかわるもので、いずれも青梅街道沿いにあったものでしょう。(なお、村絵図に描かれた井草川関係の橋は、新町口からの助水に架かる無名橋、道灌坂下に架かる道灌橋、そして観泉寺前の通りに架かる現瀬戸原橋ですが、これは通りの改修があったため、現在とは位置がだいぶズレています。)

 

1118a
    ・ 地蔵堂  地蔵坂にあった北向地蔵などは、現在は観泉寺に祀られています。うち、右手の一番手前にあるのが、渡戸橋にあったのと同じ延享2年(1745年)銘の→ 石橋供養塔です。

 善福寺川関係を除く石橋供養塔ですが、最初の地蔵前は→ 「千川用水2 / 上井草村境2」で扱ったもの、次の新町の切通しは→ 「新町口」とのかかわりでしょう。赤鳥居前は上掲絵図には橋は描かれていませんが、青梅街道から井草八幡へ向かう参道に架かっていた太鼓橋、また、元宿は→ 「上荻窪村境」で扱った、七ヶ村分水が青梅街道の北側にシフトするところにあった通称、横切り橋と考えます。次の、→ 「 保久屋押出し」は前回も触れたように、女子大通りが青梅街道からの分岐するところです。

 


原寺分橋

2017-01-28 07:38:34 | 善福寺川1

 東京女子大前を通ることがその名の由来の、女子大通りに架かるのが原寺分(はらてらぶ)橋です。渡戸橋と並んで→ 「上井草村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれた古橋ですが、当時の橋名は何といったかは不明で、明治初年の「東京府志料」では「長一間二尺幅一間一尺」の無名橋、「豊多摩郡誌」(大正5年)では「川邊橋 構造石造 延長三間半幅員二間」となっています。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)には、地蔵橋の名称も収録されています。川辺橋の名前の由来は不明ですが、地蔵橋のほうは別項の地蔵堂、地蔵坂とかかわるものです。

 

0625a

    ・ 原寺分橋  直前にある荻窪中の学校専用橋からのショットです。専用橋といっても手前の井荻小構内橋と違って、こちらは通行可能ですが。 

 原寺分は共に豊多摩郡井荻村大字上井草の小字で、右岸にあった原と左岸の寺分宿の合成です。うち寺分宿は江戸時代の小名で「新編武蔵風土記稿」にも収録された、「寺分 南の方にて松菴村の界を云」と「宿 前(八町のこと)のつゞきにあり」の合成です。このように三つの字が関係した原寺分橋があるのに加えて、この橋の前後には(上流から)寺分(てらぶ)橋、宿(やどり)橋、原(はら)橋もある丁寧さです 

 

0625b

    ・ 女子大通り  原寺分橋から右岸台上に至る坂は地蔵坂、あるいは、寺分坂、お立場坂とも呼ばれました。お立場は前回紹介した御成道とセットのネーミングと思われます。 

 <地蔵坂の地蔵堂>  坂を上ると地蔵坂交差点ですが、その手前の左手(南側)には、坂の名前の由来となった地蔵堂がありました。享保17年(1732年)10月に建てられた舟形の地蔵菩薩が祀られていて、北を向いていたことから、「北向地蔵」と通称されていたものです。その他にも、貞享2年(1685年)銘の庚申塔、文政7年(1824年)銘の馬頭観音なども祀られていました。後者は元は東京女子大前にあり、「東江戸、西ふちう」と彫られて道しるべとなっていました。東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の境にあったことから、「三郡境の馬頭様」と呼ばれていたそうです。なお、当所が吉祥寺方面から青梅街道に出る交通の要所だったことは、→ 「千川上水2 / 保久屋押出し」で触れたところです。


御成道3

2017-01-27 07:08:14 | 善福寺川1

 右岸段丘に沿う通称、御成道と並行する水路を追っての三回目で、井荻小学校の裏まできました。井荻小や南隣の荻窪中ができたのは戦後のことで、それ以前は善福寺川との間は水田でした。その用水路であると同時に、右手の段丘は一部、プチ崖線の様相を呈しており、湧水や雨水を集める排水路の機能も担っていたのでしょう。なお、現在は一部が下水道井荻幹線の経路になっています。

