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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

西八幡橋、新町橋

2017-01-20 07:42:18 | 善福寺川1

 美濃山橋の次は西八幡橋、そして新町橋で、その間で善福寺川はUターンして南に向きを転じます。この位置に架かる橋に該当するものは、「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)の橋梁リストにはなく、大正末の地図(内務省復興局発行の1/3000測図)に初めて登場します。一般に井荻地域の橋の創架は、大正14年組合結成の井荻村(のち井荻町)土地区画整理事業時に集中していますが、西八幡橋や新町橋は、大正11年の西荻窪駅の開設に伴い、同14年までに駅周辺から青梅街道に至る地域を整備した、井荻村第一耕地整理事業時の架橋です。

 

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    ・ 西八幡橋  善福寺川が美濃山橋の先で左カーブ、北寄りに向きを変える途中からのショットで、正面に西八幡橋、その奥の茂みが井草八幡です。 

 西八幡橋は井草八幡の西寄りに位置することからのネーミングですが、単に八幡橋と呼ばれることもあり、近くの交差点やバス停の名前はそうなっています。なお、江戸開府以前の井草八幡は鎌倉(南)に向かって開き、この付近の善福寺川の川底には、参道に架かる橋脚が残されていた、との伝承があります。(「豊多摩郡神社誌」など) とすれば、西八幡橋から新町橋の間のUターン部分のどこかに、本来の意味の八幡橋が架かっていたことになりますが。

 

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    ・ 善福寺川  西八幡橋と新町橋の間でUターンしますが、その頂点のところです。善福寺川の全行程のなかでもっとも北寄りに当たります。

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    ・ 新町橋  右カーブで南寄りに向きを変える途中に架かるのが新町橋です。なお、新町は上井草村当時からの字で、青梅街道沿いにできた新しい町の意です。

千川上水と善福寺川

2017-01-19 07:48:32 | 善福寺川1

 江戸時代から明治にかけて、善福寺川は千川上水とほとんどかかわりを持ちませんでした。この点は千川上水の助水に依存し、同一視されることが多かった妙正寺川や桃園川と、決定的に違っています。記録上残るただ一つの例外として、青梅街道沿いを流れる七ヶ村(明治以降は六ヶ村)分水が、南四面道口で分岐して下荻窪村の水田を灌漑、その余水が善福寺川に落ちていましたが、これとても明治初年の数字で、下荻窪村の水田7町7反中1町4反を灌漑しているにすぎず、「新編武蔵風土記稿」が同村の用水リストに収録していないほどの小規模なものでした。

 

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    ・ 千川上水合流口  左手からの上水の水は、下池からの水と合流し、奥の水門へと向かいます。池に直接放流していないのは、富栄養化した処理水により生態系が変化するのを避けるためです。 

 それが、善福寺池の湧水が枯渇し、池が干上がった昭和32年(1957年)に、千川上水の水を青梅街道の伊勢橋手前で分岐、地下を導水して人工の遅野井の滝から放流したのを手始めに、平成元年(1989年)以降は、千川上水に放流されている処理水、一日およそ1万トン中7千トンが、善福寺川に流されています。この数字は地下水を汲み上げて善福寺池に注いでいる水量、およそ2千トンを凌駕し、いまや千川上水が善福寺川の最大の水源といってもいいほどになっています。

 

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    ・ 美濃山橋下  上掲写真奥の水門から流れ落ちる善福寺川の起点です。ここからおよそ10.5kmを流れ、杉並、中野の区境に近い和田廣橋先で神田川に合流します。 

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    ・ 善福寺川  最初に架かる美濃山橋から下流方向です。美濃山は→ 「段彩陰影図」で見て取れる、下池を左岸(北側)から望む舌状台地の通称、橋の創架は下池の整備時です。

善福寺池(下池)

2017-01-18 07:25:13 | 善福寺川1

 善福寺池(下池)は江戸時代からある上池と違い、昭和10年代に出来た人工の池です。それまでは→ 「東京近傍図」で見るように、蛇行する川の周辺は葦や真菰が生い茂った沼地で、一部水田となっていました。これは、善福寺池周辺の田全体にいえることですが、胸までつかるくらい深く、丸太を組まないと入れないほどでした。また湧水のため水が冷たく、それやこれやで稲作には不向きだったようで、千川の助水を得ていた「裏田圃」(青梅街道を挟んだ北側の、井草川の谷頭の田圃)と比べ、収穫量も米の質も劣っていたといいます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現在と変わらぬ下池が写っていますが、周囲の整備、公園化は戦後しばらく経ってからのことで、都立善福寺公園の開園は昭和36年(1961年)です。 

 こうした事情が池周辺の公園化を推し進めた面もあったのでしょう。大正末から昭和の初めにかけて井荻町の土地区画整理事業や、昭和5年(1930年)の善福寺風致地区指定を受けて、同14年には用地が確保され、下池が造られたのは戦争中のことです。なお、下池の大きさは、昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で大雑把に計測して、外周520m、面積15000㎡といったところで、同じ計測で外周850m、面積22000㎡の上池よりは一回り小ぶりです。

 

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    ・ 上・下池連絡水路  振り返っての撮影なので、奥が上池方向になります。全部で200m強の水路ですが、上掲写真の時とは異なり、半ばで暗渠となって下池に向かいます。 

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    ・ 下池  下流(東側)からのショットです。葦や真菰の生い茂るワイルドな中の島があり、バードウォッチには最適です。(10年ほど前に撮影したカワセミの写真は→ こちらです。)

渡戸橋

2017-01-17 06:50:30 | 善福寺川1

 善福寺池(上池)から流れ出した川は、すぐに渡戸橋(わたどばし)をくぐります。→ 「上井草村絵図」に描かれた上井草村関係の二つの橋のうちの一つで、村尾嘉陵が井草八幡から善福寺池に向かう途中にあった「石の小橋」も、この渡戸橋のことだと思われます。渡戸は「新編武蔵風土記稿」にも上井草村の小名として収録されていて、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は「池又は湿地を渡ることの出来る浅いところ又は通路の意」としています。ただ、当時から渡戸橋と呼ばれていたかどうかは不明で、「東京府志料」が「善福寺池流」に架かる橋梁として、「石橋二 上井草村ニアリ善福寺橋長七尺五寸幅一間、一ハ長一間二尺幅一間一尺」としているうち、おそらく善福寺橋がそうだと思われます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で大半が杉並区です。

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    ・ 渡戸橋  「善福寺池・五十年の歩み」(平成元年 善福寺風致協会)によれば、かっては長い御影石(「杉並の川と橋」では伊豆石)の板二、三枚を並べた橋で、幅は荷車がやっと通る程度だったといいます。

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    ・ 橋供養の石碑  左カーブで下池に向かう開渠の水路を背景に、橋供養の石碑が立っています。正面には仏像が刻まれ、その下に「千日念佛橋供養佛」とあり、また側面には延享2年(1745年)の日付が刻まれています。

<遅野井村>  善福寺池のある上井草村には、遅野井村の別名がありました。「上井草村は、郡(多摩郡)の北寄りにあり、郷庄の唱なし、村名の起り詳にせず、いかなる故にや、古より遅野井村と唱ふと云、されど公より地頭へ賜ひし御朱印に上井草村とあり、地頭より公へかく書あげしに、村方にては今に遅野井村と云」(「新編武蔵風土記稿」)「いかなる故にや」とありますが、遅野井伝説がかかわっているのは明らかです。一方、井草村に関しては、池周辺にイグサが生えていたといった自然由来説や、村を開拓した(草分け)井口氏にちなんでとの歴史由来説が混在しています。

 


池畔の水路2

2017-01-16 07:16:05 | 善福寺川1

 善福寺池の北側に残された三本の水路跡の続きです。前回「雨水、湧水を善福寺池へ落とす、排水路の機能を有していたものと思われます」と書きましたが、整備されたのは昭和の初めの区画整理に際してです。井荻町土地区画整理組合が事業の成果をまとめた、昭和10年(1935年)発行の小冊子があり、そこに収録された区画整理後の道路、水路状況を記した路線図に、今日確認できるのと同様の水路が図示されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 三本のうち最も西側にある水路跡の路地で、やはり車止めでガードされています。