 

Onari3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Onaris22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

1116a1116b

    1. 右岸段丘沿いに蛇行しながら南下します。左手は井荻小学校です。

1116c1116d

    2. 区画整理後の路線図を見ると、このあたりで本流に戻る一流があったようです。 

1116e1116f

    3. 荻窪中学校のキャンパスに突き当たって終了です。右写真は耕整橋越しに見た荻窪中です。 

1116g

    4. 元の水路は荻窪中キャンパスの先、女子大通りまででした。左手が荻窪中、地蔵坂と呼ばれる坂下が原寺分橋です。

御成道2

2017-01-26 06:59:48 | 善福寺川1

 善福寺川の右岸段丘沿いを蛇行する、通称御成道の二回目です。本流と同じく井草八幡の南でUターンし、北寄りから南に向きを変えるところです。ところで、このUターンをもたらした右岸の舌状台地一帯は、「新編武蔵風土記稿」に上井草村の小名として収録され、橋名にも残る寺分でした。寺領を意味する普通名詞由来の地名で、当地の場合は「風土記稿」に「薬王院 地頭除地七段、小名寺分にあり」と書かれた、玉王山薬王院がありました。現在は青梅街道沿いの八丁に移転しています。なお、善福寺池畔にあったとされる善福寺、万福寺の寺領が由来との説もあります。

 

Onari1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

1115a

    1. この右折でUターンの頂点を抜け、南に向きを転じます。

1115c1115b

    2. 新町橋に出る通りを越えます。右写真は新町橋から右岸方向で、奥の坂の手前が水路跡の道路です。

1115d

    3. 微妙な蛇行もありますが、ほぼ直線で引き続き南下しています。

1115f1115e

    4. やや右カーブで徐々に右岸段丘に寄ります。

1115h1115g

    5. 左折すると寺分橋に出る通りを越えます。その先の右手が高くなり、段丘の際にあるのが分かります。

御成道

2017-01-25 06:36:00 | 善福寺川1

 善福寺川が善福寺池から流れ出して以来、地図でもそれと分るクネッた道が、右岸段丘沿いを並行しています。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、徳川将軍家が鷹狩の際利用する道の意で、昭和20年(1945年)ころまで「御成道」と通称されていたそうです。区画整理後の様子を現わした例の井荻町路線図には、この道路沿いにも水路が描かれています。

 

Onari1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

1114a

    1. 下池の右岸に沿っていた道が、善福寺公園から出るところから始めます。

1114c1114b

    2. 水路は道路の左手(善福寺川側)を並行していました。

1114e1114d

    3. 八幡西橋を通る道路を越えます。右写真は八幡西橋方向です。

1114f

    4. 善福寺川と同様、右カーブでUターンの頂点に差し掛かります。左手奥の茂みは井草八幡です。

1114g

    5. 道幅が狭くなっていますが、ここで左折して本流に向かう一流があったようです。

寺分橋、耕整橋

2017-01-24 07:01:39 | 善福寺川1

 善福寺川に戻ります。新町橋の次は寺分橋、その次は耕整橋です。大正11年(1922年)の西荻駅開設に際し行われ、後の井荻町区画整理事業の先がけとなった、井荻村第一耕地整理事業時の架橋と思われます。寺分は上井草村の小名で、「新編武蔵風土記稿」に「南の方にて松庵村との界を云」とあり、耕整の方は耕地整理事業によって出来たということでしょう。なお、両者の間に井荻小学校が開校したため、そのキャンパスに阻まれ通り抜けできません。

 

1113a

    ・ 善福寺川  新町橋から下流方向で、正面奥に寺分橋が見えます。井草八幡前のUターンはここで終了、この先しばらくは直線で南下します。

1113b

    ・ 井荻小構内橋  寺分橋から下流方向で、正面に見えるのが井荻小構内橋、屋根つきの橋の先で、善福寺川は井荻小構内に入ります。

 構内の善福寺川は開渠のまま、蔦や藤のつるが絡まるフェンスで覆われていますが、左右の遊歩道はフェンスに阻まれ中断するため、この先は迂回しなければなりません。なお、同校の開校は昭和27年(1952年)、善福寺流域の低湿地に校舎を建てるに当たり、一足早く隣地で開校していた荻窪中の後背地を削り、そのグランドを整備すると同時に、小学校の敷地造成の用土としたことが、「善福寺川風土記」(昭和35年 井荻小学校)に書かれています。