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    2. ワンブロックの中程で左手からの合流がありますが、とりあえず直進します。

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    3. 直進した先の起点です。右写真は左手(右岸)からのショットで、谷筋が分かります。

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    4. 左折した先の起点です。正面右手の台上には、→ 稲荷神社が祀られています。
  

池畔の水路

2017-01-14 07:03:20 | 善福寺川1

 善福寺池(上池)の北側池畔には、各々ワンブロックだけの短いものですが、三本の水路跡が残されています。「善福寺池・五十年の歩み」(平成元年 善福寺風致協会)の座談会でも話題になっていて、跳び越すことのできる程度の川幅だったようです。同じく北畔にはひょうたん池や小さな湧水池(?)もあったといいます。一帯は、雨のあと土手に葦を刺すと水が噴き出すほどの湿地で、三本の水路はこうした雨水、湧水を善福寺池へ落とす、排水路の機能を有していたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 三本のうち最も東側にある水路跡の路地で、車止めでガードされています。

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    2. ワンブロックで終了です。右写真は善福寺のある左岸台上からのショットです。 

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    3. 中央の水路跡で、やはり車止めでガードされています。1.とは30mほどしか離れていません。 

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    4. こちらもワンブロックで終了です。 

井荻水道

2017-01-13 07:46:50 | 善福寺川1

 関東大震災以降の急激な宅地化に対処するため、大規模な土地区画整理事業を遂行中の井荻町は、その一環として善福寺池畔の地下水を水源に、自前の水道設備を完成させます。いくつかの候補地の中から、調査の結果善福寺池右岸が選ばれ、昭和5年(1930年)に着工、同7年に給水を開始します。当時は井戸二本で地下水を汲み上げていましたが、都水道局杉並浄水所に引き継がれた現在は、深さ15~7m前後の井戸三本があり、一日の給水能力は15000トン、配水実績は6500トンとなっています。

 

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    ・ 取水井  町営水道当時の建物が上池の右岸に二つ並んで建っていますが、その北側のものを対岸から写しています。別項にある「イノハチガマ」のあったのは、この写真のやや右手かと思われます。 

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    ・ 取水井  二つあるうちの南側のものです。なお手前にあるのは内田秀五郎像で、井荻町長として土地区画整理事業を主導、震災後東京全域に広がった同事業の先駆けとなりました。

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    ・ 沈殿池と管理棟  (上掲写真背後の)右岸台上にある扇形の沈殿池ですが、現在は使用されていません。なお、池名の由来となった善福寺は、この台上にあったといわれています。 

 <善福寺池の湧水> 遅野井伝説では、頼朝は自らの弓で七ヶ所の地面を穿ち、そのすべてから清水が湧き出しています。七は多くのの意のレトリックでしょうが、実際、池周辺には多数の「かま」(釜 水の湧く窪みの意)が存在しました。「善福寺池・五十年の歩み」(平成元年 善福寺風致協会)に収録された座談会の中で、「水の湧き出す所はあっちこっちにあって、大きなのは遅野井、イノハチガマ、ギラ、ハシゴヤの前のカマ、その他所々にあった。下の池の方にも二、三あった」との発言もあります。うち「イノハチガマ」は「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)の湧水リストにもある代表的なもので、上記座談会には、いのと八の二人(兄弟とも)が溺れて亡くなったとの伝承や、場所に関する、元弁天(弁天島の東の島で、元はそちらに祀られていた)の南100m位、池の真ん中に架かる一本橋を渡った先、水道官舎の北、といった発言が収録されています。

 


名前の由来

2017-01-12 06:31:48 | 善福寺川1

 「新編武蔵風土記稿」は善福寺池の名前の由来について、次のような伝承を紹介しています。「土人云ふ往古は万福寺、善福寺とて二ヶ寺ありしが、いつの頃か廃絶して今はその跡さえも知れず、其中善福寺は当所向ひの小高き丘にありしにや、昔は此池に橋などありしとみゆ、池中に古き橋杭などありしと云、此善福寺の廃せしは先年大に地震せしとき、池水溢れいで堂宇これが為に破壊に及びしが、遂に再修に及ばず、其名空しくたゞ池の称のみ残れりと、思ふに此時寺をば何へか引移せしものならん」

 

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    ・ 福寿院善福寺  「風土記稿」に「福寿庵 除地五百七十六坪、村の西界にあり、無量山と称す」とあり、昭和になって善福寺と改名しました。伝承の善福寺とのかかわりは、諸説あってよくわかりません。

 善福寺池には遅野井池、善福寺川には遅野井川との別名がありました。こちらは文治5年(1189年)に、源頼朝が奥州遠征をした際の伝承とかかわるものです。渇きに苦しむ軍勢のために、頼朝自ら地面を弓で掘り、全軍が水が湧き出すのを「今や遅し」と待ちわび、やがて湧き出た泉が「遅野井」と呼ばれるようになりました。なお、伝説の湧水、遅野井は真中をくり抜いた直径1.5mほどの石から、絶えることなく湧き出していましたが、昭和30年代に入り涸れてしまいます、同じころ善福寺池の水も減少し、泥沼と化したために、同32年(1957年)に千川上水から導水、さらに数年後には深井戸二本(うち一本は深さ120m、毎時54トンを揚水)を掘り、池の水を確保して現在に至っています

 

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    ・ 遅野井  千川上水から導水したさい、人工の滝をかっての遅野井の場所に設け、その放水口としました。現在は深井戸で汲み上げた地下水が水源となっています。

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    ・ 善福寺弁財天  遅野井の向いに祀られています。観泉寺に伝わる「善福寺弁財天略縁起」は、上述の伝承に続いて、建久8年(1197年)、江ノ島弁財天を勧請して創建と書いています。

善福寺池(上池)

2017-01-11 07:00:21 | 善福寺川1

 善福寺川の水源は善福寺池です。「新編武蔵風土記稿」の上井草村の項に、「善福寺池 青梅街道より南にあたりて村の西の方にあり、其広さ南北三十間余(≒54m)、東西八十間余(≒144m)、廻涯蒹葭(けんか おぎやあしのこと)生じけり、此池より流れ出る一條の水あり、村内をふること凡十五町余にして、流末は上荻窪村にいたり、和田村雑色村の間にて井ノ頭用水に合す」とある池です。明治初年の「東京府志料」では「周廻二百間直径四十間」となっていて、円形に変わったようにもみえますが、直径40間(≒72m)の円では一周200間(≒360m)にははるかに及ばないので、やはり東西に長い形で大きさも同規模だったのでしょう。(数字は1間を1.8mとして計算しています。)

 

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    ・ 「迅速測図 / 上下井草村近傍村落」  現在の善福寺池(上池と下池)を薄いブルーで重ね、グリーンは善福寺公園の範囲です。なお、善福寺池(上池)の現在の大きさは、昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で大雑把に計測して、外周850m、面積22000㎡といったところです。

 「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」の数字は、現在のものと比べるとだいぶ小ぶりですが、「迅速測図」中、くびれたところの上部のみを計測しているためと思われます。たびたびお世話になっている「嘉陵紀行」の作者、村尾嘉陵は、天保3年(1832年)に遅の井八幡宮(井草八幡宮)を訪れた後、善福寺池に足をのばします。「廟前をいでて少しゆく、左に横折て小径をゆけば、田の面を見渡す、風景いとよし、田のふちにそひて少し行けば、向ひ田を横切りて石の小橋を渡る所あり、其橋の南の方一丁たらぬ所、田の畔を隔てて、芦の生たる、足入とも覚しき処有り、是を善福寺の池と云・・・・考ふるに古は石橋有る所より北の方は皆池にてありしを、後追々田にはせし成るべし、近頃迄芦もさまでは茂らざりしに、年々生ひろごりて、いまは水を見る処、はづかばかり田一畝も有べく見ゆ」 石橋は上池の南端に架かる渡戸橋のことと思われます。当時は渡戸橋の付近は田や芦原で、池は1丁(60間≒109m)弱隔てたところにあったと解釈できます。(作者の方向感覚は実際とだいぶズレています。)