 

1113c

    ・ 善福寺川  迂回した先に架かる耕整橋から下流方向で、正面は荻窪中学校専用橋です。右手の荻窪中学校の開校は昭和22年、当地に新校舎が出来たのは同24年です。

井草八幡

2017-01-23 07:02:02 | 善福寺川1

 井草八幡神社は上・下井草村の鎮守で、古くは遅野井八幡宮とも呼ばれていました。創建は未詳ですが、善福寺川、井草川の水源に挟まれた湧水豊富な地にあり、(およそ4千年前とされる)縄文時代中期の遺跡も発掘されていることから、古くからの神域だったと思われます。源頼朝が奥州遠征の途中立ち寄り、のち建久年間(1190~98年)、八幡神を勧請、その際手植えの松を奉納したとの伝承があります。また文明9年(1477年)、石神井城攻めを前に太田道灌が戦勝を祈願したとも伝えられ、こうした武人がらみの伝承とのかかわりからでしょうか、5年ごとに流鏑馬の神事がおこなわれています。

 

1112a

    ・ 井草八幡大灯篭  青梅街道と早稲田通りの井草八幡前交差点に面して、北参道の大灯篭が建っています。北参道を百数十メートル行き、右手に折れると楼門、その奥が社殿です。

1112b

    ・ 井草八幡境内  神門回廊と奥の社殿は楼門をくぐって右手にあり、南向きに建っています。元は参道、社殿とも一体となって鎌倉(南)に向かっていたとの伝承もあります。

1112c

    ・ 井荻町土地区画整理碑  青梅街道に面した井草八幡境内の一角に、土地区画整理事業の完成を記念し、昭和15年(1940年)に建てられました。

 <嘉陵紀行>  天保3年(1832年)5月9日の日付のある一節です。「遅の井八幡社は、社料九石余青梅街道の南側鳥居建、傍に牓示あり、御朱印地の内馬駕籠通抜無用と記す、此所より社頭迄二丁程、社壇の前に大木の松二本あり、高さ数丈、かこみ三囲に少し不足、龍鱗若木の如く少しも古びなし、大宮八幡宮の松にくらぶればやヽ弟なり、社はかやもてふく、幅五間に二間半ばかり、・・・・」 この後、善福寺池に立ち寄った部分はすでに引用しましたが、また引き返して、観泉寺、妙正寺を経て妙正寺池を見学しています。
 なお、引用中の二本の大松が源頼朝手植えと伝えられる松で、「かこみ三囲に少し不足」とは、大人三人で囲める位ということでしょう。うち一本は明治初年に枯れてしまい、一本のみとなってしまいましたが、それも昭和40年代に枯れ、現在は二代目の松が植えられています。

 


井草八幡南

2017-01-21 07:32:58 | 善福寺川1

  西八幡橋から新町橋までの間、井草八幡のある左岸段丘に突き当たった善福寺川は、Uターンして北東から南東へと向きを変えます。そのほんの200mほどの間に、いずれも一、二ブロックの短いものですが、三本の水路跡が左岸から合流しています。元々、低湿地や水田だったところを宅地造成したので、区画整理時に整備した排水溝の名残だと思われます。

 

Hachiman1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

1111b1111a

    1. 八幡西橋下流の最初の右カーブに、左岸から合流する水路跡があります。ワンブロックで終了です。

1111c

    2. 二本目のものは幅広の道路に含まれて、一見水路跡とは分りません。

1111e1111d

    3. ワンブロック先に車止め付の路地が顔をのぞかせています。

1111g1111f

    4. 水路単独の狭い路地が80mほど続き、井草八幡の境内に突き当たって終了です。

1111i1111h

    5. このワンブロック、コンクリート蓋や車止めはありませんが、土地区画整理組合の路線図に水路として載っています。