 

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    ・  善福寺池(上池)  左手奥に見える弁天島周辺が「新編武蔵風土記稿」の善福寺池の範囲で、その手前はくびれていて、一本橋と呼ばれる丸太橋が架かっていました。(「善福寺池・五十年の歩み」 平成元年 善福寺風致協会)

 一方、大正5年(1916年)の「豊多摩郡誌」では「其の廣さ東西二町二十間(≒252m)、南北四十間(≒72m)、周圍七町三十間許(≒810m)あり」とされ、「迅速測図」の描く形に近い数字になっています。面積は書かれていませんが、2000~2400坪(≒6600~8000㎡)といわれており、それでも現行のものよりだいぶ小さな数字です。上池が現在のような形、大きさになったのは昭和の初めのことで、昭和5年(1930年)に池周辺が風致地区に指定され、同12年のボート場開業時にかけて、公園として整備される過程で拡張されました。なお、下池は沼地や水田だったところを整備したもので、池となったのはやや遅れて昭和10年代のことです。

 


善福寺川

2017-01-10 07:44:24 | 善福寺川1

 「善福寺川は、杉並区の善福寺池に源を持ち、和田堀公園内などを経て同区内で神田川に注ぐ、延長約10.5kmを有する一級河川です。」 東京都建設局のホームページの記述で、別の個所には「流域面積18.3k㎡」という数字も載っています。これを妙正寺川の数字と比較して見ると、「延長約9.7km、流域面積21.4k㎡」なので、同じ神田川の支流として、ほぼ同規模なのがわかります。ただ、妙正寺川はその上流部分に井草川をようし、途中江古田川の合流もあるので、それらを合わせるとより大きな規模になるはずです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 善福寺川」(1/18000)  青梅街道を挟んで、井草川の谷頭も見えています。なお、オレンジで記入したのは練馬区と杉並区の区境で、左下隅は23区外(武蔵野市)となっています。 

 善福寺川の名前は、その源流である善福寺池が由来ですが、定着したのは昭和に入ってからで、陸地測量部の地形図では「昭和4年第三回修正」で初めて採用されています。それ以前は、「新編武蔵風土記稿」では「善福寺池の末流」など、明治初年の「東京府志料」で「善福寺池流」、大正5年(1916年)の「豊多摩郡誌」も同じ「善福寺池流」ですが、「遅野井川ともいふ」と付記されています。一方、「迅速測図」では神田川本流や妙正寺川ともども、「神田上水」となっています。これは、神田上水の補助用水の機能を有していたためで、同時代の史料で「東京市史稿」に収録されたものの中には、「神田上水助水善福寺流」との表現も見られます。なお、善福寺川が神田上水の補助用水となっていたことは、正徳年間(1711~15年)作成とされる「上水図」が、「善福寺池」からの流れを神田上水と同じ色分けで描いていることからも推測できます。

 

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    ・ 善福寺川  善福寺川緑地西端に架かる神通橋からのショットです。ここから和田堀公園の東端に架かる済美橋まで、延長およそ4.2km、面積38.8haに渡って、両岸は都立の緑地公園として整備されています。

 江戸時代から昭和の初めまで、善福寺川の果した最大の役割は、沿岸に拡がる水田に灌漑用水を提供することでした。「新編武蔵風土記稿」の記載によると、善福寺川から田用水を得ていた村は、善福寺池のある上井草村から上荻窪、下荻窪、田端、成宗、堀之内ときて、合流地点の和田、雑色、本郷の各村まで、合計9村を数えます。これに天保11年(1840年)以降は、新堀用水にかかわる馬橋、高円寺、中野の3村を加えなければなりません。それが、大正末から昭和の初めにかけて、区画整理による宅地造成と河川改修によって、生活排水路となっていくわけですが、その過程はこれからのウォーク&ウォッチの中で見ていくるつもりです。